第8話 森の影
「申し訳ありません、それをお伝えすることはできません。」
管理神官の一言に、ナァラの瞳が驚きに見開き、やがて、失望の表情に変わる。
思い思いに休憩を取っていた奉献の徒のメンバーも、チラチラと様子を伺っている。
彼は、顔から一層表情を取り去り言葉を継ぐ。
「規則ですので。」
森の中は、木々が鬱蒼と生い茂り空を覆い隠していた。
中には、表面がひび割れ、苔に覆われた樹齢何百年か、というような巨木も所々に混ざり、その森の成り立ちの年月を感じさせる。
吹き抜ける風が、頭の上では高木の葉を揺らし、足元では低木の細い枝や下草がざわざわと囁くような音をたてた。
ナァラは困惑の表情を浮かべ、口を半分開いた状態で、しかし何と言ってよいか分からず押し黙る。
管理神官が意地悪をしているのでは、という疑問がナァラの中に浮かんでいるのだろうな、と管理神官は理解しつつ、しかし特段の説明もしなかった。
周りのメンバーも、口を開いて何か言いたそうにしているが、面と向かって管理神官に意見する者はいない。
赤の守護神官が、ちらりと守護主神官の方を見ると、彼は、倒木に腰掛け、明後日の方向を向いて自分の剣の刃をチェックしていた。
(出発前には必ず剣の手入れはしてるけど、こんな日中にチェックしているのは見た事ないんですけど…)
赤の守護神官は不満に思いつつも、結局何も言えず、再び管理神官とナァラの方に視線を戻した。
ナァラは、一旦顔を伏せ、それから再び顔を上げると、意を決したかのように守護神官に問いかける。
「何故、駄目なんでしょうか?あの、理由を…」
「巫女様のお仕事の邪魔になるからです。」
「え?あの…これからどこに向かうのか、次の目的地を聞くのが、…邪魔になるんですか?」
「そうです。失礼を承知で、逆にお聞きさせていただきます。何故だと思いますか?」
次の行先を教えてもらえないという、想定外の状況に混乱していたナァラは、そこからまさか自分の方が質問されると思っていなかったため、呆然とした顔で間の抜けた声を上げた。
「…え?」
混乱するナァラを見て、赤の守護神官は何か加勢したいと思ったが、管理神官の問いに対して、何も浮かんでこず、自分の無力さに歯噛みする。
ナァラは改めて管理神官を見つめる。
管理神官は、その半面の奥から、ナァラの様子を伺っているように見える。
(意地悪なんてしても意味がないはず…)
ナァラは、目の前にいる管理神官という人物についての記憶を手繰り寄せる。
最初に浮かんだのは、ナァラが告解の儀の意味を知り、その重さ、偽物であることへの罪悪感、そして、鬼神の裁きへの恐怖で、苦しくなって思わず彼に手を伸ばした時のこと。
彼は、ナァラの手を取ってこう言った。
『大丈夫、貴女は一人ではありません。命を懸けて貴女を守ります。』
次に浮かんだのは、告解の儀式の後のこと。
意識を取り戻したナァラの肩に手を置き、「巫女様…。良かった…。」と言って、顔をゆがめ、まるで泣いているように見えた彼の顔。
ナァラは、胸が温かくなるのを感じた。そして、目の前の人物の悪意ではなく、善意を、その優しさを信じたいと思った。
ふと、ナァラは不思議な感覚にとらわれる。
今、彼の思惑と関係なく、悪意を選ぶのか、善意を選ぶのかを自分が決めようとしているという事。それがとても不思議に思えた。
村長の家での生活では感じたことのない感覚だった。あそこでは、村長たちは自分たちの気分や思いを覆い隠すことなくナァラにぶつけてきた為、相手の真意を考える必要等なかった。「気に入らない」と言われれば、何か気に入らない事があった訳だし、「役立たず」と言われればただ頭を下げるしかなかった。そこに、双方向の交流は無かったのだ。
そして改めて思う。悪意を選ぶ事は簡単だ。村長の家での生活のとおりにすればいい。けれど…この、奉献の徒との旅を、村長の家の様に過ごすのは嫌だった。だから、ナァラは、自分の意志で管理神官の「善意」を信じると、決めた。
(であれば、今、私は巫女として問われている。その期待に、応えたい…)
ナァラは瞳を閉じて、考えを巡らせる。
行先を知るという事はどういう事だろうか。行先を知ったら、自分はどうするのだろうか。
(行先を知ったら、当然、行先に思いを巡らせる…。それの何が問題?
私の行動が問題視されるとして、それはどんなことだろう…。
今、私は巫女として問われている。
…行先について思いを巡らすのは、巫女の仕事?いえ、違う。それは、私個人の思いで、ただの興味でしかない…。
巫女の仕事は、皆の思いを受け取り、考え、理解する事。)
「告解の儀を経て、巫女様は少しずつ人々の思いと共に歩み始めておられます。今、巫女様が何を感じられているか私には分かりませんが、巫女様が悩み、導き出した考えこそが、答えなのではないでしょうか。それは、我々俗物には到底及ばぬ世界なのです。」
瞳を開き、管理神官を見つめるナァラ。
「…そろそろ出発となりますので、ご準備をお願いいたします。」
管理神官はナァラに一礼し、木に立てかけておいた自分の荷物に向かって歩き出す。
突然会話が終わってしまってナァラは戸惑い、管理神官の背中を見つめたまま立ち尽くす。
その様子を伺っていた一行のメンバーは、胸にわだかまりを感じつつ、各々の荷物を手に取り、出発の準備を始めた。
荷物を背負った管理神官が、倒木に腰掛けたまま準備をしている守護主神官の横を通り過ぎる。
「管理神官殿も、大変だな。」
すれ違いざまに放たれた言葉に反応して守護主神官を睨みつけると、彼は、普段見ないようなにやけ顔で笑っていた。
管理神官は、心の中で舌打ちをし、彼を無視して、その先へと足を進める。
守護主神官から少し離れた所で振り返ると、準備を終えたメンバー達がゆっくりと彼の方へと集まってきた。
その中には、馬に乗ったナァラもいて、心細そうに管理神官を見つめている。
管理神官は、それに背を向け、進行方向に向き直ると、ゆっくりと息を吸い、そっと溜息をついた。
「出発する。」
彼の一声で、一行は進み始める。
その全員が自分の横を通り過ぎたのを見届けてから、守護主神官は荷物を背負ってゆっくりと立ち上がり、一行の後について歩き始めた。
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どれくらい進んだろうか。
森の様子に特に変わりはなく、どこまでも同じような景色が続いている。
多くの旅人や馬車が通る道なのだろう。これだけ緑豊かな森の中にあって、その道は全くその存在感に危うさを感じさせず、それなりの道幅を保ったまま緩いカーブを描いて森の奥へと、さらに続いていた。
馬の背に揺られながら、ナァラは管理神官の背中を見つめた。
ナァラは、管理神官という人物が良く分からない。
本当にナァラの事を心配し、気にかけてくれていると感じる時もあれば、まったっく興味がないとでもいうように素っ気ない時もある。
自分が何か気に障ることを行ったのだろうか?と、考えてみたが、ナァラには心当たりが見つからなかった。
弱音を吐いた時には支えようとしてくれた。だから、そういう態度が気に入らない、という訳ではないだろう。では、さっきの会話が途中で打ち切られたのは、何がいけなかったのか。
質問すること自体がいけない?いや、前は色々と教えてくれた…。
スッキリしない気持ちを抱え、ナァラはそっとため息をつく。
見上げる空は、その多くが木々に遮られ、その先にあるはずの青空も薄雲に覆われ、殆どその姿を見ることはできなかった。
(全然考えがまとまらない。…それなら、何も考えずに頭を空っぽにしたいな。
いっそ、歌でも歌おうかな…。そしたらみんなどんな顔をするかしら?)
一同が、特に管理神官があっけにとられる様子を思い浮かべ、ナァラはふと、可笑しくなってしまった。
「ふふふ…」
心配そうにナァラの横を歩いていた赤の守護神官が、ちらりとナァラの顔を覗き見た。ナァラと赤の守護神官の目が合うと、こっそり笑っていた所を見られたナァラは、彼女にはにかんだ笑顔を向け、それを受けて彼女も気分が持ち直すのを感じて微笑み返す。
最後尾を歩きながらそんな二人の様子を見つめていた守護主神官は、場の空気が和むのを感じて意外そうに肩眉を上げた。
(あいつ、やるな。俺たちではできない巫女様のサポートをしっかりやってやがる。任務が終わったら一杯奢ってやりたい所だが…)
…だが、そんな日は決して訪れない。
お互い顔も名前も知らない彼らは、各地にある教団の拠点から直接任務地に集められる。そして、任務が終われば直ちに任を解かれ、再び別の任地へと向かう事となる。
念入りなことに、教団では、生贄の巫女の旅立ちの季節の前後には、各地の拠点において多くの異動の辞令が出され、任地の入れ替えが行われる。「たまたまその時期が異動の季節と一緒なだけ」というのが公式見解だが、誰が奉献の徒に選ばれたのかを分からなくするため、という目的が含まれているのは間違いないだろう。
当然、自分から「奉献の徒に参加した」などと公言するのもご法度だ。
そんな訳だから、仮に奉献の徒のメンバーが偶然どこかで再開したとしても、お互いがそうだと気づくことは無い。
(みんな、仲間なんだけどな…。)
ふと感傷的な気持ちを抱いたことに自分で驚き、それを打ち消すように頭を振って自嘲気味に笑った。そして、二人から目を逸らし、周囲の森に目をやった。
先頭を歩く管理神官は、進行方向に異変を感じて目を細めた。
「…倒木か。」
道を塞ぐように2本の倒木が道を塞いでおり、馬に乗ったまま乗り越えるのは難しそうだった。
(一度巫女様に馬から降りて頂くか…)
詳しい状態を確認しようと、倒木に近づこうとした管理神官は、後方から響いた鋭い、しかし抑えられた声を耳にして足を止めた。
「止まれ!」
振り返ると、皆一様に足を止め、守護主神官の方を見つめている。
「巫女様を馬から降ろして、両脇に馬を配置しろ!急げ!」
再び発せられた声に、一瞬困惑したのち、慌てて赤の守護神官がナァラを馬から降ろすとともに、馬を引いていた青の世話人たちがあわてて馬の配置を整える。
只ならぬ雰囲気を感じ取り、管理神官が最後尾へ走った。
「どうした!?」
何かを探すように周囲の森を睨む守護主神官がポツリと呟く。
「一瞬、影が見えた。何かいる。」
管理神官は顔を険しくし、小声で問いかける。
「朧か?」
「あいつらがそんなに簡単に姿を晒すマヌケだとは思えんがな…。世話人と赤の守護神官は巫女様の近くへ!青の守護神官は左翼警戒!右翼は俺が見る。」
管理神官は、はっとして、前方の倒木の事を守護主神官に告げると、一瞬で鬼の形相となった守護主神官が吠えた。
「待ち伏せだ!」
刹那、複数の鋭い風切り音がしたかと思うと、鈍い音とともに管理神官の足元と馬の傍の木の幹に矢が突き立った。