第1話 全損扱い(トータル・ロス)の朝
世界がひっくり返る音を、僕はもう十四回も聞いている。
鼓膜を突き破る金属の断末魔。
重力が消失する浮遊感。
そして、内臓が喉元までせり上がるような、急激なG(衝撃)。
ドォォォォォォン!!
暗転。
意識が寸断される。
次に感覚が戻ったとき、僕の鼻孔を満たしていたのは、焦げたゴムの臭いと、錆びた血の味、そして――淀んだ汚水の湿気だった。
「……ふぅ」
僕は瓦礫の下で、ゆっくりと息を吐いた。
腕時計を見る。ガラスにヒビが入っているが、秒針は動いている。
午前八時十四分。
事故発生から、およそ三分が経過している。
(十四回目。……状況に変化なし)
僕は体の各部を点検する。
右足首に軽い捻挫。肋骨にヒビが入っているかもしれないが、呼吸に支障はない。可動域、正常。思考レベル、クリア。
職業柄、僕は自分の体でさえ「損害物」として査定する癖がついている。
相馬和也、二十九歳。損害保険調査員。
今の僕は「一部損壊」。修理可能範囲内だ。
問題は、僕以外だ。
ヘッドライトのような微かな明滅の中、地獄絵図が浮かび上がる。
地下鉄の車両は脱線し、トンネルの壁に激突して四十五度ほど傾いていた。
車両の前半分は崩落した土砂と地下水に埋まり、完全に水没している。
生き残ったのは、後方車両にいた人間だけ。
「痛ぇ……! なんだよこれ、どうなってんだ!」
「キャアアアア! 誰か、誰かあああ!」
「水が! 水が入ってくるぞ!」
パニックの合唱。
僕は瓦礫を押しのけて立ち上がった。叫び声を上げている生存者の数を、視線だけで数える。
一人、二人、三人……全部で十一人。僕を入れて十二人。
前回のループと同じだ。
配置も、怪我の具合も、誰が最初に喚き出すかも、完全に一致している。
僕は胸ポケットから手帳を取り出し、ボールペンを走らせた。
震える手を押さえつける。感情を入れるな。数字だけを見ろ。
【空間容積】 地下鉄一車両分(約200立方メートル)。ただし、水没と土砂により有効空間は60%に減少。
【酸素残量】 密閉空間。通気口は崩落により閉塞。
【生存者数】 12名。
【救助予測】 過去のループでの経験上、外部からの掘削音が聞こえ始めるまで最短で72時間。
計算式を脳内で組み立てる。
人間一人が一時間に消費する酸素量は約20〜30リットル。パニック状態で過呼吸になれば倍増する。
今の空気量で、大人12人が72時間生き延びる確率は?
答えは、ゼロだ。
計算するまでもない。
過去十三回、僕たちは全員、窒息死した。
空気を奪い合い、喉を掻きむしり、最後は魚のように口をパクパクさせて、絶望の中で死んだ。
「おい! そこの兄ちゃん!」
怒声が飛んだ。
作業着を着た大男が、ひしゃげたドアをバールで叩いている。
権藤だ。
スキンヘッドに無精髭。目つきの悪い、絵に描いたような現場作業員。
「何ボーッとしてやがる! 手ェ貸せ! このドアこじ開けて外に出るぞ!」
「無駄です」
僕は即答した。声色は冷徹に。
「外は土砂で埋まっています。無理に開ければ、土砂崩れが起きてこの車両ごと圧し潰される。……四回目の時はそうでした」
「あぁ? なんだその四回目ってのは。頭打ったか?」
権藤が凄む。
僕は彼から視線を外し、車両の隅を見た。
そこに、彼女がいた。
星名美咲。
制服姿の女子高生。傾いた床の隅で、小さく膝を抱えている。
彼女の目元は虚ろだ。光を失っている。
手には白い杖(白杖)が握りしめられていた。
「……音が、変わった」
美咲がぽつりと呟いた。
その声は、喧騒の中でも不思議とよく通った。
「誰か……いますか? 水が、止まった音がします」
彼女は目が見えない。その代わり、聴覚が異常に発達している。
彼女の言う通り、車両への浸水は一時的に止まっていた。水位は腰の高さで安定している。
「おい、姉ちゃん。水が止まったからってなんだってんだ」
権藤が苛立たしげに吐き捨てる。
「ここが棺桶だってことに変わりはねえんだよ! おいお前ら、食いモン持ってる奴は出せ! 俺が管理する!」
「いやだ! これは私のチョコよ!」
「うるせぇババア!」
権藤が老婦人のバッグをひったくる。悲鳴が上がる。
いつもの光景だ。
強者が弱者から搾取する、縮図のような地獄。
僕は目を閉じた。
今までのループで、僕はあらゆる「善行」を試した。
権藤を説得しようとした。皆で食料を分け合おうと提案した。酸素を節約するために、全員を眠らせようともした。
美咲の手を引き、励まし、彼女の美しい歌声で皆を落ち着かせようとした回もあった。
だが、結果はすべて「全損」だ。
美咲を助けるために時間を費やせば、権藤が暴れて酸素が減る。
権藤を抑え込もうとすれば、老夫婦が発作を起こして死ぬ。
全員を生かそうとする「優しさ」こそが、この密室における最大の「猛毒」だった。
(……アジャスト(調整)が必要だ)
僕は目を開けた。
今までとは違う、冷たいスイッチが脳内で入る音がした。
この空間にあるリソース(酸素と食料)は有限だ。
12人分はない。
だが、6人分ならある。
僕は生存者たちを見渡した。
人間として見るのではない。
「機能」と「コスト」を持った部品として見るのだ。
権藤猛。
性格は最悪。協調性ゼロ。
だが、あの瓦礫をどかせる筋力があるのは彼だけだ。
生存コストは高い(大飯食らいで酸素消費も多い)が、脱出への貢献度はSランク。
判定:【合格】
時田夫妻。
善良な老人たち。
だが、脱出作業には貢献できない。移動に時間がかかる。病気のリスクあり。
貢献度はEランク。
判定:【排除】
そして。
僕は視線を隅に戻す。
震える手で杖を握りしめ、見えない恐怖と戦っている少女、美咲。
彼女は、この絶望的な暗闇の中で、唯一の癒やしだ。
彼女の歌声を聞いたとき、僕は初めてこのループの中で救われた気がした。彼女を守りたいと思った。彼女と生きて帰りたいと、心から願った。
だが。
査定人の(アジャスターの)計算機は、無慈悲な数字を叩き出す。
星名美咲。
視覚障害により単独行動不可。
移動には常に介護者(僕)の手が必要となる。つまり、彼女一人を生かすコストは、健常者二名分に相当する。
物理的な作業貢献度はゼロ。
パニック時の酸素消費リスク、中。
彼女を生かすためのコストを支払えば、酸素は72時間持たない。
彼女を生かせば、全滅する。
彼女を殺せば――残りの6人は助かる。
「……ッ」
僕は拳を握りしめ、爪が食い込む痛みで思考を定着させる。
今回のループ、十四回目。
目的を変更する。
『全員の救助』ではない。
**『有益な6名の選別』**だ。
僕は瓦礫を乗り越え、権藤の方へと歩き出した。
美咲の前を通り過ぎる。
彼女が気配に気づき、顔を上げた。
「あの……」
助けを求める、か細い声。
いつもなら、僕はここで彼女の手を取り、「大丈夫だ」と声をかけていた。
だが、僕は足を止めなかった。
彼女の横を、無言で通り過ぎる。
「……え?」
美咲の戸惑う気配を背中で感じる。
胸が張り裂けそうだった。
だが、僕は権藤の前に立ち、彼の手にあるチョコバーを見て、薄く笑ってみせた。
「アンタの言う通りだ」
僕は自分のバッグから、カロリーメイトの箱を取り出して権藤に投げ渡した。
「管理が必要だ。……役に立たない奴に食わせる飯なんて、ここにはない」
権藤がニヤリと笑う。
「へぇ。インテリにしちゃ、話がわかるじゃねぇか」
共犯関係の成立。
背後で、美咲が何かに躓いて転ぶ音がした。
杖が水溜りに落ちる音。
僕は振り返らない。
振り返れば、計算が狂うから。
箱舟の扉は閉ざされた。
乗れるのは、選ばれた獣だけ。
独裁の時間が、始まる。




