第13話:粉飾決算(ウインドウ・ドレッシング)
白い天井。
消毒液の匂い。
規則正しい心電図の電子音。
そこは、あまりにも完璧な「生」の世界だった。
「……気がつきましたか」
看護師の声。
僕は酸素マスクを外され、渇いた唇を湿らせた。
体中に管が繋がれている。手足は重い。だが、痛みはない。温かい。
泥水も、腐臭も、絶望もない。
「……ここは」
「県立病院の集中治療室(ICU)です。……よかったですね。あれだけの事故で、よく生きて」
看護師が微笑む。
僕は、ゆっくりと記憶の糸を手繰り寄せた。
救助隊。
仮死状態作戦。
全員搬送。
成功したんだ。
あの少年――僕の幻覚が見せた「在庫不一致」の警告は、ただのPTSDによる悪夢だったのだ。
「他の……みんなは」
僕は掠れた声で尋ねた。
「皆さん、無事ですよ」
看護師がタブレットを見ながら答える。
「重度の低体温症と脱水症状でしたが、命に別状はありません。権藤さんという方は右足を切断することになりましたが……一命は取り留めました」
よかった。
権藤も生きた。僕の「使い捨て」から生還したのだ。
「矢部さんも、霧島先生も、時田さんも……一般病棟に移れるでしょう」
全員だ。
12名全員。
僕の計算は正しかった。僕の罪は、結果によって浄化されたのだ。
「……あの、美咲ちゃんは」
僕は、一番大切な名前を口にした。
看護師の手が止まった。
「……え?」
彼女は怪訝な顔をした。
「ミサキ……ちゃん?」
嫌な汗が背中を伝う。
心拍モニターの音が速くなる。
「星名美咲です。盲目の、女子高生の……僕と一緒に運ばれたはずだ」
看護師は困ったように眉を寄せ、ナースステーションの方を振り返った。
「少々お待ちください。確認してきます」
彼女が出ていく。
僕は一人残される。
ドクン。ドクン。
心臓が早鐘を打つ。
なぜだ。なぜ確認が必要なんだ。
12名全員が搬送されたなら、リストにあるはずだ。
視界の端。
パイプ椅子に、誰かが座っていた。
喪服の少年。
10歳の僕だ。
彼は足をぶらぶらさせながら、冷ややかな目で見下ろしている。
『まだ気づかないの? お兄ちゃん』
少年の声は、耳ではなく脳に直接響く。
『監査は絶対だよ。数字は嘘をつかない』
「……黙れ」
僕は呻いた。
「全員助かったんだ。僕は勝ったんだ」
『勝ってないよ』
少年が笑う。
『君はただ、帳簿を書き換えただけだ。……「損失」を「資産」に見せかけて』
ガラッ。
ドアが開いた。
入ってきたのは、看護師ではなく、スーツ姿の男だった。
警察官だ。
「相馬和也さんですね。……事情聴取は後日と言われていますが、身元の確認だけお願いしたい」
警察官は、一枚のリストを提示した。
『地下鉄脱線事故 生存者リスト』。
1、相馬和也
2、権藤猛
3、霧島レイ子
……
僕はリストを目で追う。
10番、矢部。
11番、学生。
そこで、リストは終わっていた。
11名。
12名ではない。
「……これだけですか?」
僕は震える指でリストを指した。
「もう一人……いるはずです。星名美咲。17歳の女の子が」
警察官は、言いにくそうに視線を逸らし、そして静かに告げた。
「ああ……その方なら」
彼は、別の書類を取り出した。
『死亡者リスト』。
その一番上に、彼女の名前があった。
1、星名美咲(17) 即死
時間が、止まった。
「……即死?」
僕は鸚鵡返しに呟いた。
「ええ。残念ながら」
警察官は淡々と説明する。
「事故発生の瞬間、崩落した天井の梁が直撃しました。……検視の結果、即死状態だったと。苦しまずに逝かれたのが、せめてもの救いです」
嘘だ。
だって、彼女は喋っていた。
歌っていた。
僕の手を握り、僕の心臓の音を聞き、僕を「泣き虫」だと笑った。
権藤に水を飲ませ、矢部たちの暴走を止めた。
あれが、全部?
死体だったというのか?
『そうだよ』
少年が、僕のベッドの縁に立ち、顔を近づける。
『君はずっと、死体と喋っていたんだ』
フラッシュバック。
記憶が、音を立てて崩壊し、再構築されていく。
彼女はいつも、隅で膝を抱えて動かなかった。
(動けなかったのだ。死んでいるから)
彼女は食料を口にしなかった。
(食べる必要がないから)
火災の時、彼女は逃げようともせず、ただ僕を見上げていた。
(死体は逃げない)
「音がしない」と彼女は言った。
(死んでいる彼女にとって、生者の鼓動だけが異質だったのだ)
僕が見ていた「美咲」は、僕の願望が見せた幻覚(AR)だったのか?
いや、違う。
権藤も、矢部も、彼女と会話していた。彼女の歌を聴いていた。
全員が集団幻覚を見ていた?
『違うよ。システム(神様)が、君の不正会計に合わせてくれたんだ』
少年が、僕の耳元で囁く。
『君の願いは「全員救助」。
でも、スタート時点で一名死亡していた。
本来なら、その時点でゲームオーバーだ。
でも、君があまりにも強く「生きている」と思い込んだから。
君が、死体を「資産」として計上したから』
システムは、そのエラーを一時的に許容した。
死者を「生者」として振る舞わせることで、帳尻を合わせたのだ。
美咲という存在は、システムが生み出したバグであり、僕の罪の具現化であり、そして――架空在庫だった。
「……う、あぁ……」
喉の奥から、慟哭が漏れる。
彼女は、最初からいなかった。
僕が愛し、僕を導き、僕の罪を許してくれた少女は、ただの「動く肉塊」だった。
救助隊が突入した瞬間。
外部の監査が入った瞬間。
システムによる補正(粉飾)は解除された。
隊員たちが見たのは、奇妙に動く死体ではなく、ただの冷たい遺体だったのだ。
僕だけが、搬送される彼女を生きた人間だと思い込んでいた。
「……相馬さん? 大丈夫ですか?」
警察官が心配そうに覗き込む。
大丈夫なものか。
僕は、取り返しのつかないことをした。
死を受け入れ、弔うべきだったのに。
僕は彼女の死を否定し、自分の都合のいい「人形」として使い回し、十九回もループさせた。
彼女の魂を、成仏させることすら許さずに。
『さあ、決算の時間だ』
少年が指を鳴らす。
『在庫不足。契約不履行。
君は「12名救助」という条件に対し、嘘の報告書を提出した。
これは重罪だよ、アジャスター』
世界に、ノイズが走る。
白い病室の壁に、亀裂が入る。
心電図の音が、不協和音に変わる。
ビーッ! ビーッ! ビーッ!
警報音。
現実が剥がれ落ちていく。
『ペナルティは「倒産(破滅)」じゃない。
……「追徴課税(追加ループ)」だ』
床が抜けた。
ICUのベッドごと、僕は奈落へと落ちていく。
待ってくれ。
美咲は死んでいるんだ。
死んでいる人間を、どうやって救えと言うんだ。
死者蘇生なんて、神の領域じゃないか。
――いいえ。
闇の中で、声がした。
――あなたは言ったはずです。
――監査をごまかせば、それは「生存」になると。
ドォォォォォォン!!
二十回目の衝撃。
僕はまた、あの瓦礫の下に戻ってきた。
だが、今回は違う。
僕は知ってしまった。
この箱舟には、最初から「死体」が乗っていることを。
そして僕は、その死体を「生きた人間」として、神様に提出しなければならない。
たった一人の共犯者(美咲)すらいない、本当の孤独な戦いが始まる。




