第5話:減価償却(デプリシエーション)
第5話:減価償却
地獄に時計は必要ない。
人体の生理反応を見れば、経過時間は正確に算出できるからだ。
拘束されてから、およそ十二時間が経過した。
トータルで、事故発生から三十六時間。折り返し地点だ。
車内の酸素濃度は、危険域に突入しつつある。
それを証明するように、矢部たちの口数は劇的に減っていた。
彼らは床に寝転がり、魚のように口を開けて、浅く速い呼吸を繰り返している。
二酸化炭素ナルコーシス(中毒)の初期症状。
頭痛、倦怠感、そして思考能力の低下。
皮肉な話だ。
矢部たちは「自由」を手に入れ、食料を貪り、動き回ったせいで、代謝が上がり酸素を浪費した。
対して僕は、手足を縛られ、食料も与えられず、ただじっとしていたおかげで、代謝は極限まで低下している。
結果として、この空間で最も意識がクリアなのは、皮肉にも「拘束された独裁者」である僕だけだった。
(……矢部。脈拍数110超。チアノーゼ反応あり。あと十時間持たない)
(学生。過呼吸の傾向。パニックを起こせば一気に縮まる)
(霧島先生。冷静に呼吸を制御しているが、脱水症状が出ている)
やめろ。
僕は脳内で叫ぶ。
計算するな。査定するな。
もう僕に管理権限はない。見ても意味がない。
けれど、職業病とも言える僕の知性は、勝手に他人の余命を弾き出し、その数字がゼロになるまでのカウントダウンを脳裏に表示し続ける。
これは呪いだ。
何もできないのに、結末だけが見えてしまう、予言者の呪いだ。
「……あ、あ……」
足元で、権藤が呻いた。
彼の「資産価値」が、ゼロになる時が来たようだ。
右足の壊死は股関節まで達している。
腐敗臭が充満し、換気のない車内を汚染している。
矢部たちは鼻をつまんで顔を背けているが、死臭から逃れる体力すら残っていない。
権藤の手が、虚空を掴むように震える。
熱にうなされ、焦点の合わない目で天井を見つめている。
「……み、ず……」
掠れた声。
水はある。
矢部たちが奪ったボトルが、まだ半分残っている。
だが、矢部は動かない。
自分の命を繋ぐ水を、もう助からない人間に分ける余裕などない。
それが、彼らの選んだ「合理性」だ。
権藤の手が、ダラリと落ちる。
その手を、誰かがそっと包み込んだ。
美咲だ。
彼女はずっと、あの悪臭を放つ肉塊のそばを離れなかった。
「……ここにあります」
美咲は、自分の服の袖をちぎり、結露した窓ガラスに押し付けて水分を含ませると、それを権藤の干からびた唇に当てた。
わずかな湿り気。
何の足しにもならない、一滴の慈悲。
それでも、権藤の表情がわずかに緩んだ。
かつて「弱者は死ね」と豪語し、美咲を罵倒していた男。
その男が、最期に触れたのは、自分が切り捨てようとした弱者の手だった。
ヒュー……。
喉の奥から、空気が漏れる音がした。
胸の動きが止まる。
死亡確認。
僕の脳内カルテが、無慈悲にスタンプを押す。
権藤猛。死因:多臓器不全。
静寂が戻る。
いや、静寂ではない。死体が一つ増えたという事実が、空間の圧力を変えたのだ。
有機物が物体へと変わる瞬間。
それは恐怖の感染源となる。
「……死んだのか?」
矢部が、ひきつった声で聞いた。
誰も答えない。
美咲だけが、動かなくなった権藤の手を、まだ握っている。
「おい、なんとかしろよ!」
矢部が叫び、そして僕を見た。
「アジャスター! お前、言ってたよな! 腐る前に隔離しろって! これ、どうすんだよ!」
責任転嫁。
自分でリーダーの座を奪っておきながら、都合が悪くなると前任者に判断を委ねる。
あまりに浅ましく、そして人間的だ。
僕は渇いた喉を鳴らし、掠れた声で答えた。
「……知るか」
「あ?」
「君がリーダーだ。君が決めて、君が運べ。……僕には、縄を解く力すらない」
矢部は顔を真っ赤にして何か言い返そうとしたが、立ちくらみを起こしてよろめいた。
もう、彼には死体を引きずって水没エリアまで運ぶカロリー(体力)は残っていないのだ。
死体はここに残る。
腐敗が進み、ガスを出し、ただでさえ少ない酸素を汚染していく。
僕たちは、死体と同居しながら、ゆっくりと窒息していくしかない。
(……次のループ)
僕の思考は、逃避するように未来(次)へ向かう。
この回は失敗した。全損だ。
なら、やり直せばいい。
次はもっと上手くやる。権藤の足を守り、時田夫妻を説得し、矢部を制御する。
次は、彼女の喉が鳴る前に
だが。
思考の隅で、冷たい事実が首をもたげる。
リセット条件は「全滅」だ。
まだ、生きている人間がいる。
矢部も、学生も、霧島先生も。そして僕も。
全員が死に絶えるまで、あと何時間かかる?
二十時間? 三十時間?
その間、僕はここで縛られたまま、彼らが一人ずつ狂い、窒息し、糞尿を垂れ流して死んでいく様を、特等席で見続けなければならない。
そして何より。
僕は視線を横に向ける。
闇の中で、権藤の遺体に寄り添う少女のシルエット。
美咲。
彼女もまた、死ななければならない。
僕が「時を戻したい」と願うことは、すなわち「彼女に早く死んでほしい」と願うことと同義だ。
彼女の肺が空気を求め、喉を掻きむしり、その美しい瞳が見開かれたまま光を失う瞬間を、僕は待ち望まなければならない。
吐き気がした。
胃の中に何もないのに、胃液だけが逆流する。
僕は、究極の矛盾の中にいた。
彼女を救うためには、彼女の死を見届けなければならない。
彼女を生かすための計算式には、彼女の死体が必要不可欠な変数として組み込まれている。
「……う、うう……」
美咲の肩が震えた。
泣いているのではない。咳き込んでいるのだ。
酸素不足が、彼女の喘息を刺激し始めている。
ヒュー、ヒュー。
その苦しげな呼吸音が、僕の鼓膜をノックする。
それは、僕への死刑宣告のカウントダウンだった。
僕は目を閉じることさえ許されない。
損害査定人の仕事は、損害が確定するその瞬間まで、対象から目を逸らさないことなのだから。




