第8話:損益分岐点(ブレーク・イーブン・ポイント)
事故発生から五十時間が経過した。
救助予定まで、あと二十二時間。
車内は、奇妙なほど静かだった。
パニックも、怒号も、泣き声もない。
聞こえるのは、規則正しい呼吸音と、時折響く金属音だけ。
酸素濃度は危険域にあるが、消費量は驚くほど抑えられている。
僕の管理システムは、過去十七回のループの中で、間違いなく最高の数値を叩き出していた。
「……リーダー。ここのボルト、外れたぞ」
金属音の主――権藤が、荒い息をつきながら報告に来た。
彼の右足は丸太のように腫れ上がり、皮膚はドス黒く変色している。
激痛のはずだ。普通なら動くことさえできない。
だが、彼は脂汗を流しながらも、僕の指示通りにハッチの解体作業を続けている。
「ご苦労」
僕は彼に、ペットボトルのキャップ一杯分の水を渡した。
「報酬です」
「……へへ、ありがてぇ」
権藤は震える手でそれを受け取り、大事そうに舐め取った。
そして、媚びるような目つきで僕を見上げた。
「なぁ、先生。俺の足、助かるよな? あんたの言う通りにしてりゃ、治してくれるんだよな?」
「もちろんです」
僕は表情一つ変えずに答えた。
「あなたが役に立つ限り、僕はあなたを見捨てない」
権藤は安堵の表情を浮かべ、再び作業に戻っていった。
滑稽だ。
かつて暴君だった男が、偽りの希望をぶら下げられ、死ぬ寸前まで酷使される家畜に成り下がっている。
彼が作業を終える頃には、毒素が心臓に達して死ぬだろう。
まさに「使い切り」の資源だ。
僕は視線を巡らせる。
他の生存者たち――矢部、学生、時田夫妻、霧島先生。
彼らは一箇所に固まり、じっと座っていた。
手足は縛っていない。
だが、誰も動かない。誰も逆らわない。
僕が「動けば酸素が減る」と命じたからだ。
僕が「逆らえば水をやらない」と学習させたからだ。
「……あの、リーダー」
矢部が小さく手を挙げた。小学生がトイレに行くときのような、怯えた仕草。
「水……飲んでもいいですか?」
「前回から四時間しか経っていません」
僕は時計を見ずに即答した。
「あと二時間我慢してください」
「は、はい……すみません」
矢部は素直に引き下がった。
完璧だ。
恐怖と管理によって、不確定要素は完全に排除された。
彼らは思考を放棄し、ただ生かされるだけの「有機パーツ」になった。
これにより、酸素消費量は最小限になり、生存確率は99%に達した。
これこそが、僕が求めていた「最適解」のはずだ。
……なのに。
胸の奥で、微かなエラー(違和感)が点滅している。
なぜだ?
全員生きている。誰も死んでいない。
前回のループで僕を襲った矢部も、今は従順な羊だ。
誰も傷つかず(権藤以外は)、誰も憎まず(思考停止しているから)、ただ静かに救助を待っている。
これは「成功」ではないのか?
「……相馬さん」
不意に、名前を呼ばれた。
美咲だ。
彼女だけが、このシステムの中で唯一、まだ「人間」の輪郭を保っていた。
彼女は配布された乾パンに手を付けず、膝の上に置いたままだ。
「食べなさい」
僕は命じた。
「君の体は君だけのものじゃない。生存者数を維持するための資産だ。勝手に衰弱死されては困る」
美咲は首を横に振った。
「……いりません」
「反抗期か? 甘えるな」
「違います」
彼女の見えない瞳が、僕の方を向く。
その瞳は、暗闇の中でも澄んでいた。
「ここは、静かすぎます」
美咲が呟く。
「誰も喋らない。誰も怒らない。誰も泣かない。……呼吸の音だけがしています」
「それが効率的だ」
「いいえ」
彼女は断言した。
「みんな、もう死んでいます」
ドクリ。
心臓が跳ねた。
「心臓は動いています。でも、心は死んでいます。……相馬さん、あなたが殺したんです」
彼女は、矢部たちの方を向いた。
「矢部さんの怯え声。時田さんの諦め。権藤さんのすがりつくような声。……私には聞こえます。彼らはもう、自分が人間だとは思っていません。ただの『生きた肉』です」
僕は反論しようとした。
肉で何が悪い。生きていれば勝ちだ。
それが損害査定の基本だ。全損よりは一部損壊の方がマシだ。
だが、言葉が出てこない。
目の前の光景――矢部が、乾いた唇を舐めながら、僕の次の指示を待ちわびている姿――が、異様にグロテスクに見えたからだ。
これは生存か?
僕は彼らを救ったのか?
それとも、彼らの尊厳を剥ぎ取り、魂を殺して、空っぽの容器だけを保存しているのか?
「もう……取り返しがつかないところまで来ています」
美咲が、僕の思考を読んだかのように言った。
「命を守るために支払ったコストが、命の価値そのものを超えてしまいました。……今のここは、墓場よりも空虚です」
エラー音が高まる。
システム警告。仕様不一致。
僕は成功したはずだ。
誰も殺さない(直接的には)方法で、秩序を確立した。
なのに、なぜ前回の「全員死亡(全損)」の時よりも、今の方が寒気がするんだ?
ガガン!!
突然、大きな音が響いた。
権藤が倒れた音だ。
ついに限界が来たらしい。彼は白目を剥いて痙攣している。
「あ……が……」
権藤が手を伸ばす。
誰も動かない。矢部も、医師である霧島先生さえも、僕の許可が出るまで動こうとしない。
彼らは権藤を心配しているのではない。「動いたら怒られる」と思っているのだ。
「……許可する」
僕が声を絞り出すと、ようやく霧島先生が立ち上がり、機械的に脈を取り始めた。
僕はその光景を見て、吐き気を催した。
これが僕の作り上げた王国だ。
従順で、効率的で、死んだ王国だ。
僕は壁に背を預け、ずり落ちた。
手元の水筒を見る。中身はたっぷりある。
だが、それは泥水のように見えた。
計算は合っている。
答えも合っている。
だのに、なぜこんなにも間違っている気がするんだ。
僕は初めて、恐怖以外の感情で震えた。
この「成功」を、あと二十二時間も維持し続けなければならないという、虚無への絶望で。




