第60話 炎
「巫女様、これはどういう事でしょうか?」
第一王子のヨスホースは酷く苛立っているようだった。一方の第二王子のヒルラインは、青ざめたような、呆然とした顔で黙ってこちらを見つめている。
あんなにお互いの事を思い合っていた兄弟。私は、「きっと二人で会えば自然と和解できるはず」と信じていた数日前の自分の甘さに愕然とする。多くの人々の協力を得てこの場を設けた以上、最早後には引けない状況だろう。
大人の男性の放つ怒りの気配に怖気づき、鼓動が早くなる。けれど、ここで投げ出すわけにはいかないと自分を奮い立たせて、私は何とか言葉を探した。
この二人が、どうしてこんなに険悪な雰囲気になっているのか理由は分からなかったが、だからと言って誰も代わりに場を収めてはくれない。これは、自分で始めた戦いなのだ。
とりあえず、という風に、何とか言葉を絞り出す。
「……ええと、お二人に話し合って頂きたいと思いました」
「何を今さら話し合えと?」
巫女に対しての礼儀を最低限失わない態度を保ちながら、けれど隠し切れない怒りを伴い、ヨスホースが押し殺した声をぶつけてきた。
強く感情を滲ませたその声が自分に掴みかかってくるような感覚。それは、村の村長を思い起こさせ、息が詰まって思わず目を瞑った。まるで、一瞬で冷たい霧に体を覆われたかのように、体が硬くなる。
――落ちついて! 彼は、村長さんじゃない! わ、私は……!!
振り上げられる拳、蔑みの目、踏みつける足、罵倒する声。自分と、自分の思いを無いもののように扱い、生き延びてきた日々の記憶が一斉に溢れ出してパニックになりそうになる。
体の芯が急激に凍り付き、両手が小刻みに震え始めた自分に必死で言い聞かせた。
――相手の感情に飲まれては駄目!
飲まれてしまえば、心が潰され、窒息し、そこから黒く、どろどろしたものが滲みだしてしまうから。その恐怖という感覚は、とても自分の中から出て来たとは思えないほど冷酷で、荒々しく私を扱う。
それは私を縛り、拘束し、従わせようとする。そしてそれは、私が私であることを、放棄させようとする。
――そんなの、嫌!!
その時、私は心の中に怒りの炎が姿を現したのを見た。
それは決して大きくは無かったけれど、確かな熱を光に変えて静かに燃える。
どこか空恐ろしさを感じさせるそれが、自分の中から生まれた事に驚き、私は呆然としてしまう。
だが、それは何をするでもなく、ゆらゆらと揺れて光を散らすばかりで、こちらを害する気配はない。むしろ、仄かに暖かささえ感じ、不思議と親しみすら覚える。
ふと、それが一瞬揺らいだかと思うと、歪み、まるで炎が口から吐き出したかのように火の粉が舞った。
――私は、私を抑え込み、従わせようとする全てが憎い!
これは、この理不尽な世界への、私の反撃の狼煙だったのだろうか。
その炎が、瞬きする間に体の表面を走り、私を飲みこもうとする霧を焼き切った。
そして、私は静かに目を開く。
その視線の先にある王子の顔は強張り、彼の瞳には確かに怯えの色が見えた。
気付くと、震えは止まっていた。
そして、ふと思う。
――ここにいるのは、敵じゃない。
彼は、ただの人間だった。それは、告解の儀で散々見てきた人たち。
王も、王妃も。
商人も、町長も。
そして、村長も、ナァラも、皆、ただの人間だった。
そして、私だって一人の人間だ。
――ああ、そうか。みんな、怖かったんだね。
急に、色々な、言葉にならない思いが腑に落ちた気がした。
廃屋は打ち捨てられて相当の年月が経っているようで、多くの蔦が巻き付くその建物は、外壁に無数の亀裂が走っているのが遠目からも確認できた。
周囲の森を警戒している守護神官たちの姿は見えない。どうやら丁度別の場所を巡回しているようだ。実に都合が良い。
うっかり守護主神官に見つかりなどしたら、大ごとだ。あの血に飢えた獣のような男は何をするか分かったものではない。あんな男は巫女様の近くに仕えるのに相応しくないな……
入念に周りを見渡し、誰もいないのを確認すると、足音を殺して廃屋に駆け寄った。
特に大きく縦に走った亀裂の隙間から、廃屋の中が僅かに見える。
荒れ果てたその部屋の中で、先ほど世話人たちで整えたテーブルと椅子が、天井の穴から差す光に照らされてぼんやりと佇んでいた。だが、そこには誰もいない。
隙間から見える範囲で視線を部屋中に走らせるが、やはり休憩している筈の巫女様の姿は見当たらなかった。
消えた巫女。入口を守る管理神官。これが意味する所は何だろうか?
そもそも、人目を避けた休憩であれば、道を外れるだけで良い筈だ。では、この廃屋は一体……
その時、亀裂の隙間から、僅かに人の声が聞こえたような気がした。上手く聞き取れなかったが、男の低いくぐもったような声に聞こえた。……誰か、いる?
まさか……
(!!)
人の気配を感じ、即座に離脱を決断する。
このタイミングで引くのは惜しいが、ここに何か秘密があるのが分かれば充分だ。もしも、巫女を誰かと密会させたなどという事があれば重大な規則違反。後は仲間たちに連絡を取り、徹底的に……
その時、足元で枝を踏み割る乾いた音が響いた。
(しまった……!)
「誰だ!!」
背後の森から、守護主神官の大声が響き渡った。
思考の海に沈んでいたアガナタは、突如響いたオッドーの声に驚き、我に返った。
そして、目の前の光景に驚いて目を見開く。
彼の眼前で談笑しているはずの世話人は一人もおらず、誰も腰掛けていない倒木だけが横たわっていた。
アガナタは、目の前の世話人がいなくなったことに気づかなかった自分の失態に怒りを覚えると共に、強烈な不安に襲われた。
即座に背後の扉を振り返り、最後に見た状態から何一つ変わっていないことを確認する。流石に真後ろにある軋んだ扉を開けられて気づかぬ事は無かったようで、少しの異変も感じられない。
だが、敵に裏をかかれた以上楽観はできない。世話人はどこへ消えたのか? 僅かな失敗も許されず、それが即ユオーミ解放の失敗へと繋がる中での自分の不始末。コントロールできないことが止めどなく増殖してゆく恐怖に、息を飲む。
頭を締め付ける様な痛みを感じて思わず顔をしかめながら、彼は血走った眼で周囲を確認した後、即座にオッドーの声のした方へ走る。
廃屋の壁沿いを疾走し、その切れ目の角を右に曲がると、向こうにオッドーと赤の世話人が向き合っているのが見えた。
「あいつか!!」
そう叫んだアガナタは、自分の視界が歪み始めているのに気が付いていなかった。
オッドーは、廃墟の壁近くに立ち不審な動きを見せていた、細い目をした気難しそうな赤の世話人の腕を掴んだまま低い声で問いかける。
「お前、何をしていた?」
赤の世話人は狼狽し、唇を震わせながら何とか答えた。
「よ、用足しをした後、元の場所に戻ろうとして、ふとこの亀裂から男の声が聞こえた気がしたので気になって……」
「それで、何故逃げようとした?」
彼女がその手から逃れようと身を捩ったため、オッドーは彼女の腕を掴んだ手に力を込める。
「あああぁぁ!」
オッドーからすれば大した力ではないが、赤の世話人が大げさに声を上げるのを聞いて彼は眉間に皺を寄せた。
それと同時に、右方向から駆けてくるアガナタの姿を視界に捕らえる。オッドーは、尋問はアガナタに任せようと思いつつも、違和感を覚えて改めてアガナタの方に向き直った。
アガナタは左手で剣の鞘を掴み、右手で剣の柄に手をかけたまま、猛然と突っ込んでくる。歯を食いしばりながら向かってくる獣のようなその顔には殺気が漲り、尋常な様子ではない。
(切る気だ!)
「待て!!」
世話人目掛けてあっと言う間に距離を詰めたアガナタが鞘から剣を抜こうとした瞬間、オッドーはアガナタの正面に飛び出し、その突進を体で受け止めると同時に、左手でアガナタの剣の柄を抑えて鞘に押し戻した。
「どけェェェ!!」
明らかにまともとは思えないアガナタが、赤の世話人を狙いオッドーを振り切ろうとする様子に焦り、オッドーが後ろにいる世話人に声を掛ける。
「とりあえず行け!」
慌てて駆けて行く世話人の足音を聞きながら、渾身の力でアガナタを抑え込むオッドー。
「邪魔するなァァァ!!」
「落ち着けッ!!」
力でオッドーに敵わない事を知りつつ、それでも剣を抜こうともがくアガナタが、最早オッドーの知るアガナタではない事に気づき、オッドーは血の気が引く気がした。
何とか彼を元に戻そうと頭を捻るが、暴れるアガナタを前に考えがまとまらない。
「くそっ!」
考えるのを諦め、抑え込んだ状態から思い切り左に投げ飛ばし、アガナタの背中を廃屋の壁に叩きつけた。
「カハッ!!」
肺の中の空気が強制的に吐き出され、剣を鞘ごと取り落とすとそのまま足をもつれさせて屈みこむアガナタ。
それでも即座に立ち上がろうとする彼を見て焦れたオッドーは、彼の肩を抑え込むと右頬を張った。突如襲った衝撃に驚くアガナタの顔に、腰の水筒から水をぶちまけた。
「ぶはっ!!」
前髪から水を滴らせ、肩で息をするアガナタを見下ろしながら、オッドーは静かに声を掛ける。
「……落ち着いたか?」
「……ああ。もう、大丈夫だ。
……すまんが、入り口の見張りを頼む。俺が離れてしまったから、今誰もいないんだ」
「……分かった。ちゃんと頭を冷やしてから来いよ」
アガナタをじっと見つめた後、彼はそう言い残して入口の方へと駆けていった。
座り込み、壁にもたれて呼吸を整えようとするアガナタの顔は苦悶に歪んでいる。そして、ようやく息が整った後も、そのままの表情で項垂れていた。
自らの混乱と醜態。
あらゆる事態に対応すべく全力を尽くしてきた中で、前に進む度、その困難は度合いを増してゆく。コントロールできなくなりつつあったその状況の中で、遂に自分のコントロールすら危うくなってきた。
その事実が、彼の不安を増幅させる。
アガナタは心の奥が冷たく凍り付くの感じたが、それに気づかないふりをした。
けれど、そこから伝わる冷たさは無遠慮に体中を侵してゆき、彼は一瞬身震いし、息苦しさに息を吐き出した。
何もかもが上手くゆかなくなる予感が胸をよぎり、恐怖が足元から這い上がってくる。
「こんな事では、彼女を守れない……」
下を向いたままそう呟き、震える自分の腕を掴む。けれど、彼の思いを嘲笑うかのように震えは収まる様子を見せず、アガナタは独り、じっとそれに耐え続けた。




