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箱舟の独裁者  作者: NN


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8/18

第8話:損益分岐点(ブレーク・イーブン・ポイント)



 事故発生から五十時間が経過した。

 救助予定まで、あと二十二時間。


 車内は、奇妙なほど静かだった。

 パニックも、怒号も、泣き声もない。

 聞こえるのは、規則正しい呼吸音と、時折響く金属音だけ。


 酸素濃度は危険域にあるが、消費量は驚くほど抑えられている。

 僕の管理システムは、過去十七回のループの中で、間違いなく最高の数値スコアを叩き出していた。


「……リーダー。ここのボルト、外れたぞ」


 金属音の主――権藤ごんどうが、荒い息をつきながら報告に来た。

 彼の右足は丸太のように腫れ上がり、皮膚はドス黒く変色している。

 激痛のはずだ。普通なら動くことさえできない。

 だが、彼は脂汗を流しながらも、僕の指示通りにハッチの解体作業を続けている。


「ご苦労」

 僕は彼に、ペットボトルのキャップ一杯分の水を渡した。

「報酬です」


「……へへ、ありがてぇ」

 権藤は震える手でそれを受け取り、大事そうに舐め取った。

 そして、媚びるような目つきで僕を見上げた。

「なぁ、先生・・。俺の足、助かるよな? あんたの言う通りにしてりゃ、治してくれるんだよな?」


「もちろんです」

 僕は表情一つ変えずに答えた。

「あなたが役に立つ限り、僕はあなたを見捨てない」


 権藤は安堵の表情を浮かべ、再び作業に戻っていった。

 滑稽だ。

 かつて暴君だった男が、偽りの希望エサをぶら下げられ、死ぬ寸前まで酷使される家畜に成り下がっている。

 彼が作業を終える頃には、毒素が心臓に達して死ぬだろう。

 まさに「使い切り」の資源だ。


 僕は視線を巡らせる。

 他の生存者たち――矢部やべ、学生、時田ときた夫妻、霧島きりしま先生。

 彼らは一箇所に固まり、じっと座っていた。


 手足は縛っていない。

 だが、誰も動かない。誰も逆らわない。

 僕が「動けば酸素が減る」と命じたからだ。

 僕が「逆らえば水をやらない」と学習させたからだ。


「……あの、リーダー」

 矢部が小さく手を挙げた。小学生がトイレに行くときのような、怯えた仕草。

「水……飲んでもいいですか?」


「前回から四時間しか経っていません」

 僕は時計を見ずに即答した。

「あと二時間我慢してください」


「は、はい……すみません」

 矢部は素直に引き下がった。


 完璧だ。

 恐怖と管理によって、不確定要素ノイズは完全に排除された。

 彼らは思考を放棄し、ただ生かされるだけの「有機パーツ」になった。

 これにより、酸素消費量は最小限になり、生存確率は99%に達した。


 これこそが、僕が求めていた「最適解」のはずだ。


 ……なのに。

 胸の奥で、微かなエラー(違和感)が点滅している。


 なぜだ?

 全員生きている。誰も死んでいない。

 前回のループで僕を襲った矢部も、今は従順な羊だ。

 誰も傷つかず(権藤以外は)、誰も憎まず(思考停止しているから)、ただ静かに救助を待っている。


 これは「成功」ではないのか?


「……相馬さん」


 不意に、名前を呼ばれた。

 美咲みさきだ。

 彼女だけが、このシステムの中で唯一、まだ「人間」の輪郭を保っていた。

 彼女は配布された乾パンに手を付けず、膝の上に置いたままだ。


「食べなさい」

 僕は命じた。

「君の体は君だけのものじゃない。生存者数ヘッドカウントを維持するための資産だ。勝手に衰弱死されては困る」


 美咲は首を横に振った。

「……いりません」

「反抗期か? 甘えるな」

「違います」


 彼女の見えない瞳が、僕の方を向く。

 その瞳は、暗闇の中でも澄んでいた。


「ここは、静かすぎます」

 美咲が呟く。

「誰も喋らない。誰も怒らない。誰も泣かない。……呼吸の音だけがしています」


「それが効率的だ」

「いいえ」

 彼女は断言した。


「みんな、もう死んでいます」


 ドクリ。

 心臓が跳ねた。


「心臓は動いています。でも、心は死んでいます。……相馬さん、あなたが殺したんです」


 彼女は、矢部たちの方を向いた。

「矢部さんの怯え声。時田さんの諦め。権藤さんのすがりつくような声。……私には聞こえます。彼らはもう、自分が人間だとは思っていません。ただの『生きた肉』です」


 僕は反論しようとした。

 肉で何が悪い。生きていれば勝ちだ。

 それが損害査定アセスメントの基本だ。全損よりは一部損壊の方がマシだ。


 だが、言葉が出てこない。

 目の前の光景――矢部が、乾いた唇を舐めながら、僕の次の指示を待ちわびている姿――が、異様にグロテスクに見えたからだ。


 これは生存か?

 僕は彼らを救ったのか?

 それとも、彼らの尊厳を剥ぎ取り、魂を殺して、空っぽの容器だけを保存しているのか?


「もう……取り返しがつかないところまで来ています」

 美咲が、僕の思考を読んだかのように言った。


「命を守るために支払ったコストが、命の価値そのものを超えてしまいました。……今のここは、墓場よりも空虚です」


 エラー音が高まる。

 システム警告。仕様不一致。


 僕は成功したはずだ。

 誰も殺さない(直接的には)方法で、秩序を確立した。

 なのに、なぜ前回の「全員死亡(全損)」の時よりも、今の方が寒気がするんだ?


 ガガン!!


 突然、大きな音が響いた。

 権藤が倒れた音だ。

 ついに限界が来たらしい。彼は白目を剥いて痙攣している。


「あ……が……」

 権藤が手を伸ばす。

 誰も動かない。矢部も、医師である霧島先生さえも、僕の許可が出るまで動こうとしない。

 彼らは権藤を心配しているのではない。「動いたら怒られる」と思っているのだ。


「……許可する」

 僕が声を絞り出すと、ようやく霧島先生が立ち上がり、機械的に脈を取り始めた。


 僕はその光景を見て、吐き気を催した。

 これが僕の作り上げた王国だ。

 従順で、効率的で、死んだ王国だ。


 僕は壁に背を預け、ずり落ちた。

 手元の水筒を見る。中身はたっぷりある。

 だが、それは泥水のように見えた。


 計算は合っている。

 答えも合っている。

 だのに、なぜこんなにも間違っている気がするんだ。


 僕は初めて、恐怖以外の感情で震えた。

 この「成功」を、あと二十二時間も維持し続けなければならないという、虚無への絶望で。

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