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箱舟の独裁者  作者: NN


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第17話:上場廃止(デリスティング)


 光が、網膜を焼いた。


 頭上のハッチが完全に切り開かれ、白い光の柱が降り注ぐ。

 風が吹き込む。

 腐臭と、血と、排泄物の臭いが充満する密室に、地上の清浄な空気が混ざり合う。


 僕は、手を止めた。

 美咲みさきの胸の中に突っ込んでいた両手を、ゆっくりと引き抜く。

 ヌチャ、という湿った音が、静まり返った車内に響いた。


 僕の手は、赤黒い液体と、砕けた骨片と、正体不明の粘液でコーティングされていた。

 それはもう、人間の手には見えなかった。

 何かを破壊し尽くした後の、凶器そのものだった。


 ロープを伝って、オレンジ色の服を着た救助隊員たちが降りてくる。

 一人、二人、三人。

 彼らはガスマスクを装着していた。この異臭が、正常な人間の耐えられるレベルを超えている証拠だ。


 隊員の一人が、僕の前に立った。

 マスク越しでも、その目が驚愕に見開かれているのがわかった。

 彼はライトを僕に向け、そして僕の足元にある「それ」を照らした。


 陥没した胸。

 土気色の肌。

 死後硬直と、人為的な破壊によって原型を留めていない少女の遺体。


 隊員は、怒鳴らなかった。

 悲鳴も上げなかった。

 ただ、無線機を取り出し、事務的に報告した。


「……生存者、11名。要救助者あり」

 一拍置いて、彼は続けた。


「遺体、1名。……損壊が激しい」


 淡々とした声だった。

 そこには同情も、嫌悪も、糾弾もない。

 ただの「現状確認チェック」だ。

 外部監査人が、帳簿と在庫の不一致を指摘するように、冷徹な事実だけが告げられた。


 確定した。

 彼女は「資産」ではない。「廃棄損」だ。

 僕たちの必死の粉飾工作は、プロの目には一秒たりとも通用しなかった。


「……あ、ああ……」

 背後で、矢部やべが崩れ落ちる音がした。

 権藤ごんどうは顔を背け、震えている。

 霧島きりしま先生は、虚ろな目で壁を見つめている。


 誰も、僕を弁護しなかった。

 「彼は彼女を救おうとしたんです」なんて、誰も言わなかった。

 彼らの目にも、今の僕は「救世主」ではなく「死体を弄ぶ異常者」として映っているのだ。魔法が解けたのだ。


「君、立てるか」

 隊員が僕に手を差し伸べた。

 僕はその手を取ろうとして、自分の手が汚れていることに気づき、引っ込めた。


「……確保します」

 隊員は僕の手首を掴み、立たせた。

 その手つきは、遭難者を保護するものというより、容疑者を拘束するそれに近かった。


 僕は抵抗しなかった。

 されるがままにハーネスを装着され、ワイヤーに吊るされる。

 体が浮く。

 美咲の遺体が遠ざかっていく。

 彼女は、汚れた床に一人取り残されたままだ。


(……ああ、これで終わりか)


 僕は天井の開口部を見上げた。

 まぶしい。

 

 失敗だ。

 今回も、美咲を救えなかった。

 また「在庫不足」だ。


 でも、大丈夫だ。

 また、音が鳴る。

 ドォォォンという衝撃音がして、世界が暗転し、僕はまた瓦礫の下で目覚める。

 次はもっと上手くやる。

 もっと早く仮死状態を試し、もっと早く権藤を制御し、美咲には指一本触れさせない。

 二十一回目の計算式は、もう頭の中にある。


 僕は目を閉じた。

 さあ、鳴れ。

 リセットしろ。

 この無様な失敗を、なかったことにしてくれ。


 ……。

 …………。


 音が、しない。


 代わりに聞こえてきたのは、地上の喧騒だった。

 ヘリコプターのプロペラ音。救急車のサイレン。群衆のざわめき。

 風の音。鳥の声。


 体が地上に引き上げられる。

 土の匂いがした。

 カメラのフラッシュが焚かれる。


 僕はストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを当てられた。

 点滴の針が刺される。

 警察官が駆け寄ってくる。


「……おい」

 僕は酸素マスク越しに呟いた。

「……おい、どうなってる」


 なぜ戻らない?

 条件未達だぞ。

 生存者は11名だ。失敗だ。

 システムはバグったのか?


 群衆の中に、彼がいた。

 喪服の少年。

 内部監査人である僕自身。


 彼は人混みの中に立ち尽くし、ストレッチャーで運ばれる僕を、無表情に見送っていた。

 その手には、黒い表紙のファイルが握られている。

 『決算報告書』。


 少年は口を開いた。

 声は、脳内に直接響いた。


『監査意見――不表明(差し控え)』


 不表明?

 不合格じゃなくて?


『君の企業(精神)は、もう事業を継続できない。

 資産(人間性)は枯渇し、負債(罪)が超過している。

 これ以上の再建ループは無意味だ』


 少年はファイルを閉じた。


上場廃止デリスティングだ、お兄ちゃん。

 君はもう、プレイヤーとしての資格を失った』


 市場からの追放。

 それは、ゲームオーバーですらない。

 ゲームを続ける権利の剥奪。


「待て……! 待ってくれ!」

 僕はストレッチャーの上で暴れた。

 拘束ベルトが食い込む。


「まだだ! まだ計算できる! 次は助けられるんだ! 美咲を……彼女を置いていくわけにはいかないんだ!」


 救急隊員たちが僕を押さえつける。

「鎮静剤を! 錯乱している!」


 違う。錯乱じゃない。

 戻してくれ。

 あの地獄に、あの汚泥の中に戻してくれ。

 あそこでなら、僕はまだ彼女を救うチャンスを持っていた。

 でも、ここでは――


 視界の端に、後続の隊員たちが引き上げてきた「黒いボディバッグ」が見えた。

 ジッパーが閉められている。

 中身は、動かない。


 ここでは、彼女は死んでいる。

 確定した「死者」だ。

 もう二度と息をしない。二度と歌わない。二度と僕の名前を呼ばない。


 現実が、重力となって僕を押し潰す。

 ループは起きない。

 衝撃音は鳴らない。


 僕は「失敗した世界」に固定された。


 殺人者として。

 死体を損壊した異常者として。

 そして、愛する人を二度殺した男として。


 少年が、ふっと消える。

 最後に残した言葉だけが、青空の下に響き渡った。


『お疲れ様。……精算は、一生かけて払ってね』


 救急車のドアが閉まる。

 暗闇が訪れる。

 けれどそれは、次の始まりの闇ではなく、ただの終わりの闇だった。


 僕の長い夏は、こうして終わった。

 全員救助という夢と一緒に。

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