第2話:不確定要素の排除(バグ・フィックス)
支配体制を確立するのに要した時間は、わずか十分だった。
カロリーメイトの箱を握りしめた権藤は、その凶悪な体躯を誇示するように車内の中央に座り込んだ。
彼の横には、バールが突き立てられている。
それは無言の宣言だった。「俺がこの空間の王だ」という。
そして僕は、その王に知恵を授ける参謀の座に収まった。
「おい、アジャスターの兄ちゃんよ」
権藤が口の周りに食べかすをつけたまま、僕を呼ぶ。
「次は何だ? 俺とお前が助かるための『計算』ってやつを聞かせろよ」
生存者たちの視線が僕に集まる。
恐怖、疑惑、そして微かな期待。
彼らはまだ知らない。僕の計算式の中に、すでに彼らの半数が「死者」として計上されていることを。
「まずは在庫確認です」
僕は感情を殺した声で告げた。
「全員の荷物をここに集めてください。食料、水、懐中電灯、医薬品。すべてを再分配します」
「ふざけるな!」
叫んだのは、矢部というサラリーマンだった。
「なんでお前らに従わなきゃならない! これは俺の荷物だ! 警察が来たら訴えてやるぞ!」
矢部。生存スペックDランク。
過去のループでは、彼が隠し持っていたスナック菓子の袋を開ける音で、深夜に殺し合いが発生したことがある。予測不能なノイズ。
「訴える? どうぞ」
僕は冷たく言い放つ。
「ただし、救助が来るまで生きていればの話ですが」
「なんだと……」
「今の酸素濃度は低下し始めています。無駄に叫んで酸素を消費するなら、あなたには『退場』願うしかない」
僕が目配せすると、権藤がニヤリと笑い、バールを持って立ち上がった。
矢部の顔が引きつり、膝から崩れ落ちる。
恐怖による統制。
もっとも効率的で、もっとも醜悪な管理方法。
次々と荷物が集められる。
その作業の中、僕は視界の端で、美咲を見た。
彼女は壁際に背を預け、膝を抱えている。杖は失われたままだ。
彼女は何も持っていない。差し出す食料も、明かりも、視力さえも。
今の彼女は、ただ空気を消費するだけの「負債」だ。
(……見るな)
僕は自分に命じる。
彼女の聴覚は脅威だ。僕の迷いすら音で聞き分けるかもしれない。
僕は鉄の仮面を被り直す。
集められた物資を仕分けながら、僕は最初の「間引き(リストラ)」を実行に移すことにした。
ターゲットは、時田夫妻。
七十代の老夫婦だ。
「時田さん」
僕が名前を呼ぶと、身を寄せ合っていた二人が顔を上げた。
夫の方は顔色が土気色で、荒い呼吸をしている。
「インスリン、持っていますね?」
夫人がハッとして、バッグを抱きしめた。
「……どうして、それを」
「見ればわかります。低血糖の症状が出始めている。……単刀直入に言います。インスリンを打つなら、その分の糖質補給が必要です。ですが、我々の食料備蓄は極めて少ない」
僕は、集められた食料の山――チョコレート数枚と、乾パン一袋、飲みかけの水数本――を指差した。
「この食料を、ご主人の延命のために優先的に消費するか。それとも、未来ある若者のために残すか。……選んでください」
残酷な二択ではない。
実質的な「死刑宣告」だ。
ここで食料を渡さなければ、夫は数時間以内に昏睡状態に陥り、死ぬ。
夫が死ねば、妻も生きる気力を失うだろう。
二人まとめて「処理」できる。
周囲の空気が凍りつく。
誰も口を挟めない。権藤の暴力と、僕の正論が支配しているからだ。
夫人が震える手で、夫の腕を掴んだ。
反論が来ると思った。「鬼」「人でなし」と罵られる覚悟をしていた。
しかし。
「……わかりました」
夫人は、静かにそう言った。
「え?」
僕の計算が、一瞬止まる。
夫人はバッグの中から、大切な宝石箱でも扱うように、小さな巾着袋を取り出した。
中に入っていたのは、数個の飴玉と、インスリン注射のセットだった。
彼女はそれを、そっと僕の前に差し出した。
「主人は、もう長くありません。……この人が一番、それをわかっています」
夫人は、苦しげに呼吸をする夫の汗をハンカチで拭った。
「若い方たちが助かるなら、それでいいんです。……ただ、お願いがあります」
「……何でしょう」
「最期まで、二人の手を繋がせておいてください。それだけで、私たちは十分ですから」
夫人の瞳には、恐怖も憎悪もなかった。
あるのは、静寂な諦念と、深い愛情だけ。
彼女は僕に向かって、深々と頭を下げた。
「嫌な役目をさせてごめんなさいね。……あなたも、辛いでしょうに」
ドクン。
心臓が跳ねた。
辛い? 僕が?
馬鹿な。僕は合理的な判断をしているだけだ。これは損害査定だ。全損扱いの案件を処理しているだけだ。
なのに、なぜ彼女は僕を憐れむような目で見るんだ?
その視線は、僕が必死に築き上げた「論理の壁」を、いとも簡単に透過してきた。
数字にできない「品格」。
死を受け入れた人間の「尊厳」。
それが、僕の計算式にノイズを走らせる。
「……相馬さん、ですか?」
そのノイズに呼応するように、美咲の声がした。
彼女は立ち上がろうとして、よろめき、壁に手をついた。
「そこにいるのは、相馬さんですよね? ……声が、震えています」
「黙れ」
僕は低い声で遮った。
「僕は震えてなどいない。今の僕は、この場の管理者だ。君のような『要救助者』に同情される覚えはない」
わざと冷たい言葉を選んだ。
彼女を傷つけ、遠ざけるために。
美咲は唇を噛み、悲しげに眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
その時だ。
今まで沈黙を守っていた人物が、僕の背後に立った。
「相馬さん。少し、いいかしら」
白衣を着ていないが、知的で冷静な声。
霧島レイ子。三十五歳の女医だ。
僕の計算では、彼女は「生存必須枠(合格)」に入っている。
僕は彼女を連れ、権藤たちから少し離れた車両の連結部へ移動した。
「何ですか、先生。あなたの医療知識は必要です。協力してくれるなら――」
「ええ、あなたのトリアージ(選別)は正しいわ。医療現場でも、災害時は見込みのない患者を切り捨てる。……倫理的には最悪だけど、数学的には正解よ」
彼女は眼鏡の位置を直しながら、ちらりと権藤の方を見た。
権藤は、奪った水を飲みながら、矢部を足蹴にして笑っている。
「でもね、相馬さん。あなたの計算式には、一つ致命的な『見落とし』があるわ」
「見落とし?」
ありえない。僕は十三回もここを見ている。
霧島先生は声を潜め、死刑宣告のように告げた。
「あの男――権藤さん。さっき、彼が足を引きずっているのを見た?」
「ええ。軽い打撲でしょう。瓦礫をどかすのには支障ないはずです」
「いいえ。……あれは『クラッシュ・シンドローム(挫滅症候群)』の前兆よ」
思考が停止した。
クラッシュ・シンドローム。
長時間、重い物に挟まれていた筋肉が壊死し、毒素が全身に回る症状。圧迫が解除された後に、急性腎不全や心停止を引き起こす。
「彼の右足、ふくらはぎがパンパンに腫れているわ。おそらく、事故直後は瓦礫に挟まれていたんでしょう」
霧島先生は冷淡に続けた。
「今はアドレナリンが出ていて元気だけど、長くは持たない。……あと二十四時間以内に、彼は心停止を起こして死ぬわ」
血の気が引いていくのがわかった。
権藤は、僕の計画の「エンジン」だ。
彼がいなければ、重いハッチは開かない。瓦礫もどかせない。エアダクトの修理もできない。
彼を生かすために、僕は美咲を見捨て、時田夫妻を切り捨て、心を鬼にして「悪」の手を取ったのだ。
その彼が、二十四時間で死ぬ?
救助が来るのは七十二時間後なのに?
僕は震える視線で権藤を見た。
彼は何も知らず、王様気取りでバールを振り回している。
あれは「最強の生存者」ではない。
ただの「暴走する時限爆弾」だったのだ。
「……どうするの、リーダー?」
霧島先生が試すように囁く。
「エンジンは壊れるわ。……それでも、あなたはあの『歌う少女』を見殺しにするの?」
計算機がエラーを吐き出す。
盤面が崩れる音がした。
僕の独裁は、始まった瞬間から、すでに破綻していたのだ。




