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箱舟の独裁者  作者: NN


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第16話:減損処理(インペアメント)



 その「臭い」は、どれだけ鼻をつまんでも脳に届いた。


 腐った果実と、古びた雑巾を混ぜたような、甘ったるく重い臭気。

 換気のない密室で、それは空気そのものになっていた。


 事故発生から六十六時間。

 救助予定まで、あと六時間。


 ゴールは目の前だ。

 あと少し、あと六時間だけ、この茶番劇を続ければいい。

 そう思っていた。


「……う、っぷ……!」


 静寂を破ったのは、嘔吐く(えずく)音だった。

 美咲みさきへの心臓マッサージ担当だった学生が、突然手を止め、汚水の中に嘔吐した。


「おい、止めるな!」

 僕は水の中から怒鳴った。

「循環を止めるな! 硬直が進むぞ!」


 だが、学生は首を激しく横に振った。

 涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにして、後ずさる。


「……無理です。……もう、無理です」

「何が無理だ! あと六時間だぞ!」

「触れないんです……!」


 学生は、自分の両手を見つめながら叫んだ。

「感触が……違うんです。昨日とは違うんです。……冷たくて、ブヨブヨしてて……押すと、変な音がするんです……!」


 変な音。

 僕は美咲の方を見た。

 暗闇の中で、彼女は静かに横たわっている。

 その胸部は、度重なる圧迫によって不自然に陥没していた。肋骨が折れ、胸壁が機能を失っているのだ。


「……交代だ」

 僕は舌打ちをして、次に休憩中だった矢部やべを指名した。

「矢部さん、代わってください」


 矢部は動かなかった。

 彼は顔を背け、小さく震えていた。


「矢部さん!」

「……いやだ」

 矢部が呻くように言った。

「俺も、もう触りたくねぇ……。臭いんだよ……手が臭くなるんだよ……」


 拒絶。

 それは感染した。

 権藤ごんどうも、時田ときた夫人さえも、美咲の方を見ようとしない。

 誰も、彼女の名前を呼ばない。

 彼らにとって、そこにあるのはもう「美咲ちゃん」ではない。

 忌まわしい「それ(・・)」だ。


「……馬鹿なこと言うな!」

 僕は水から這い上がり、よろめきながら叫んだ。

「ここまで来て何を言ってるんだ! 彼女は僕たちの命綱だぞ! 彼女を捨てたら全員死ぬんだぞ!」


「でも、死んでるじゃない!」


 叫んだのは、霧島きりしま先生だった。

 冷静だった医師。

 彼女の理性が、限界を迎えていた。


「見てよ、あれを! 死斑が出てるわ! 腐敗が始まってるのよ!」

 先生が美咲を指差す。

「私たちは何をしてるの? 死体を囲んで、空気を送り込んで……これじゃカルト教団の儀式よ! 狂ってるわ!」


「狂ってなきゃ生き残れない!」

 僕も叫び返した。

「正気で助かると思ってるのか! 先生、あなたは医者だろ! 死体も見慣れてるだろ!」


「これは医療じゃない!」

 先生は泣いていた。

「私は人を救うために医者になったの! こんな……死体をオモチャにするために技術を覚えたんじゃない!」


 論理の崩壊。

 僕が構築した「生存のための合理性」が、「生理的な嫌悪感」という暴力の前に敗北した。


 誰も動かない。

 心臓マッサージが止まってから、数分が経過している。

 美咲の体内で、血液が澱み始めている。


 減損インペアメントの兆候。

 資産(美咲)の価値が、急激にゼロに向かっている。


「……くそッ」

 僕は悪態をつき、美咲の元へ歩み寄った。

「いいよ。誰もやらないなら、僕がやる」


 僕は彼女の横に跪いた。

 腐敗臭が鼻を突く。

 顔色は土気色を通り越し、黒ずんでいる。

 美しかった唇は乾燥し、ひび割れ、少し開いた口から濁った液体が垂れている。


(……美咲)


 心の中で呼びかける。

 だが、返事はない。

 幻聴さえ聞こえない。

 そこにいるのは、有機物の塊だけだ。


 僕は震える手を伸ばし、彼女の胸に当てた。


 グニュリ。


 嫌な感触があった。

 弾力がない。硬直した筋肉の下で、何かが液状化しているような、頼りない手応え。


 吐き気がした。

 本能が「手を離せ」と警鐘を鳴らす。

 これは人間ではない。触れてはいけないモノだ。


 だが、僕は手を重ね、体重をかけた。


 グシャ。


 濡れたスポンジを潰したような、湿った音がした。


「……う、あ……」

 僕の喉から、悲鳴にも似た嗚咽が漏れた。


 壊れている。

 もう、ポンプとしての機能さえ果たしていない。

 押しても戻ってこない。

 肋骨は砕け、肺は潰れ、心臓はただ圧迫されるだけの肉片になっている。


 それでも、僕は押し続けた。

 1、2、3、4……。

 リズムを刻むたびに、グチュ、グチュ、と異音が響く。


 周囲の視線を感じる。

 矢部が耳を塞いでいる。

 霧島先生が顔を覆って泣いている。

 彼らは僕を見ているのではない。

 「死体を破壊し続ける怪物」を見ているのだ。


「……相馬さん、もういい」

 誰かが言った。

 権藤だった。

 彼は右足を失いかけた体を引きずり、僕の肩を掴んだ。


「もうやめろ。……姉ちゃんが、可哀想だ」


 その言葉は、鋭い刃物となって僕の胸に突き刺さった。


 彼女を生かさなきゃ、僕たちが死ぬんだ。

 だからこれは正当防衛だ。必要な作業だ。


 僕は権藤の手を振り払った。

「触るな! あと少しなんだ……! あと少しで、この数字(在庫)が確定するんだ!」


 僕は狂ったようにマッサージを続けた。

 美咲の口から、ピンク色の泡沫(泡沫)が溢れ出す。

 肺水腫だ。死後、肺に溜まった体液が押し出されてきたのだ。


 それが僕の手に、服にかかる。

 死の汚れ。

 絶対に落ちない、冒涜の証。


「動け……動けよ……!」

 僕は泣き叫んでいた。

 悲しいからじゃない。悔しいからじゃない。

 怖いからだ。


 目の前の「これ」が、美咲だとは認めたくない。

 僕が愛した少女は、こんな肉塊じゃない。

 でも、これを美咲だと認めなければ、僕は生き残れない。


 バキッ。


 決定的な音がした。

 胸骨が完全に陥没した。

 僕の手が、彼女の胸郭の中にめり込んだ。


 動きが止まる。

 静寂。

 死臭と、汚臭と、僕の荒い息遣いだけが残る。


 減損処理、完了。

 帳簿価額を全額切り下げ。

 資産価値、ゼロ。


 僕は、彼女の胸の中に手を突っ込んだまま、動けなくなった。

 抜けないのだ。

 物理的にではない。

 僕の魂が、この死体に絡め取られて、もう二度と引き抜けない気がした。


 頭上で、ドリルの音がした。

 救助隊だ。

 間に合った。

 時間的には。


 だが、僕たちはもう「12人の生存者」ではない。

 

 11人の狂人と、1つの破壊された死体。

 それが、監査人が目にする全ての「在庫」だった。

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