第4話:債務不履行(デフォルト)
王権の交代は、手続き(プロセス)すら必要としなかった。
暴力の独占権を失った独裁者がどうなるか。
歴史の教科書を紐解くまでもない。
「立てよ、アジャスター」
矢部が僕の襟首を掴み、立たせる。
彼の背後には、二人の男――さっきまで僕の指示に怯えて従っていたサラリーマンと学生――が立っている。彼らの目は、恐怖から解放された獣のそれだった。
「荷物を改めさせてもらうぞ。……お前が隠し持ってる分もな」
抵抗はしなかった。
無意味だからだ。僕にはもう、彼らを脅すカード(権藤)も、彼らを納得させる論理(信用)もない。
ポケットから手帳、ボールペン、そして懐中電灯が奪われる。
さらに、バッグの中に入っていた予備の水と、僕自身の分のカロリーメイトも没収された。
「おい見ろよ! こいつ、自分だけ予備のバッテリーまで持ってやがった!」
「うわ、汚ねぇ!」
罵声が飛ぶ。
それは予備ではない。七十二時間を生き抜くために計算された、必要最低限の備蓄だ。
だが、今の彼らにそんな説明は通じない。
彼らにとって僕は、私腹を肥やしていた悪徳管理者以外の何者でもないのだから。
僕は車両の隅、連結部のドアノブに、自分のネクタイとベルトで拘束された。
かつて美咲が座っていた、最も寒く、湿った場所。
僕はそこに転がされ、ただの「不良債権」として計上された。
それから始まったのは、愚者たちの晩餐だった。
「みんな、食っていいぞ! これは俺たちのモンだ!」
矢部が高らかに宣言し、備蓄食料の袋を開けた。
歓声が上がる。
計算も、配分もない。
ただ「腹が減ったから食う」「喉が渇いたから飲む」。
動物的な欲求の解放。
バリバリ、ゴクゴク。
咀嚼音と嚥下音が、僕の耳を苛む。
(馬鹿な……)
僕は縛られた手で拳を握りしめた。
その水は、あと二日は持たせなければならない量だ。
そのチョコは、血糖値が下がった時の緊急用だ。
今、腹一杯になるまで食べてどうする。満腹になれば消化のために酸素消費量が増える。排泄のリスクも高まる。
自殺行為だ。
彼らは、自分たちの寿命を前借りして、食い潰している。
「おい、そこの眼鏡!」
矢部が、霧島先生を怒鳴りつけた。
「お前もこっち来いよ。医者なんだろ? こいつ(権藤)がうるせぇんだよ。黙らせろ」
床に転がる権藤は、うわ言のように呻き続けていた。
右足は紫色に腫れ上がり、腐敗臭が漂い始めている。
霧島先生は無表情に矢部を見返し、静かに言った。
「治療法はありません。モルヒネも、もう彼には効かない」
「じゃあどうすんだよ! 臭ぇし、気味悪ぃんだよ!」
矢部が権藤の腹を蹴った。
権藤が「ぐぅ」と苦悶の声を漏らす。
僕は目を逸らしたくなった。
矢部のこの暴虐。
それは、数時間前まで僕がやっていたことの、醜悪なパロディだ。
「役に立たない人間は切り捨てる」「不快なノイズは排除する」。
僕が植え付けた論理が、最も粗野な形で運用されている。
矢部の言葉が、かつての自分の台詞と重なる。
僕が作った地獄だ。
この光景の著作者は、間違いなく僕なのだ。
「……捨てちまおうぜ」
誰かが言った。
その一言に、空気が凍りついた。
「え?」
「だから、そこの水没エリアによ。……どうせ死ぬんだろ? あの爺さん(時田)と一緒にしとけばいいじゃん」
提案したのは、気弱そうな学生だった。
恐怖が、倫理のタガを外させている。
「死体を片付ける」のと「瀕死の人間を捨てる」ことの境界線が、彼らの中ですでに曖昧になっていた。
「そ、そうだな……。酸素の無駄だしな」
矢部が同意する。
彼らは、僕の真似をしようとしている。
合理性という名の免罪符を掲げて、殺人を正当化しようとしている。
やめろ。
それは僕の専売特許だ。
お前たちがやっていいことじゃない。計算なき虐殺は、ただの野蛮だ。
叫ぼうとしたが、喉が渇きついて声が出なかった。
今の僕には、止める資格がない。
男たちが権藤の手足を掴む。
「離せ……ッ! 殺すぞ……!」
権藤が抵抗するが、弱りきった力では振りほどけない。
かつての王が、ゴミのように引きずられていく。
その時。
ドン。
鈍い音がして、男たちの足が止まった。
美咲だった。
彼女は手探りで移動し、水没エリアへの通路――権藤が投げ込まれようとしている場所――の前に座り込んでいた。
「……どけよ、姉ちゃん」
矢部が苛立ちを隠さずに言う。
「お前だって、こいつに散々いじめられただろ? 助けてやる義理なんてねえはずだ」
美咲は、見えない瞳で矢部の方を向き、静かに首を横に振った。
「通りたいなら、私を踏んでいってください」
透き通るような声だった。
威圧感などない。懇願ですらない。
ただの事実の提示。
「私は目が見えません。抵抗もできません。……だから、この人を捨てるなら、私も一緒に捨ててください。私だけ生き残るのは、嫌です」
矢部がたじろぐ。
彼らは「役に立たないから捨てる」という理屈で動こうとしていた。
だが、美咲は自らを「捨てるべき弱者」として人質に差し出した。
権藤を殺すなら、この無抵抗な少女も殺さなければならない。
その一線を超えられるか?
矢部たちの顔に、迷いが生じる。彼らはまだ、僕ほどの怪物にはなりきれていない。
「……チッ」
矢部は舌打ちをして、権藤の手を離した。
ドサリと権藤が床に落ちる。
「勝手にしろ! その代わり、お前らにやる飯はねえからな!」
矢部たちは吐き捨て、車両の中央へと戻っていった。
処刑は回避された。
けれど、それは解決ではない。
権藤は瀕死のままだし、美咲は食料供給を絶たれた。
そして僕は、縛られたまま、その一部始終を見ていることしかできなかった。
車内の灯りが消された。
懐中電灯の電池を節約するためだ。
完全な闇と、静寂が訪れる。
聞こえるのは、権藤の苦しげな呼吸と、満腹になって眠る矢部たちのイビキ。
そして、時折聞こえる水滴の音。
僕は、冷たい床に頬をつけていた。
右手の感覚がない。きつく縛られすぎている。
気配がした。
誰かが、闇の中を這ってくる。
「……相馬さん」
美咲の声だ。
彼女は、権藤のそばから、僕の方へ移動してきたのだ。
彼女の手が、僕の肩に触れる。
「……何だ」
僕は突き放すように言った。
「僕はもうリーダーじゃない。君にやる食料も持っていない。……あっちに行け」
彼女は離れなかった。
代わりに、僕の縛られた手に触れ、その結び目を確かめるように指を這わせた。
解こうとしているのではない。
ただ、その不自由さを確認しているようだった。
「……誰も、いなくなりましたね」
彼女が呟く。
「権藤さんも、時田さんも……そして、あなたも」
その言葉は、不思議と腑に落ちた。
そうだ。僕はもう「いない」も同然だ。
この空間における僕の価値はゼロになった。
誰も僕の言葉を聞かない。誰も僕を必要としない。
僕はただ、酸素を消費するだけの「有機物」になった。
「……ねえ、相馬さん」
美咲が、僕の耳元で囁く。
その声は、歌う時と同じくらい、残酷に優しかった。
「次の『計算』は、いつ始まるんですか?」
心臓が止まるかと思った。
彼女は見えない目で、僕を見下ろしている。
暗闇の中で、彼女の気配だけが濃密に膨れ上がる。
彼女は知っているのか?
僕が時を戻せることを。
そして、この無様な敗北さえも「リセット」して、次の地獄を始めようとしていることを。
僕は何も答えられなかった。
ただ、自由を奪われた手の中で、砕けた腕時計の破片が、チクリと皮膚に刺さる感触だけを感じていた。
箱舟は漂流する。
舵を取る者は、もう誰もいない。




