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箱舟の独裁者  作者: NN


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12/18

第12話:実地棚卸(フィジカル・インベントリ)

 循環取引ラウンド・トリップは、過酷を極めた。


 僕、矢部やべ、そして学生の三人。

 この「男性陣」が、汚水の中に浸かり、体温を捨て、仮死状態になる。

 その間、おかに残った女性陣と権藤ごんどうが、ロープを握り、時間を管理する。

 二時間経過したら引き上げ、身体を拭き、僅かな食料で代謝を戻す。

 そしてまた、次の班が水に入る。


 命のリレーではない。

 死のキャッチボールだ。


「……引き上げろ! 時間だ!」


 権藤の怒号が飛ぶ。

 僕は泥水の中から、ズブズブと引きずり上げられた。

 感覚がない。

 手足が自分のものじゃないみたいだ。

 ガチガチと歯が鳴り、視界が明滅する。


 横には、同じように引き上げられた矢部と、学生が転がっている。

 二人とも唇は紫色で、ピクリとも動かない。

 まるで水死体だ。

 だが、霧島きりしま先生が飛んできて、瞳孔と脈を確認する。


「……生きている(在庫あり)。循環、再開するわよ!」


 時田ときた夫人が、僕たちの体をタオルで必死に擦る。美咲みさきが、冷え切った僕の手に、自分の体温を移そうと息を吹きかける。


 この地獄のようなサイクルを、もう六回繰り返した。

 現在時刻、事故発生から七十一時間。

 タイムリミットまで、あと一時間。


 僕たちは、まだ12人いる。

 誰も欠けていない。

 システムは、この「死体安置所」のような惨状を、正常な運用と誤認している。


 ガガガガガッ!!

 キュイィィィン!!


 その時、頭上で金属が悲鳴を上げた。

 天井のハッチが、赤い火花を散らして切断されていく。


「き、来た……!」

 権藤がバールを杖にして立ち上がる。


 光が差し込んだ。

 強烈なLEDライトの光束が、闇を切り裂く。

 塵が舞う中、オレンジ色のレスキュー服を着た男たちが、ロープで降下してくる。


「レスキューだ! 生存者はいるか!」


 その声は、天使のラッパのように聞こえたはずだ。

 普通の遭難者ならば。


 だが、僕たちは違った。

 僕たちは「粉飾決算」の真っ最中なのだ。

 外部の監査人レスキューに、この惨状を「正常」だと認めさせなければならない。


「こ、ここだぁ! 助けてくれぇ!」

 矢部が、掠れた声で叫ぼうとして、咳き込んだ。

 声が出ない。低体温症で喉の筋肉が麻痺している。


 救助隊員が三人、床に着地した。

 彼らは即座にライトで周囲を照らし、状況を確認する。

 そして、その顔が凍りついた。


 無理もない。

 そこにあるのは、汚泥にまみれ、青白い顔で転がる「水死体」の山と、壊死した足を引きずる大男、そして虚ろな目の老人と少女だ。

 生存者の救出現場ではない。

 死体回収現場に見えたはずだ。


「……ひどい」

 隊員の一人が呟き、無線に向かって叫んだ。

「本部! 生存者を発見! だが状況は最悪だ! トリアージ(選別)を開始する!」


 トリアージ。

 その単語を聞いた瞬間、僕の脳内で警報が鳴り響いた。


 災害現場において、負傷者は四色のタグで分類される。

 軽傷の緑。重傷の黄。最優先治療の赤。

 そして――死亡、もしくは救命不可能な黒。


 隊員の一人が、床に倒れている学生の元へ駆け寄った。

 学生は、直前まで水に浸かっていたため、最も体温が低い。

 呼吸は一分間に数回。脈は触れないほど弱い。


「意識なし! 自発呼吸、微弱! 脈拍、触知不能!」

 隊員が手際よくペンライトで瞳孔を見る。

「対光反射なし! 体温測定不能エラー!」


 隊員は首を横に振り、腰のポーチから「黒いタグ」を取り出した。


「ダメだ。心停止している。……黒(死亡)だ」


 やめろ。

 そのタグを付けるな。


 システムは、今まで曖昧だった「死」の定義を、外部の権威レスキューの判定によって確定させるかもしれない。

 「医師や救助隊による死亡確認」。

 それは、社会的な死の確定手続き(プロセス)だ。


 監査人が「在庫なし」と判定すれば、その瞬間に粉飾は露見する。

 ループが起きる。

 ここまで積み上げた苦労が、十九回目の地獄が、すべて水泡に帰す。


「待て……ッ!」


 僕は叫ぼうとした。だが、声が出ない。

 体が動かない。僕もまた、仮死状態の一歩手前なのだ。


 隊員の手が、学生の手首に黒いタグを巻き付けようとする。

 ゴム印が押されるように、死が確定する――


「触るなあああああ!!」


 獣の咆哮が轟いた。

 

 ドゴォッ!


 隊員が吹き飛ばされた。

 権藤だ。

 彼は壊死した右足を引きずり、バールを振り回して、救助隊員を殴り飛ばしたのだ。


「な、何をする!?」

 他の隊員たちが構える。

 救助されるべき被害者が、救助隊を攻撃している。異常事態だ。


 権藤は、学生の体の前に立ちはだかり、バールを構えたまま吠えた。


「そいつは生きてる! 勝手に殺すんじゃねぇ!」


「落ち着け! 彼はもう心停止して……」

「してねぇよ! ただ冷えてるだけだ! 今すぐ温めりゃ生き返るんだよ!」


 権藤の目は血走っていた。

 彼は知っている。自分がロープを引いて、この学生を地獄の淵から引き上げたことを。

 自分が繋ぎ止めた命を、ぽっと出の監査人に「無価値ゼロ」と査定されることが、我慢ならなかったのだ。


「俺たちが……どんだけ苦労して、在庫こいつらを守ったと思ってんだ……!」

 権藤が血を吐くように叫ぶ。

「黒だぁ? ふざけんな! 全員、赤(最優先)だ! 一人残らず持って帰りやがれ!」


 隊員たちが圧倒される。

 その隙に、霧島先生が這い寄った。

 彼女は医師免許証(IDカード)を提示する。


「……私は医師です。彼の言う通り、これは偶発的な低体温症じゃない。……意図的な『超低体温療法』の施術中です」


「い、意図的……?」

「脳を保護するために、代謝を下げています。心停止に見えますが、可逆的な仮死状態です。……蘇生措置(ACLS)を。黒タグなんて付けたら、私が医療過誤で訴えますよ」


 ハッタリだ。

 汚水の中で行う低体温療法など、医学的には狂気の沙汰だ。

 だが、医師という肩書きと、権藤の鬼気迫る剣幕が、隊員たちの判断を鈍らせた。


「……わ、わかった。蘇生を試みる!」

「搬送を急げ! 保温シートだ! 全員、赤タグで搬送する!」


 隊員たちが動き出す。

 学生に酸素マスクが付けられ、保温シートで包まれる。

 黒いタグは、床に捨てられた。


 僕は、泥水の中で安堵の息を吐いた。


 通った。

 監査オーディットをクリアした。

 現場の強引な理屈で、会計基準をねじ曲げたのだ。


 次々と仲間たちが引き上げられていく。

 ワイヤーで吊り上げられ、光の中へと吸い込まれていく。

 矢部が泣いている。時田夫人が手を合わせている。


 最後に、僕の番が来た。

 隊員に抱きかかえられ、ハーネスを装着される。


 体が浮く。

 暗い車内が遠ざかる。

 腐臭と汚水と、絶望の箱舟。

 そこから、光の世界へ。


 上昇しながら、僕は下を見た。

 権藤が、隊員に支えられながら引き上げられていく。彼の右足は限界だ。おそらく切断になるだろう。でも、生きている。

 美咲も、大事そうに抱えられていく。


 全員だ。

 12名、全員。

 在庫ロスなし。

 完全な黒字決算パーフェクト・ゲーム


 僕は眩しさに目を細めた。

 終わった。

 本当に、終わったんだ。


 地上に出た瞬間、新鮮な空気が肺を満たした。

 無数のフラッシュ。サイレンの音。救急車の列。

 「奇跡の全員生還!」と叫ぶレポーターの声。


 僕はストレッチャーに乗せられ、酸素マスクを当てられた。

 意識が薄れていく。

 今度こそ、安らかな眠りだ。


 ……そう思った時だった。


 僕の視野の端、群衆の中に、奇妙な人影が見えた。


 喪服を着た、少年。

 彼は喧騒の中に立ち尽くし、じっとこちらを見ていた。

 その顔には見覚えがあった。


 あれは――僕だ。

 10歳の頃の、僕自身だ。


 少年は、無表情に口を動かした。

 声は聞こえない。

 けれど、唇の動きでわかった。


『……不正会計フ・ナ・ショ・ク


 ドクン。

 心臓が嫌な音を立てた。


 少年が指差す先。

 そこには、救急車に乗せられようとしている「美咲」がいた。


 いや。

 違う。

 あれは美咲じゃない。


 救急隊員が、彼女の顔にかかったタオルを直した瞬間、僕は見た。

 その顔は、のっぺらぼうだった。

 目も、鼻も、口もない。

 ただの「肌色の肉塊」が、美咲の服を着て、呼吸をしていた。


『在庫数が合いません』


 少年の声が、脳内に直接響く。


『あなたが計上した資産の中に、架空の在庫・・・・・が混ざっています』


 視界がホワイトアウトする。

 救急車のサイレンが、システムのエラー音に変貌していく。


 粉飾決算が、露見した。

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