第6話 名前
「本当に、本当にありがとうございました。」
天幕の中に焚かれた香の香りを塗りつぶすような、強い香水の匂いと共に、女は天幕から出て行った。
ナァラは、憔悴した状態で椅子にもたれかかり、今しがた出て行った女性の事を思い返す。
それは、とても美しく、裕福な家の女性だった。親や兄弟の社会的地位も高く、親族に醜聞もない。
それでも、そんな、望むもの全てを手に入れたように思える女性であっても、他の女性に嫉妬をした。
交際中の男性がいるが、どうにも他の女性もこの男性を狙っているようで、この男性に色目を使ってくるそうだ。自分の方が家柄は上だが、相手の方が美しく、どうにも落ち着かない。
もし、男性の愛を奪われるような事があったらと思うと、夜も眠れなくなるという。
大切なものが奪われる事を恐れた彼女が、心に悪意を宿すのにそう時間はかからなかった。
彼女は邪悪な企てをたて、だが、そこで我に返り、そんな事を考えてしまった自分が恐ろしくなって今に至るそうだ。
ナァラは、当然そんな悩みを抱いたことは無い。
理屈としてはあり得る感情なのだろうが、まったく同情する気持ちは湧いてこなかった。
欲しいものが手に入らない?
それは、ナァラにとってあたりまえの事だ。
そして、それはそんなに特別な事ではないと思っている。
一方で、多くの望む物を手にする人たちがいることも知った。
けれど、彼らはどれだけ多くの物を手に入れても、足るということを知らない。
だから、手に入れれば手に入れるほど失うものが多くなり、怯えなければならないのではないだろうか。
そうであれば、なぜ人は多くを求めるのだろうか?
深刻そうに話す彼女の言葉に耳を傾けながら、ナァラはその時、苛立ちを覚えていた。
その手に持ちきれない程の荷物を抱え、荷物が落ちそうだ、盗られそうだ、隣の人の荷物が気になる、と騒ぎ、挙句、それが苦しいとさも深刻そうに語る彼らが、同じ人間なのだとはにわかには信じられなかった。
そして、そんな彼らの話を自分が受け止めなければならないという事実。持つものが持たざる者に懺悔するという状況が、酷く滑稽で、醜悪だと感じた。
一体、告解の儀とは何なのだろう…。
彼らの醜い欲望の顛末を受け取って、巫女は一体どんな人々の代弁者となるというのだろうか。
自分は、ただただ罪人の代わりに生贄となって裁かれるという事なのだろうか?
ナァラは絶望的な気持ちになり、誰もいなくなった天幕の中で、椅子の背もたれに体を預けて天を仰ぐ。
なるほど、これは薬が無ければどうなっていたか分からない。
両手で目を覆い、大きく息を吸い込み、それから歯を食いしばった。
そうしていなければ叫び出してしまう気がした。
どうしようもない感情を抱え、何もかもを誰かに吐き出したい衝動に駆られる。
しかし、儀式内での出来事について口外することは禁止されており、この気持ちは、ナァラが自分で何とかするしかない。
ふと、脳裏に、昼間見た路地裏の少年が浮かんだ。
世の中が理不尽だなんて事は、とっくに理解したつもりになっていた。だが、ではどうしてこんなにやるせない気持ちになるのだろう。
「私、何やってんだろう…」
うつろな瞳で、重ねてつぶやく。
「生贄の巫女って、何なの…?」
ナァラは、視界の端で影が踊っているように感じ、それを遮るように瞳を閉じた。
しかし、目を閉じても、瞼の裏で影が蠢き、こちらに迫るように近づいてくる。
それは、虫と思えば大量の小さな虫にも見えたし、波だと思えば波のようにも見えた。
やがて、波は大きくうねりながら円を描き、ナァラの周りの物を飲み込み、そして、ギリギリまで距離を詰めた後、一飲みに彼女を飲み込んだ。
悲鳴を上げそうになり、反射的に目を見開くが、声が出なかった。
視界がぼやけて、何だかよく見えない。それに、少しずつ周りが暗くなっていくのは何故だろうか。
ナァラは、吐き気と頭痛に苛まれながら、急速に意識が遠のいていくのを感じた。
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風が出てきたのだろう、天幕がはためいている。
外では、変わらず守護神官たちが周囲を警戒していた。
そんな中、守護主神官は、遠くに見える町灯りを見つめている。
最後の告解者と入れ違うように、マントを風になびかせながら管理神官が天幕に向かって歩いてくる。
その姿をじっと睨みつける守護主神官。管理神官は途中でその視線に気が付き、それを受け止めたまま歩みを進める。
空では、雲が風に流され、その隙間から星の瞬き見えていた。
管理神官は守護主神官の目の前で立ち止まり、そのまま無言で睨みあう。
根負けしたのだろうか、管理神官が大きくため息をつき、声をかける。
「言いたいことがあるなら言え。」
「何故巻き込んだ?」
より目つきを鋭くさせた守護主神官が問い詰めた。
「馬鹿!」
驚いた管理神官は慌てて抗議したが、慎重にあたりの様子を伺いながら小声で返す。
「滅多なこと言うな。ネズミがいるぞ。機を伺え。」
守護主神官は鼻で笑ったが、管理神官はそれを無視して通り過ぎた。
「お前、一体何を企んでいる?」
すれ違いざまに守護主神官が残した低い声が耳に残る。
管理神官はため息をつきながら星空を見上げた。
輝く星は、あの頃と何も変わっていない。変わったのは自分たちだ。…だが、変わらない思いもある。
無意識に拳を固く握りしめていた事に気づき、その手の力を緩めながら、管理神官は自嘲気味に笑う。
暫く、そのまま風に吹かれながら歩き、気づけば、天幕の前まで辿り着いていた。
無言で天幕の入り口を見つめる。
この中に、生贄の巫女がいる。告解の儀等という、不愉快な儀式に身を晒しながら、一人耐えている少女が。
大きく息を吸い、ゆっくりと吐き出す。
「巫女さま、失礼いたします。管理神官です。」
しかし、天幕の中から返事は聞こえてこない。ただ、風に波打つ天幕の音が響くのみだった。
「巫女様…?」
一瞬の逡巡の後、顔をこわばらせ、管理神官は声を張る。
「巫女様、失礼いたします!」
飛び込んだ天幕の中は、甘ったるい香水の匂いで充満していた。
開け放たれた入り口から風が入り、天幕内の空気をかき乱す。
蝋燭の炎が激しく踊り、天幕に様々な影が踊った。
その天幕の中央で椅子の背に体を預け、彼女はそこにいた。
うつろな瞳で宙を見つめているその顔はやつれ、まるで昼間とは別人のようだった。
「巫女様!!」
咄嗟に駆け寄り、声をかけるが反応は無い。
生気のない顔は、呼吸をしているのかはっきりと分からず、脈を確認するためにやむを得ず手首を掴んだ。が、その冷たさに戦慄する。
必死に手首で脈を測るが、うまく脈を取ることができなかった。
「失礼します!」
首筋に手を当て、ようやくその脈動を確認した管理神官は、彼女が生きているという事実に、思わず片膝をついて大きく息を吐きだした。
その額には汗が浮かんでいる。
虚ろな少女の顔を見つめ、呼びかける。
「巫女様!巫女様!」
反応を示さない彼女に戸惑い、肩をゆすりながら繰り返し呼びかける。
「巫女様!ナァラ様!」
(このまま目を覚まさなったら…)
ふとよぎる最悪のケースに身震いし、必死で声をかける管理神官。
風に揺らめく蝋燭の炎が、二人の影を波打つ天幕に映し出している。
それはまるで、誰かが踊っているようにも見えた。
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気が付くと、私は真っ白な何もない空間で、ぼんやりと漂っていた。
何もないけれど、むしろそれが心地よい空間。
誰も、私を傷つけない。
ああ、お義父さんとお義母さんに会いたいな。
病気さえ流行らなければ、今も一緒に居られたのに…。
ぼうっと、ただ、漂い続ける。
もう何も、考えたくない…
?
…どこからか声が聞こえる。
巫女?誰の事だろうか。それと、村長の娘の名前…。
私は、あの子の事、好きじゃない。だって、私に意地悪をするから。
それにしても、しつこく呼び続けている。
私はゆっくり眠りたいだけ。ずっとこうしていたいのに…。
本当にしつこい。私はその娘が好きじゃなの。そんな名前、聞きたくない。
もしかして、私を彼女と間違えている…?
本当にいい迷惑だ。
私は、そんな名前じゃない!
…ようやく静かになった。
良かった、やっと休める。もう、ずっとこのままが良いな…。
その時、気のせいだろうか、自分の名前を呼ばれたような気がした。
でも、もうその名前を呼ぶ人は誰もいないはず。
お義父さんもお義母さんも死んでしまって、その後…私は生贄として名前も捨てられてしまった。私自身と一緒に。
だから、その名前を呼ぶ人はいない。きっと、聞き間違えだ。
別に、誰も使わない名前なんだから、誰からも必要とされていない自分なんだから、消えてしまっても仕方ない。
仕方ない。
でも、だったら何で涙が出てくるのだろう。
次から次へと流れてくる涙で顔がぐちゃぐちゃになる。
本当のお母さんが残してくれた、紐飾りを抱きしめる。
私、消えたくないよ。
「…ーミ!」
…?。聞き間違えじゃ、無い?今、確かに…私の名前が聞こえた。
「…オーミ!」
でも、一体誰が…?
もう、私の事を知っている人は、誰もいないはず。
「ユオーミ!」
ふと気が付くと、目の前に知らない人がいた。
半面を着けた怪しい男の人が、私の両肩に手を置き、顔を覗き込んでいる。
何故だろう、この人を知っている気がする。
「あ…」
そうだ、この人は、管理神官さんだ。
私は…。そう、儀式の途中だったはず。
「巫女様…。良かった…。」
まじまじと管理神官さんの顔を見つめる。
こんなことを言うのは何だけれど、額に汗を浮かべ、顔をゆがめて酷い状態だ。と、その半面から一筋の雫が頬を伝い落ちた。
涙…いや、汗?
私に見つめられた管理神官さんは、恥ずかしそうに微笑んだ後、後ろを向いてしまった。
半面を外し、腕で顔を拭っている。
「気を、失っておられたのです。」
「え?」
辺りを見回して、自分の状態を確認する。
儀式用の天幕の中で、私は椅子に座っているが、周りにいるのは管理神官さんのみで、告解者は見当たらない。焚かれていた香も、もう終わりかけなのだろう、大分薄くなっているのを感じた。
さっきまで、私は…
ふと、疑問を口にする。
「私の名前を、呼びましたか?」
振り返らず、彼は答える。
「…目を覚まさなかったため、不遜ながら、お名前を呼ばせていただきました。」
「何と、呼びましたか?」
自分の事を何と呼んだかなどと、随分間の抜けた質問だとは思いつつも、聞かずにはいられなかった。
「ナァラ様、と。」
「そう…ですか。」
あれは、幻聴だったのだろうか。
釈然としない気持ちもあったけれど、そもそも儀式の途中も、現実なのか幻なのか分からないことは色々あったので、今更なのかもしれない。
急に、紐飾りが気になって足元を覗こうとしたけれど、体がだるくて、椅子の背もたれから体を浮かせるのが億劫だった。仕方なく私は、座ったまま右足をまっすぐに持ち上げる。
その足首には、出発の時から変わらず、紐飾りが結ばれていた。
「私」の唯一の持ち物。
私が私である証明。
お義父さんから聞いた話だと、お母さんは私を生んですぐに亡くなったそうだ。
だから、顔も知らない。
けれど、この紐飾りを残してくれた。
肌身離さずずっとつけていたけれど、一度”ナァラ”に取り上げられそうになって、それからは身に着けずに隠し持っていた。
お母さん、私の為に紐飾りを残してくれて、本当にありがとう。
もしかして、さっき私を呼んでくれたのはお母さんだったのかな…。
私、もう少し頑張ってみるよ…
「随分と憔悴されています。早々に宿に戻りましょう。」
そう呟く管理神官さんを改めて見つめる。
後ろ姿ではあるけれど、半面を外している姿を初めて見て、「半面って、外すことができるんだ」等と当たり前のことを思った。
「あの、こちらを向いてもらってもいいですか?」
管理神官さんが、半面を着け直してこちらに向き直る。
「いえ、半面は外したままで。」
「駄目です!」
「えー、残念。」
管理神官さんの汗が、まるで泣いているように見えたのと、私の頭がぼうっとしているせいだろうか、軽口が口をついた。