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箱舟の独裁者  作者: NN


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第3話:埋没費用(サンクコスト)


 エラー音が、脳内で鳴り止まない。


 霧島きりしま先生の宣告を聞いた後も、僕は平然とした顔で元の席に戻った。

 背中を冷や汗が伝う。心拍数は上昇しているが、表情筋だけは凍りつかせたまま。


 権藤ごんどうを見る。

 彼は奪った水をラッパ飲みし、満足げにゲップをした。

 その右足。作業ズボンの裾が、不自然に張っている。

 ……事実だ。腫れ上がっている。

 筋肉が壊死し、カリウムという名の猛毒が血管を巡り始めている。


(あと二十四時間。……いや、もっと早いかもしれない)


 計算式を再構築する。

 権藤が死ねば、重さ二百キロの歪んだハッチを開ける手段を失う。

 他の男性生存者(矢部たち)を束ねて挑むか?

 不可能だ。今の彼らは栄養失調と恐怖で衰弱しきっている。それに、ここまでの僕の独裁によって、彼らの心は折れている。


 僕が唯一持っているカードは「権藤」という暴力装置だけ。

 このカードが破ければ、僕はただの「嫌われ者の独裁者」として、暴動の最初の生贄になるだろう。


「おい、リーダー」

 権藤が気安く声をかけてきた。

「腹減ったな。……さっきのジジババの分、まだあるんだろ? よこせよ」


 僕は一瞬、時田ときた夫妻の方を見た。

 夫人は、意識の朦朧とした夫の手を握り、静かに目を閉じている。

 彼らが差し出した食料。

 あれは「若者を生かすため」の聖なる犠牲だったはずだ。


 それを、あと数時間で死ぬ人間に食わせるのか?

 ドブに捨てるのと同じではないか?


「……ああ、そうだね」

 僕は乾いた声で答え、残りのチョコレートと乾パンを権藤に投げ渡した。


 投資だ。

 そう自分に言い聞かせる。

 すでにコスト(時田夫妻の命)は支払った。ここで投資を止めるわけにはいかない。権藤には一秒でも長く稼働してもらわなければ困る。


 権藤は包装紙を破り、貪るように食らった。

 バリボリという咀嚼音が、静まり返った車内に響く。

 それは、人間の尊厳が粉砕される音に聞こえた。


 美咲みさきが、耳を塞ぐように小さく身を震わせたのが見えた。


 異変が起きたのは、それから六時間後だった。


 車内の空気が淀み、酸素濃度の低下による頭痛を全員が感じ始めていた頃。

 時田夫人の、押し殺したような嗚咽が漏れた。


「……あなた。……あなた」


 夫の胸が動いていない。

 最初の死者が出た。


 当然の結果だ。インスリンを打ち、適切な食事を摂っていれば、まだ生きられた。

 僕が殺したのだ。

 間接的にではない。僕が能動的にリソースを断ち、死へと誘導した。


 車内が凍りつく。死の匂いが充満する。

 矢部が青い顔で後ずさり、嘔吐した。

 パニックの連鎖が始まる――その直前。


「へっ、やっとくたばったか」


 空気を読まない、野卑な声。

 権藤だった。

 彼は口元についたチョコを拭いながら、鼻を鳴らした。

「酸素の無駄遣いが減って清々するぜ。なあ、リーダー?」


 全員の視線が僕に刺さる。

 軽蔑。恐怖。嫌悪。

 当然だ。ここで権藤をいさめるのが、人間としての反応だ。

 だが、僕は独裁者だ。暴力装置のご機嫌を取らなければ、この体制は維持できない。


「……そうだな」

 僕は無表情に同意した。

「遺体は腐敗してガスを出す前に、水没エリアへ隔離しよう。……権藤さん、頼めますか」


「おいおい、人使いが荒いねぇ」

 権藤は悪態をつきながらも、立ち上がろうとした。


 その時だ。


「ぐっ……!?」


 権藤の膝が折れた。

 巨体が床に崩れ落ちる。

 ドスン、という重い音が、僕の心臓を直撃した。


「いってぇ……なんだこれ、足が……足が動かねぇ!」

 権藤が右足を抱えて転げ回る。

 顔色は土気色。脂汗が滝のように流れている。

 急性腎不全の症状。クラッシュ・シンドロームが牙を剥いた。


「どうした、権藤さん!」

 僕は駆け寄るフリをして、彼の脈を取った。

 速い。不整脈が出ている。

 霧島先生と目が合う。彼女は静かに首を横に振った。

 『もう駄目よ』という合図だ。


「あ、足が……焼けるようだ……! おい、医者! なんとかしろ!」

 権藤がわめき散らす。

 最強の生存者は、一瞬にして「ただのやかましい荷物」に成り下がった。


 終わった。

 僕の計画は、完全に破綻した。


 時田さんの命を削ってまで維持したエンジンが、何の役にも立たずにスクラップになった。

 これまでの非道な振る舞い、切り捨てた良心、それら全てが「無駄」になったのだ。


「……ふ、ふふ」


 笑い声が聞こえた。

 矢部だ。

 気弱なサラリーマンだった男が、歪んだ笑みを浮かべて立ち上がっていた。


「見ろよ。……罰が当たったんだ」

 矢部の目が血走っている。

 彼は、今まで自分を虐げてきた暴君の失墜を見て、狂喜していた。

「おい、みんな見ろよ! こいつ、もう動けねえぞ! ざまあみろ!」


 抑圧されていた生存者たちの空気が変わる。

 恐怖が、攻撃的な熱狂へと反転する。

 彼らは権藤を囲み、そしてその矛先は、当然のように「参謀」である僕にも向く。


「あんたもだ、アジャスター」

 矢部が僕を指差す。

「偉そうに仕切ってたけどよ、結局これか? 人殺し損じゃねえか」


 正論だった。

 反論の余地もない、完璧な正論だった。

 僕は計算機を落とした査定人だ。ただの無能な犯罪者だ。


 矢部が一歩、僕に近づく。

 暴力の主導権が移る。

 このままでは、リンチにされる。


 その殺伐とした空気を切り裂いたのは、

 透き通るような、歌声だった。


 『アメイジング・グレイス』。

 讃美歌だ。


 美咲だった。

 彼女は時田さんの遺体の横にひざまずき、彼の手を握って歌っていた。

 争いを止めるためではない。

 ただ、死者の魂を鎮めるためだけに。


 その歌声は、汚れた車内を浄化するように響き渡った。

 矢部が立ち止まる。

 苦しむ権藤さえも、うめき声を止めて息を呑む。


 僕は、動けなかった。

 その歌声は、僕への断罪レクイエムのように聞こえた。


 美咲は、歌い終わると、見えない目で虚空を見つめ、静かに言った。


「……相馬さん。聞こえていますか」


 彼女の声は、相変わらず震えていた。

 けれど、それは恐怖の震えではなかった。


「あなたの心臓の音が、悲鳴を上げています」


 彼女は知っていたのだ。

 僕が冷徹な独裁者を演じながら、その内側で誰よりも怯え、後悔し、血を流していることを。

 見えない彼女だけが、僕の「全損」した心を見ていた。


 僕は膝をついた。

 権藤は動かない。時田さんは死んだ。

 何も握っていない手を見る


 これが、僕が導き出した「最適解」の成れの果てだ。

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