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箱舟の独裁者  作者: NN


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第6話:損切り(カット・ロス)


 空気の味が変わった。

 酸っぱいような、鉄錆のような味。

 二酸化炭素濃度の上昇が、僕たちの血液を酸化させているのだ。


 権藤ごんどうが死んでから、おそらく六時間が経過した。

 限界だ。

 これ以上の時間は、ただの拷問でしかない。


「……ハァ、ハァ……」


 足元で、美咲みさきの呼吸音が変わった。

 笛を吹くような、高く細い音。喘息の発作が本格化している。

 彼女は喉元をかきむしり、空気を求めて唇をパクパクとさせている。見えない瞳から、生理的な涙が溢れ出している。


 見ているだけで、僕の肺まで縮み上がるようだ。

 彼女の苦しみは、あと数時間は続くだろう。意識を失い、痙攣し、心臓が止まるまでの長い時間。

 その間、僕はここで縛られたまま、特等席で彼女の地獄を鑑賞し続けるのか?


(……否だ)


 損切り(カット・ロス)すべきだ。

 このループはもう「不良債権」だ。保有し続けるだけで、精神的コストが確実に削られていく。

 ならば、今すぐ決済して、次の市場ループへ向かうべきだ。


 僕は顔を上げ、闇の奥を見た。

 矢部やべが座り込んでいる。

 彼は権藤の遺体から奪ったウイスキーの瓶を抱え、ブツブツと独り言を呟いていた。


「……助けろよ……なんで来ないんだよ……俺は客だぞ……」


 幻覚を見ている。ナルコーシスの症状だ。

 彼の正気はすでに崩壊し、可燃性の狂気だけが残っている。

 使える。


「矢部さん」

 僕は声をかけた。喉が張り付いて痛むが、努めて冷静に、悪魔の囁きのように。


「……あ?」

 矢部が虚ろな目でこちらを向く。

「なんだよ、アジャスター……。お前、まだ生きてんのか……」


「生きていませんよ」

 僕は嘘をついた。いや、ある意味では真実だ。

「僕たちはもう、死んでいます。ここは地獄の入口です」


「は……? 何言ってんだ……」

「気づきませんか? 空気が重いでしょう。手足が痺れるでしょう。……それは、肉体が死を受け入れ始めている証拠です」


 矢部が自分の手を見る。震えている。

 恐怖が伝播する。判断能力のない脳に、都合のいい絶望を流し込む。


「外の救助隊なんて来ない。……彼らは僕たちを見捨てたんです。汚いものを見るように、蓋をしたんです」

「嘘だ……嘘だッ!」

「本当です。……だって、臭うでしょう? 腐った臭いが」


 権藤の死臭。

 それが僕の言葉に説得力を持たせる。


「このままでは、僕たちはウジ虫の餌になるだけです。……矢部さん。あなたはそれでいいんですか? 人間としての尊厳を捨てて、腐り果てるのを待つんですか?」


「いやだ……いやだあああ!」

 矢部が頭を抱えて絶叫する。

 計算通りだ。彼の恐怖パニックは沸点に達している。あとは、引き金を引くだけだ。


 僕は、矢部が胸ポケットに入れている物を知っていた。

 彼が権藤から奪ったもの。

 100円ライターだ。


「……浄化しましょう」

 僕は囁く。

「火は、すべてを清めてくれます。腐った臭いも、この苦しみも、すべて消してくれます」


「火……」

 矢部が顔を上げる。その瞳に、狂気の光が宿る。

 彼はウイスキーの瓶を見た。

 アルコール度数40度。引火すれば、この密閉空間の酸素を一瞬で食らい尽くすだろう。


「そうか……そうだな……。燃やせばいいんだ……」

 矢部が立ち上がる。

 ふらつく足取りで、布切れの山――かつて僕たちが集めた荷物――に酒を振りまき始める。


「やめて!」

 叫んだのは、霧島きりしま先生だった。

 彼女は脱水症状で動けない体を引きずり、止めようとする。

「火を使ったら、一酸化炭素中毒で死ぬわ! 全員死ぬのよ!」


 正論だ。

 だが、狂人には届かない。

 矢部は霧島先生を蹴り飛ばした。

「うるせぇ! 寒いんだよ! 暖まるんだよ俺は!」


 カチッ。

 ライターの石を擦る音がした。

 小さな火花が、暗闇の中で瞬く。


 僕は目を逸らさない。

 これは僕がそそのかした殺人だ。

 僕の手は縛られているが、その舌は、彼らの命を奪うナイフになった。


「……相馬さん」


 足元で、美咲が僕を見上げていた。

 発作でヒューヒューと喉を鳴らしながら、彼女の見えない瞳が、僕を射抜いていた。


「あなたが……やらせているんですね?」


 心臓が凍りついた。

 彼女には、わかっていた。

 僕が矢部を煽り、意図的に破滅へ導いたことを。


「……ごめん」

 僕は初めて謝罪した。

 救うためじゃない。殺すことへの謝罪を。


「君を、これ以上苦しませたくないんだ。……楽にしてあげたいんだ」


 それは、身勝手なエゴだ。

 僕が君の苦しむ姿を見たくないだけだ。

 彼女は僕の言葉を聞いて、苦しげに、けれど優しく微笑んだ。


「……相馬さんは、泣き虫ですね」


 ボッ!!


 爆発音がした。

 気化したアルコールに引火したのだ。

 オレンジ色の炎が、矢部の足元から一気に天井へと駆け上がる。


「あちぃ! あちぃいい!」

 矢部が火だるまになって転げ回る。

 車両内が灼熱地獄へと変わる。

 煙。熱気。そして、急激に薄れていく酸素。


 美咲が激しく咳き込む。

 僕は縛られたまま、体を折り曲げ、彼女に覆いかぶさろうとした。

 熱から守るためではない。せめて、最期の瞬間に抱きしめるために。


 だが、届かない。

 数センチの距離が、無限に遠い。


 炎の明かりの中で、美咲が何かを言おうとして、口を開いた。

 しかし、声にはならなかった。

 カクン、と彼女の首が落ちる。


 死んだ。

 窒息か、ショック死か。

 どちらにせよ、僕が殺したのだ。


 僕の視界も霞んでいく。

 熱い。苦しい。

 肺が焼けるようだ。


 ああ、これが地獄の業火か。

 悪くない。

 僕のような「査定人(死神)」には、お似合いの末路だ。


 意識が溶けていく。

 世界が黒く塗りつぶされる直前、僕は祈った。


 次こそは、誰も殺さない。

そんな誓いが、どれほど安いか。

僕はもう、知っている。


 ドォォォォォォン!!


 十五回目の衝撃音が、世界をリセットした。

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