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箱舟の独裁者  作者: NN


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第11話:会計監査(オーディット)


 車内の空気は、熱を帯びていた。

 希望という名の熱気ではない。十九回目にして初めて生まれた「議論」の熱だ。


「……つまり、こういうことか?」

 権藤ごんどうが、眉間に深い皺を寄せて唸る。

「俺ら12人が普通に息をしてたら、空気は足りない。……だから、息を『半分』にしなきゃならねぇ」


「正確には、代謝を極限まで下げる必要があります」

 霧島きりしま先生が、冷徹な医師の顔で補足する。

「基礎代謝を下げれば、酸素消費量は減る。理論上、体温を1度下げれば、代謝は約13%下がるわ」


「体温を下げるって……どうやって?」

 矢部やべが不安そうに聞く。


 僕は、足元に広がる暗い水面を指差した。

 車両の前半分を埋め尽くしている、地下水と泥の混合物。


「水冷です」

 僕は淡々と告げた。

「この水の温度は、体感で10度前後。ここに首まで浸かり、体温を奪わせる。低体温症ハイポサーミアを意図的に引き起こし、身体機能を冬眠状態に近づけるんです」


 全員が息を呑んだ。

 それは、自殺行為に等しい提案だった。


「し、死ぬぞ!」

 学生が叫ぶ。

「低体温症って、意識なくなって、そのまま心臓が止まるんだろ!?」


「その直前で止めるんだ」

 僕は彼を見据えた。

「死ぬ寸前までバイタルを落とす。心拍数を下げ、呼吸を浅くする。……いわゆる『仮死状態』だ」


 これが、僕たちが導き出した唯一の抜けループホールだ。


 神様の契約(システム条件)は『生存者12名』。

 そこには『健康的であること』も『意識があること』も書かれていない。

 ただ、医学的に『死亡』していなければいいはずだ。


 つまり、**「生きているか死んでいるか判別できない状態」**であれば、システムは僕たちを「在庫サバイバー」としてカウントし続ける可能性がある。


「……監査オーディットだ」

 僕は呟いた。

「システムが、どこまでを『生』と判定し、どこからを『死』とみなすか。その境界線をテストする」


「……危険すぎるわ」

 霧島先生が眼鏡を直す指が震えている。

「理論はわかる。救急医療でも、脳を守るために低体温療法を行うことはある。……でも、それはICUで厳密な管理下に行うものよ。こんな汚水の中でやれば、感染症のリスクもあるし、何より……」


「何より?」


「そのまま本当に心停止しても、蘇生できる保証がない」


 沈黙が落ちる。

 そうだ。これは片道切符の実験だ。

 一度体温を下げすぎてしまえば、自力では戻れない。そのまま凍死するリスクは極めて高い。


「……俺がやる」

 僕は手を挙げた。


「相馬さん!?」

 美咲みさきが僕の服の裾を掴む。


「僕がテスト検体になる」

 僕は全員に説明した。

「僕が入水して、意識レベルを落とす。もしシステムが僕を『死亡』と判定すれば、その瞬間にループが起きて、僕はまた瓦礫の下で目覚める。……つまり、失敗してもやり直せる」


 これは、ループ保持者である僕にしかできない毒味だ。


「逆に、もし僕が仮死状態になってもループが起きなければ……実験は成功だ。システムは『仮死』を『生存』と認めたことになる」


「……待てよ」

 権藤が口を挟んだ。

「あんたが仮死状態になっちまったら、誰があんたを引き上げるんだ? そのまま溺れちまうぞ」


「権藤さん、あんただ」

 僕は彼を見た。

「あんたの足は壊死している。水には入れない。だから、あんたがここに残って、僕の命綱を握っていてくれ」


 僕は、解体した座席のシートベルトを繋ぎ合わせ、即席のロープを作った。

 その端を自分の胴体に巻き付け、もう片方を権藤に渡す。


「僕が合図をするか、あるいは意識を失ったら、引き上げてくれ。……頼めるか?」


 権藤はロープを受け取り、ニヤリと笑った。

「へっ。俺をこき使いやがって。……いいぜ、リーダー。あんたの命、預かってやる」


 信頼契約。

 かつて使い捨ての道具として扱った男に、今、僕は自分の命を預ける。

 これもまた、一種の「清算」だ。


 僕は靴を脱ぎ、ズボンの裾を捲り上げた。

 泥水に足を入れる。

 刺すような冷たさが、皮膚を突き刺す。


「相馬さん……」

 美咲が、不安げに僕の方を向いている。

 僕は彼女の頭に手を置いた。


「大丈夫だ。……音を聞いていてくれ」

「音?」

「僕の心臓の音だ。もし、システムが作動するような『死の音』がしたら……その時は、次の世界でまた会おう」


 彼女は唇を噛み締め、小さく頷いた。

 僕は深呼吸をして、水の中へと進んだ。


 腰まで。

 胸まで。

 そして、首まで。


 冷たい。

 いや、痛い。

 全身の血管が収縮し、血液が内臓を守ろうと中心に集まっていくのがわかる。

 ガタガタと歯が鳴る。シバリング(震え)が止まらない。

 これは正常な反応だ。体が熱を作ろうとしている。


(……力を、抜け)


 僕は自分に言い聞かせる。

 抵抗してはいけない。寒さを受け入れろ。体温を捨てろ。

 死に近づくんだ。


 10分、20分。

 時間の感覚が消失していく。

 震えが止まった。

 体温が32度を下回った証拠だ。

 意識が霞む。視界が狭くなる。

 眠い。

 圧倒的な睡魔が襲ってくる。


 心拍数は?

 ……遅い。

 ドクン……ドクン……。

 一分間に40回を切っているかもしれない。


 さあ、どうだ。

 システムよ、監査チェックしろ。

 今の僕は生きているか?

 それとも、死んでいるか?


 僕は薄れゆく意識の中で、あの衝撃音を待った。

 『ドォォォォン』という、リセットの音を。


 ……。

 …………。


 音が、しない。

 世界は反転しない。

 僕は、冷たい水の中で、ただ漂っている。


(……通った)


 承認された。

 この状態は、システム上「生存」として計上されている。

 抜けホールは見つかった。


 僕は権藤に合図を送ろうと、ロープを引こうとした。

 だが、指が動かない。

 感覚がない。

 意識が、急速にブラックアウトしていく。


 まずい。

 このままでは、本当に死ぬ。

 システムが判定を下す前に、生物としての限界が来る。


『……げて……!』


 誰かの声が聞こえた気がした。

 遠くで、水音がする。


 バシャン!

 体が強く引かれた。

 権藤だ。彼がロープを引いている。

 水面から顔が出る。

 空気を吸い込むと同時に、肺が焼け付くような痛みを訴えた。


「ゲホッ、ガハッ……!」

 咳き込む僕の背中を、誰かがさすっている。


「相馬さん! 相馬さん!」

 美咲の声。


「……は、生きてるか……兄ちゃん……」

 権藤の荒い息遣い。


 僕は濡れた床に転がったまま、震える唇で笑った。

 

「……せい、こう……だ……」


 歯が鳴ってうまく喋れない。

 霧島先生が飛んできて、僕の体に毛布を巻き付ける。

「馬鹿な人! 心拍数が30台まで落ちていたわよ! 死ぬ一歩手前だわ!」


「……それが、狙いです」

 僕はガチガチと震えながら、勝利の報告レポートをした。


「システムは……沈黙した。……仮死状態は、生存カウントに含まれる」


 全員の顔に、戦慄と、そして微かな希望が宿る。


「つまり……」

 矢部がゴクリと唾を飲み込む。

「俺たちも、それをやればいいのか? 死ぬ寸前まで冷えて……じっとしていれば……」


「そうだ」

 僕は頷いた。

「全員じゃない。半数だ。……消費カロリーの高い男性陣を中心に、交代で『冬眠』する。そうすれば……酸素は持つ」


 それは狂気の沙汰だった。

 自ら死の淵へ飛び込み、数時間を過ごし、また戻ってくる。

 それを救助が来るまで繰り返す、ロシアンルーレット。


 だが、誰も「嫌だ」とは言わなかった。

 僕が身を持って証明したからだ。

 それが唯一の、生存への細い糸だと。


「……やってやるよ」

 矢部が立ち上がった。

 足は震えているが、その目は据わっている。

「焼かれて死ぬよりは、冷たい方がマシだ」


 学生も、時田夫人さえも、覚悟を決めた顔をしている。


 僕は震える体を美咲に支えられながら、思った。

 これは「全員救助」への第一歩だ。

 だが同時に、僕たちはシステムという神の領域に、泥足で踏み込んだのかもしれない。


 死をごまかす行為。

 それは、ただの延命措置なのか。

 それとも、生命の定義そのものを書き換える反逆なのか。


 監査は終わった。

 ここからは、粉飾決算クリエイティブ・アカウンティングの時間だ。

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