第62話 青い煙
「ウオオォォォォォ!!」
叫ぶアルバーダの驚異的な膂力で放たれた矢はしかし、その巨大な猪の固い毛と筋肉に阻まれ表面を傷つけるに留まる。
猪を狩るには急所を、つまり内臓を狙わなければならないが、この大猪は側面からの攻撃を受け付けない。
アルバーダは確信する。この大猪は側面から仕留める事はできない。つまり、真正面からあの巨体と向き合わなければならないのだと。
「私の槍を持て!! 近づきすぎるなよ!」
猪の突進を馬で避けながら叫ぶアルバーダに反応し、側近の一人が馬で槍を持ったままある程度まで近づくと、その槍を地面に突き立て、再び距離を取る。
アルバーダは巧みに馬を操りながら大猪を躱しつつ、槍の近くまで来ると馬から飛び降り、それを引き抜いた。
柄の部分は通常と同じく木でできているように見えるが、中心にだけ細く、強靭な鋼の芯が通った特注品。それは、大陸戦争をアルバーダとともに駆け抜けた、彼の一番の戦友。
通常の数倍の重さのそれを両手で握りしめ、その重さに満足すると、不敵に微笑んだ。
あの大猪と正面からやり合うならば、中途半端では押し負ける。下手に弓など使えば、恐らくその牙で胸を切り裂かれるのは自分の方だろう。
粗い鼻息を背中で聞いたアルバーダはゆっくりと振り向く。そこにいるのは、こちらを睨み、怒りを漲らせる怪物。
「相手にとって不足なし!」
誰もが固唾を呑んで見守る中、猪は尾を逆立てると上下の牙を激しく擦り合わせてカチカチと金属的な音を鳴らした。
猪は、遠目には下顎からの牙が目立つが実際には上顎にも牙を持ち、この両方の牙を擦る事で牙を研ぎ澄ませる。その牙の鋭さは、彼らの突進力と相まって恐ろしい程の殺傷力を持つ。
やがて、激しく鼻を鳴らす大猪の口から白い泡が吹きこぼれた。前足で地面を激しく掻くと、姿勢を低くする。
(来るッ!)
猛然と突進してくる大猪。その圧倒的な質量が、咆哮とともに向かってきた。
「オオオオォォォォォ!!」
負けじと雄叫びを上げ、両手で得物を構えたまま突っ込むアルバーダ。
スピードもパワーも、人間などでは比較にならない獣が、一直線にアルバーダを目指す。
二つの影が衝突する寸前、アルバーダは全身全霊の力を込めて槍を突き出し、その切っ先は、真っ直ぐにこの猛獣の目に吸い込まれてゆく。目から入ったその一突きは、頭蓋骨に遮られることなく脳に到達する。だが……
「ムウゥッ!!」
槍先があっという間に眼孔に吸い込まれ、アルバーダに大猪の牙が迫る。最早回避する暇もなく、彼は歯を食いしばると槍を握る手に渾身の力を込めた。
一瞬後、脳を切り裂き、頭蓋骨の後頭部にぶち当たった槍が硬質な音を響かせると同時に凄まじい衝撃が襲う。
獣の突進とアルバーダの突きの威力がぶつかり合い、それでも骨は砕けない。力がそのまま槍に跳ね返り猛烈な圧力で槍を押し返すその勢いに、体ごと吹き飛ばされそうになりつつも、槍を掴んで耐え、すぐそこにある牙に切り裂かれるのを防ぐ。
その槍も力の逃げ道を求めて激しく波打ち、それでもそれを掴んで離さないアルバーダの手の皮膚を、摩擦が手袋ごと引き裂いた。
必死で踏ん張るも、足元が土埃を上げて滑り、猪の突進のまま体が後ろに押され、背後の大木が迫った。このままでは木と猪に挟まれて潰されてしまうとアルバーダは悟る。
久しぶりに思い出した「死」の感覚に、アルバーダは総毛立ち、凶悪な微笑みを浮かべて全力で槍を捩った。出血した手の平からさらに血が迸るが、掴んだ手は離さない。
「ガ、ア、アアアアァァァァ!!」
力の渦が波のようにうねり、柄を覆う木材が耐えかねて槍先から順に爆ぜ、鋼の芯が剥き出しになる。破砕の波が瞬く間にアルバーダの手元まで到達すると、強烈な横ぶれがアルバーダを襲い、血で手が滑った。
その刹那、彼は横ひねりを加えたその力によって真横に投げ飛ばされる。
そのまま大猪は大木に激突し、その幹をへし折ると、崩壊した木がその全質量で獣を直撃して轟音と激しい土埃を捲き上げた。
地面に叩きつけられ、激しく息を切らせるアルバーダ。見開いた目に映る空から、同じく弾き飛ばされた彼の槍が回転しながら降り注ぐ。
鈍い音をたてて彼の頭の横に突き立ったそれは、木で覆われた柄を失って鋼の芯が剥き出しとなり、大きくひしゃげていた。
息を整え、その槍に掴まりながら立ち上がったアルバーダは、猪に目をやる。
脳を突かれ、巨木に押し潰されたそれは、血だまりの中で絶命していた。
誰もが絶句する中、アルバーダは無残な姿となった戦友である槍を見つめる。そして、血まみれの手でその芯を撫で、目を細めて呟いた。
「……いい夢見させてもらったぞ」
そして、拳を突き上げ勝鬨を上げる。
「我ら、アカネイシア王国の前に敵は無し! 王と、この国の未来にこの勝利を捧げん!!」
一斉に周りから歓声が上がり、誰もがアルバーダ目掛けて駆け寄ってくる。
ヨスホースの取り巻きも、ヒルラインの取り巻きも、安堵の声を上げつつも、その時、自分の主がいないことに初めて気が付き、一瞬で顔を青くした。
その衝撃はアカネイシア王城を駆け巡った。
第一王子のヨスホースと第二王子のヒルラインが同時に王を訪ね、ヒルラインが兄を支えると明言したのだ。
王と王子の接触を阻もうとした者達も、二人の王子が同時に現れたことで策を弄する事が叶わず、押し切られる。
また、軍の最高責任者であるアルバーダ将軍がこれを支持し、良からぬ企みを持つ者は容赦しないと公言した事も大きかった。
今まで一切政治に関わろうとしなかったアルバーダ将軍が、体制の支持を明確に打ち出したことで、ヒルライン派の貴族たちは更なる調略を断念せざるを得なくなったのだ。
告解の儀の後寝込んでいた王妃とその叔父も、床の中でその報告を聞き、愕然とする。けれど、二人の流した涙の意味は全く異なっていた。
さざ波が広がるように、王都のあらゆる政が、ヨスホースが王位後継者である事を織り込んで一斉に進んでゆく。
統治にまともな血液が通い始め、膿を押し出すと共に、政治的闘争から外れて冷遇されていた心ある者達にも活躍の場が巡ってくる。
国の未来を憂いていた貴族たちはこの政治的安定を歓迎し、祝杯を挙げる。国を覆っていた漠然とした不安が晴れた事により承認の往来も活発となり、景気も上向き始めた。
長い夜が明け、アカネイシア王国に、その国民に笑顔が戻り始めたのだ。
あの日、狩場から姿を消した王子達が、二人仲良く姿を現したのを見て、アルバーダに「しつけ」を受けていた取り巻き達は驚愕する。そして、時代の変わり目を感じ取り、自分たちの行いの無益さに愕然とした。
二人の報告を受け満面の笑みのアカネイシア王は、隠すことなく二人に告げた。
「すべては、巫女様のお陰だ。よもや、巫女様が直接我々に慈悲を下さるとは。かつてこんな話は聞いたこともなかったが……」
ヒルラインが病床で半身を起こす父王に答える。
「はい。この度の巫女様は、かつてのどの巫女様とも異なっているように感じます。あのようなお方が、我らアカネイシア王国の為に心を砕いて頂き、その危機を救って下さいました。その事実が、このアカネイシア王国の繁栄を約束してくれるものと思います。
今後も、巫女様のご慈悲を忘れず、兄上を支えてゆく所存です!」
微笑み、大きく頷くアカネイシア王。そこに、ヨスホースも言葉をかけた。
「父上、実は、生贄の巫女様から父上への伝言があるのです……」
「ほう! 巫女様は何と?」
顔を輝かせるアカネイシア王に対し、言いにくそうに答えるヨスホース。
「……。あの、は、母上としっかり向き合って欲しいと」
「……」
伺うように、ヒルラインが父の顔を見た。
その顔には驚きが浮かんではいたが、それ以上の感情は読み取れない。
「……巫女様がそうおっしゃったのだな?」
「はい。……王様も王妃様も、肩書を持つ前の、一人の人間として互いに接して欲しいと」
「一人の、人間……。巫女様は、不思議な事を仰るな」
「ち、父上……」
ヒルラインが何事か言いたそうに声を掛けるが、その先は言葉にならなかった。
そんな弟の様子を見て、ヨスホースが一歩前に出る。
「父上、我ら兄弟は、巫女様のその教えに導かれ、今ここに共に立っております!」
そんな息子たちの様子をじっと見つめ、アカネイシア王は僅かに口元に微笑みを浮かべた。
「正直、私もお前たちも生まれてこの方、肩書が無かった事など無いのだが……。だが、それがお前たちを導いたというのならば、きっとそれが一つの答えなのだろう。
分かった、私も頑張ってみよう。……お前たちも、気づいた時には教えてくれ」
「父上! は、はいっ!」
アカネイシア王は目を細め、しばらく見ないうちに頼もしくなった息子たちの肩を叩きあう姿を眩しそうに見やる。
(よもや、再びこのような兄弟の光景を目にすることができるとは)
「巫女様には感謝しかない。何か少しでも恩返しできればよいのだが……」
この後の巫女の運命に思いを巡らせ、暗い顔になる一同。
だが、ヒルラインがその空気を打ち破る。
「恩返しと言うならば、それこそ巫女様の教えを胸に、この国を、そして大陸を平和に導き、巫女様がなくとも地上を悪意の黒い霧が覆わぬ世界を目指しましょう!」
「うむ。よく言った。
我らが、巫女様のお力を借りずとも悪意の黒い霧を払えるようになれば、それに勝る恩返しは無いな」
数日前まで城に充満していた閉塞感が嘘のように、この部屋には暖かい光が溢れていた。
一人の少女が「一人の人間として」願い、行動した結果、この国に蔓延していた黒い霧を払い、人々の心に希望をもたらした。
これにより以後、アカネイシア王国は、大陸にある四つの国の中で、巫女の教えを誇り高き翼で抱き守る『赤翼の守護国』として、永く歴史に名を遺す事となる。
「おい、あれは何だ?」
街道をゆく奉献の徒の一行が、行き交う旅人のその声を聞いて思わず足を止める。
彼らが指さす方を見ると、遠く、僅かに見えるアカネイシア王都の城壁から一筋の煙が上がっていた。
目を細めてそれを見つめていた守護主神官がぼそりと呟く。
「あれは、狼煙だな。だが……」
アカネイシア王都の城壁の上で焚かれたその狼煙は、ややくすんだ色をした青色の煙だった。
「青か。アカネイシア王国の狼煙の色の意味は知らないから何とも言えんが、何事も無いと良いんだが……」
最後尾でじっと城壁の方を見つめるオッドー越しに、ユオーミは馬上でその狼煙を見て驚き、告解の儀の最後にアルバーダが聞いてきた質問を思い出す。
「巫女様。巫女様の好きな色は何でしょうか?」
正直、ユオーミは特別この色、と言うものは無かった。どの色にも、それぞれの良さというものがあると感じるからだ。だが、強いて言うならば、と考えた。
ふと浮かんだはアガナタの姿。そして、彼の身に着ける濃紺のマント。
「青……でしょうか」
「青ですね。事が上手くゆきましたら、青い何かでお知らせします」
その答えに悪戯っぽい微笑みを見せるアルバーダ。
(きっと、アルバーダ将軍ね。うまくいったんだ!)
城壁から立ち上る青い煙を見つめて顔を輝かせるユオーミ。そして、その横顔にチラリ目をやり、アガナタは再び前に向き直る。
「さぁ、出発しましょう」
そして再び進み始める奉献の徒。
終わりが見え始めた聖都への旅路。それはつまり、生贄の儀式が近づいている事を意味する。思惑は異なれど、誰もが緊張を胸に歩みを進める。
ユオーミは時々振り返り、その、風にたなびく青い煙を黙って見つめていた。




