第7話 光と影
ナァラは、固い木がぶつかる硬質な音で目覚を覚ました。
ぼんやりとした状態から、ゆっくりと自分の状況を確認する。
柔らかな布団に包まれて、薄暗い天井を見上げていた。
…ここは、宿の部屋だ。
「お目覚めになられましたか?」
控えめにかけられた声の方に首を傾けると、そこには、ふくよかな方の赤の世話人が椅子に座ってこちらを見つめていた。
その口には微笑みを湛えているが、目元に着けた半面には未だに慣れず、ナァラは一瞬驚き、慌てて上半身を起こした。
ナァラの、まじまじと見つめる視線を受け、赤の世話人は更に笑みを深めて優しく話しかけた。
「お体は、もう大丈夫でしょうか?」
ナァラは、告解の儀の終了後、まともに歩くことができなくなり、赤の守護神官に背負われてこの宿まで帰ってきたのを思い出した。そして、そのまま眠ってしまったことも。
「はい。お陰様で。
…もう、朝でしょうか?」
「お昼ですよ。起きられますか?」
ナァラが随分寝てしまった事実に驚くとともに、昨日の出来事を思い出し、無意識に眉根に皺を寄せた。
天幕の中での、黒い告白。そしてその重さに押しつぶされそうになった。
その中で見た、蠢く影と、白い光。
そして、自分の名前を呼ぶ声。
あれは…現実だったのだろうか。それとも…
再び固い木と木がぶつかる音が響く。
ナァラは顔を上げ、赤の世話人に問いかけた。
「あの音は?」
「守護神官達が、裏庭で剣の稽古をしているようです。」
そう言って、赤の世話人は窓際まで歩いてゆき、閉じられていたカーテンを開く。
突然昼の力強い日差しが降り注ぎ、ナァラは思わず目をつぶって顔を逸らす。
「おや、失礼しました。
…今、食事をお持ちしますね。」
光に驚くナァラの様子に微笑みを漏らしながら、赤の世話人はそう言って部屋を出て行った。
ナァラは、赤の世話人が部屋から出て行ったのを見届けると、ベッドを両手で押したり、体を跳ねさせてみたりしながらベッドの柔らかさを堪能し、その気持ちよさに思わず微笑んだ。
それから、両手を広げて、そのまま上半身をベッドに投げ出す。
上質なベッドは、その体を優しく受け止め、そっと包み込んだ。
「ふふふ…」
再び外から、誰かの掛け声とともにカーンという硬質な音が聞こえた。
ナァラは少しだけベッドの上をゴロゴロと転がり、それから、名残惜しそうにゆっくりと立ち上がった。
少しふらつきながら窓際まで歩き、その2階の窓から裏庭の様子を眺める。
裏庭では、半面を着けた男性と女性が木剣を構えて向き合っており、傍では別の男性が一人、杖のように地面に突き立てた木剣に自身の上半身の重さを預けながら見守っていた。
皆、見慣れたマントを着けていなかったため、ナァラは初めはそれらが誰だか分からなかったが、よく見れば、向かい合っているのは守護主神官と赤の守護神官。傍らにいるのは青の守護神官のうちの一人だった。
突然、掛け声ととともに、木剣を正面に構えたまま、赤の守護神官が踏み込んだ。踏み込みと同時に手首を効かせ、相手の頭部目掛けて切り込む。
難なく防がれるが、手首を使って弧を描き、弾き返された力を受け流すと、さらに下段から顎を狙って振り上げる。
守護主神官は揺るがず、全ての攻撃を捌いてゆくが、赤の守護神官はその都度円運動で間を置かずに連続で切り込んでゆく。
流れるようなその剣さばきは、まるで舞を舞っているようだ。
息をつかせぬ連続攻撃。しかし、全く隙を作り出すことができず、さすがに息切れしたのか、赤の守護主神官が後方に跳躍して距離を取る。
だが、距離を取ろうとした所を、一気に守護主神官が間合いを詰め、無造作に木剣を下から振り上げた。赤の守護神官はその一撃を受け止め切れず、彼女の木剣が宙を舞う。
木剣は回転しながらナァラの目線と同じ高さまで上がり、そのまま落下してゆく。
「あ、巫女様。」
打ち上げられた木剣を見上げた青の守護神官が二階の窓から見下ろしていたナァラに気づき、声を上げる。
その声につられて、皆がナァラの方を見上げた。
突然皆に見つめられて、何だかこっそり覗いていたようなばつの悪さを感じつつ、ナァラは窓を開けて中庭に声を掛けた。
「皆さん、おはようございます。」
「巫女様、もう昼ですよ。」
木剣を拾いながら赤の守護神官が笑いかける。
「そうでした…」
ナァラは、一人遅くまで寝ていた恥ずかしさで、顔を赤くしながらそう答えた。
---
翌日早朝、一行は次の目的地に向けて旅立った。
朝食で一杯になったお腹をさすりながら、ナァラは馬に揺られる。
沢山のおかずが並べられ、「もうお腹いっぱいです」と言っても
「もう一品!」と赤の世話人に勧められたせいでお腹が苦しい。
「管理神官様から、”巫女様は体力に不安があるので、少しでも多く召し上がってもらうよう努力願います”、と言われておりますので…」とも、彼女は言っていた。
宿での食事は、普段食べたことのないような豪勢なものだった。
ただ、旅の途中のように、皆で一緒に食べるスタイルではなく、赤の世話人に給仕してもらいながら、ナァラは一人で食事を採る形となった。
「決まりなので。」
と管理神官は申し訳なさそうに言っていた。
(一人で食べるのには慣れているけれど…)
ただ、食材は間違いなく宿の方が良いけれど、移動中の食事の方が、皆一緒に食べられるので美味しく感じるな、とナァラは思った。
(こんなに良い食べ物を用意してもらっているのに、なんて罰当たりなんだろう…。私、贅沢になってしまってる…?)
そんな事を考えながら道を進んでゆく。
早朝で開いている店は無く、人気の殆ど無い大通りは、本当に同じ町なのかと思うほど静かだった。
馬の背に揺られ、ナァラはそんな街並みを眺める。
だが、この町に着いた時とは違い、ついつい、細い路地に目を向けてしまう。
そこに、誰もいなくてほっとし、誰かがうずくまっているのを見つければ苦しい顔をする。
(あの兄弟は、どうしているかな…。)
そして、告解者達を思い出す。
富めるものも、貧しきものも、持つものも、持たざる者も、誰もが皆、悩みを抱えている…。
ある意味では、世界は公平なのかもしれない。
でも、だからそれでいいとは、ナァラには思えなかった。
ふと、ナァラは周りにいる奉献の徒の面々を見つめる。
先頭を行く管理神官。
続いて青の守護神官が1人。
ナァラの馬を引く青の世話人。
ナァラの横を歩く赤の守護神官。
ナァラの後ろに、青の守護神官。
二人の赤の世話人を挟み、荷物を積んだ馬を引く青の世話人。
最後尾を守る守護主神官。
(この人たちも、何か悩みがあるのかな?
…そういえば、私、奉献の徒のみんなの事、全然知らない…。
悩みどころか、何を考えているのかも分からないや。)
思考に沈むナァラに気付いたつぶらな瞳の青の世話人が、何度かナァラの顔をチラチラと伺った後、小声で話しかけてきた。
「…巫女様。私もね、実は小さいころに親を亡くして、一時は孤児だったんですよ。
昔は、今みたいに平和ではなく、戦争がもうずっと続いていて…。戦災孤児って言うんですかね。それこそ路地裏で暮らしていたんですが、まぁ、運が良かったんでしょうね。とある人に拾ってもらって、その人の店で働かせてもらったんです。そりゃ必死で働きましたよ。で、まぁ、色々あって、今では教団で働いているんですが…。」
ナァラは、驚きとともに青の世話人を見つめた。
彼は前を向いたまま、小声で話し続ける。
「まぁ、何が言いたいかって言うと、家のない人間なんてどこにでもいるって話です。もちろん金持ちも。この町が特別という事はありません。どの町にも、光と、その光の強さに応じた影があるんです。ですから、巫女様が心を痛める必要は、無いんじゃないかなって…。」
「おい、個人的な話は禁じられている。」
唐突に、管理神官の声がした。
ナァラは反射的に顔を上げて管理神官を見るが、彼は振り返ることなく、前を向いたまま歩みを進める。
「す、すみません…」
謝る青の世話人。
彼は、ナァラと目を合わせると、ばつが悪そうに肩をすくめて前に向き直った。
ナァラは、再び青の世話人を見つめる。
身の上話を聞く前と、後。彼は何も変わっていないのに、何だか少し違って見えた気がした。
(変わったのは、私の方…?)
彼なりのやさしさで、ナァラを励ましてくれたのだろう。
その事実は、純粋にナァラにとって嬉しかった。
だから、感謝の言葉を告げる。
「ありがとうございます」
ナァラは顔を上げて、行く先を見つめる。
気付けば町外れまで来ており、一本の道が平原に続いていた。
ナァラは、この世界の事を何も知らない自分に気づき、それと同時に、そのことに気づくことができた幸運を噛み締めた。
(村で暮らしていたら、こんな事、知ることも考えることもなかった。仮に、お義父さんお義母さんが生きていたとしても、村で暮らしていたら、同じだったかもしれない。)
今まで、ナァラでは、村長の家の使用人でないとしたら、村人として慎ましく暮らす、という以外の選択肢を知らなかった。
けれど、今、村の外に、大きく世界は広がっていて、様々な人々が多種多様な暮らしをしていることを知った。
(知らなければ、考える事すらできなかった…)
ナァラは、この、知らないことだらけの世界を、そこに暮らす人々の営みを、その喜びと苦しみを、知りたいと思った。
同時に、ふと閃く。
世界を、人々を知って、理解するのが巫女の務めなのではないか。
人々の代弁者となる、というのはそういう事なのではないか、と。
…自分にそれができるのだろうか?
世界の一端に触れ、興奮気味だったナァラは、しかし、巫女の務めを思い出し、その先に待ち受ける生贄という運命に、寂しさと悲しみを感じた。
(せっかく、知ることができたのに…全て、終わってしまう。)
そして、自嘲気味に笑う。
(そもそも、最後までバレずに辿り着けるかすら分からないのに、生贄の心配なんてしてる場合じゃないか…)
雲が多く、日が陰りがちな中で風が出てきた為、少し肌寒く感じてナァラはマントにくるまった。
無言で進む一行の進む道は、蛇行しながら岩場を避け、鬱蒼とした森の中へと続いている。
ナァラは、その森を見つめ、自分が、まるで大きな生き物の口の中に自ら飛び込んでゆくような錯覚を覚えた。