第12話:実地棚卸(フィジカル・インベントリ)
循環取引は、過酷を極めた。
僕、矢部、そして学生の三人。
この「男性陣」が、汚水の中に浸かり、体温を捨て、仮死状態になる。
その間、陸に残った女性陣と権藤が、ロープを握り、時間を管理する。
二時間経過したら引き上げ、身体を拭き、僅かな食料で代謝を戻す。
そしてまた、次の班が水に入る。
命のリレーではない。
死のキャッチボールだ。
「……引き上げろ! 時間だ!」
権藤の怒号が飛ぶ。
僕は泥水の中から、ズブズブと引きずり上げられた。
感覚がない。
手足が自分のものじゃないみたいだ。
ガチガチと歯が鳴り、視界が明滅する。
横には、同じように引き上げられた矢部と、学生が転がっている。
二人とも唇は紫色で、ピクリとも動かない。
まるで水死体だ。
だが、霧島先生が飛んできて、瞳孔と脈を確認する。
「……生きている(在庫あり)。循環、再開するわよ!」
時田夫人が、僕たちの体をタオルで必死に擦る。美咲が、冷え切った僕の手に、自分の体温を移そうと息を吹きかける。
この地獄のようなサイクルを、もう六回繰り返した。
現在時刻、事故発生から七十一時間。
タイムリミットまで、あと一時間。
僕たちは、まだ12人いる。
誰も欠けていない。
システムは、この「死体安置所」のような惨状を、正常な運用と誤認している。
ガガガガガッ!!
キュイィィィン!!
その時、頭上で金属が悲鳴を上げた。
天井のハッチが、赤い火花を散らして切断されていく。
「き、来た……!」
権藤がバールを杖にして立ち上がる。
光が差し込んだ。
強烈なLEDライトの光束が、闇を切り裂く。
塵が舞う中、オレンジ色のレスキュー服を着た男たちが、ロープで降下してくる。
「レスキューだ! 生存者はいるか!」
その声は、天使のラッパのように聞こえたはずだ。
普通の遭難者ならば。
だが、僕たちは違った。
僕たちは「粉飾決算」の真っ最中なのだ。
外部の監査人に、この惨状を「正常」だと認めさせなければならない。
「こ、ここだぁ! 助けてくれぇ!」
矢部が、掠れた声で叫ぼうとして、咳き込んだ。
声が出ない。低体温症で喉の筋肉が麻痺している。
救助隊員が三人、床に着地した。
彼らは即座にライトで周囲を照らし、状況を確認する。
そして、その顔が凍りついた。
無理もない。
そこにあるのは、汚泥にまみれ、青白い顔で転がる「水死体」の山と、壊死した足を引きずる大男、そして虚ろな目の老人と少女だ。
生存者の救出現場ではない。
死体回収現場に見えたはずだ。
「……ひどい」
隊員の一人が呟き、無線に向かって叫んだ。
「本部! 生存者を発見! だが状況は最悪だ! トリアージ(選別)を開始する!」
トリアージ。
その単語を聞いた瞬間、僕の脳内で警報が鳴り響いた。
災害現場において、負傷者は四色のタグで分類される。
軽傷の緑。重傷の黄。最優先治療の赤。
そして――死亡、もしくは救命不可能な黒。
隊員の一人が、床に倒れている学生の元へ駆け寄った。
学生は、直前まで水に浸かっていたため、最も体温が低い。
呼吸は一分間に数回。脈は触れないほど弱い。
「意識なし! 自発呼吸、微弱! 脈拍、触知不能!」
隊員が手際よくペンライトで瞳孔を見る。
「対光反射なし! 体温測定不能!」
隊員は首を横に振り、腰のポーチから「黒いタグ」を取り出した。
「ダメだ。心停止している。……黒(死亡)だ」
やめろ。
そのタグを付けるな。
システムは、今まで曖昧だった「死」の定義を、外部の権威の判定によって確定させるかもしれない。
「医師や救助隊による死亡確認」。
それは、社会的な死の確定手続き(プロセス)だ。
監査人が「在庫なし」と判定すれば、その瞬間に粉飾は露見する。
ループが起きる。
ここまで積み上げた苦労が、十九回目の地獄が、すべて水泡に帰す。
「待て……ッ!」
僕は叫ぼうとした。だが、声が出ない。
体が動かない。僕もまた、仮死状態の一歩手前なのだ。
隊員の手が、学生の手首に黒いタグを巻き付けようとする。
ゴム印が押されるように、死が確定する――
「触るなあああああ!!」
獣の咆哮が轟いた。
ドゴォッ!
隊員が吹き飛ばされた。
権藤だ。
彼は壊死した右足を引きずり、バールを振り回して、救助隊員を殴り飛ばしたのだ。
「な、何をする!?」
他の隊員たちが構える。
救助されるべき被害者が、救助隊を攻撃している。異常事態だ。
権藤は、学生の体の前に立ちはだかり、バールを構えたまま吠えた。
「そいつは生きてる! 勝手に殺すんじゃねぇ!」
「落ち着け! 彼はもう心停止して……」
「してねぇよ! ただ冷えてるだけだ! 今すぐ温めりゃ生き返るんだよ!」
権藤の目は血走っていた。
彼は知っている。自分がロープを引いて、この学生を地獄の淵から引き上げたことを。
自分が繋ぎ止めた命を、ぽっと出の監査人に「無価値」と査定されることが、我慢ならなかったのだ。
「俺たちが……どんだけ苦労して、在庫を守ったと思ってんだ……!」
権藤が血を吐くように叫ぶ。
「黒だぁ? ふざけんな! 全員、赤(最優先)だ! 一人残らず持って帰りやがれ!」
隊員たちが圧倒される。
その隙に、霧島先生が這い寄った。
彼女は医師免許証(IDカード)を提示する。
「……私は医師です。彼の言う通り、これは偶発的な低体温症じゃない。……意図的な『超低体温療法』の施術中です」
「い、意図的……?」
「脳を保護するために、代謝を下げています。心停止に見えますが、可逆的な仮死状態です。……蘇生措置(ACLS)を。黒タグなんて付けたら、私が医療過誤で訴えますよ」
ハッタリだ。
汚水の中で行う低体温療法など、医学的には狂気の沙汰だ。
だが、医師という肩書きと、権藤の鬼気迫る剣幕が、隊員たちの判断を鈍らせた。
「……わ、わかった。蘇生を試みる!」
「搬送を急げ! 保温シートだ! 全員、赤タグで搬送する!」
隊員たちが動き出す。
学生に酸素マスクが付けられ、保温シートで包まれる。
黒いタグは、床に捨てられた。
僕は、泥水の中で安堵の息を吐いた。
通った。
監査をクリアした。
現場の強引な理屈で、会計基準をねじ曲げたのだ。
次々と仲間たちが引き上げられていく。
ワイヤーで吊り上げられ、光の中へと吸い込まれていく。
矢部が泣いている。時田夫人が手を合わせている。
最後に、僕の番が来た。
隊員に抱きかかえられ、ハーネスを装着される。
体が浮く。
暗い車内が遠ざかる。
腐臭と汚水と、絶望の箱舟。
そこから、光の世界へ。
上昇しながら、僕は下を見た。
権藤が、隊員に支えられながら引き上げられていく。彼の右足は限界だ。おそらく切断になるだろう。でも、生きている。
美咲も、大事そうに抱えられていく。
全員だ。
12名、全員。
在庫ロスなし。
完全な黒字決算。
僕は眩しさに目を細めた。
終わった。
本当に、終わったんだ。
地上に出た瞬間、新鮮な空気が肺を満たした。
無数のフラッシュ。サイレンの音。救急車の列。
「奇跡の全員生還!」と叫ぶレポーターの声。
僕はストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを当てられた。
意識が薄れていく。
今度こそ、安らかな眠りだ。
……そう思った時だった。
僕の視野の端、群衆の中に、奇妙な人影が見えた。
喪服を着た、少年。
彼は喧騒の中に立ち尽くし、じっとこちらを見ていた。
その顔には見覚えがあった。
あれは――僕だ。
10歳の頃の、僕自身だ。
少年は、無表情に口を動かした。
声は聞こえない。
けれど、唇の動きでわかった。
『……不正会計』
ドクン。
心臓が嫌な音を立てた。
少年が指差す先。
そこには、救急車に乗せられようとしている「美咲」がいた。
いや。
違う。
あれは美咲じゃない。
救急隊員が、彼女の顔にかかったタオルを直した瞬間、僕は見た。
その顔は、のっぺらぼうだった。
目も、鼻も、口もない。
ただの「肌色の肉塊」が、美咲の服を着て、呼吸をしていた。
『在庫数が合いません』
少年の声が、脳内に直接響く。
『あなたが計上した資産の中に、架空の在庫が混ざっています』
視界がホワイトアウトする。
救急車のサイレンが、システムのエラー音に変貌していく。
粉飾決算が、露見した。




