第59話 死に至る病
アガナタはこの十五年間、ラニーアとの誓いを果たす為、ありとあらゆる可能性を探ってきた。
その結果、圧倒的な教団の力を前にして、自分がいかに無力かという事を身をもって痛感し、絶望的な思いを抱えて途方に暮れる。
考えれば考えるほど、その誓いがいかに無謀であるかを実感する。もう無理だ、どうやっても駄目だ、そう思った。
だが、彼にとって、ラニーアへの誓いを諦めるという事は、理不尽な運命に蹂躙された彼女に対する耐え難い不誠実さだと感じられた。
諦める事も出来ず、さりとて絶望の中で自死を選ぶ事も、彼女の最後の言葉によって禁じられてたアガナタ。
『……生きて、アガナタ』
何もできない罪悪感に苛まれる中、それで腐る事も出来ず、行き場のない怒りのその矛先を自分に向けるしかなかった。どうにもならない無力感を前に、胸を締め付けるような焦燥感だけが込み上げ、自分を責め立てる。それはまるで、心に付いた傷口を掻きむしる様な日々だった。
どうすることもできず、彼は自室に引きこもった。
だが、すぐに思い知る。
一つ呼吸をする度に心を締め上げられる苦しみが、誰もいない部屋の中で延々と繰り返され、これが自分の罪なのだと、受け入れようと藻掻いた。けれど人間は、終わりの見えない時間の中で、ただ自分を壊し続ける事に耐えられるようにできてはいない。
何もかもが耐え難く、けれど、外部からの刺激が僅かでも自分の気を紛らわせてくれるかもしれないと、遂には部屋を出て、惨めな自分の姿を晒しながら当てどなく彷徨った。
そんな中、彼はとある扉の前でふと足を止める。それは、父の書斎の扉だった。そして、僅かな可能性を求め、彼はその扉を開く。
そこには、信じられない量の本が納められていたが、彼は貪るように、それらに片っ端から目を通した。
役に立つかどうかは分からない。いや、むしろその殆どは何の役に立たないだろう。だが、未知を既知として積み上げ、無力感から逃れようとするその作業は、ささやかではあったが彼の気を紛らわせ、救いをもたらした。
無力感と罪悪感、そして絶望。自責の念の海に沈み、もがき苦しむ彼にとって、例え僅かであったとしても、可能性を感じる瞬間、彼は呼吸ができる様な気がした。
その後、彼は父にこの思いを悟られぬよう、教団中央府へ仕官した。元より頭の回転の良かった彼は片手間に最低限の仕事をこなしつつ、後はひたすら知識の森を独り旅した。
「魂喰い」について知ったのもそんな中だった。こんな危険な物、何に使うのかは分からなかったが、最早自分にできうる全ての知識を身に着けて、それでも挑むことすら叶うかどうか分からない絶望的な壁を前に、止まる事を許されない彼は、取りつかれたようにひたすら知識を求めた。
一度体を壊してからは、その日課に体作りが加わった以外は、十五年間、それは変わらなかった。
アーオステニアの蔵書は膨大で、日々増え続けていたが、それを遥かに凌ぐ速さでアガナタはそれらを読破してゆく。
だが、そんな生活が十五年に届こうとしていたある日、彼は気が付いてしまった。このままでは後一年経たずに父の蔵書を全て読み終わってしまうという事に。
それは、僅かでも「可能性がある」という希望を失うということ。そして、そんな希望に縋って自分の無力さから目を逸らし続けてきたという事実を、否応なくアガナタに突き付けた。
――誓いを果たせぬまま知識の森に身を隠し、ただ生き永らえてきたという現実。
このまま何も為せぬまま、希望さえ失い、ただ年老いて、朽ちて行く自分を想像し、気が狂いそうになった。
その時、唐突にギュネスからもたらされた、ユラーカバネの提案。
教団に対するクーデターなど、正気の沙汰ではない。そんな事は分かっている。きっと、自分も、周りも巻き込んで身を亡ぼすだろう。
だがそれでも、彼には最早それ以外の選択肢は存在しなかった。
彼はその話を受けるとすぐに、宿願を成すためのあらゆる事態を想定し、備えた。幸い、今回のルートがアカネイシア王都を通るという情報だけは事前にもたらされたことから、聖都と王都の間のあらゆるルートを踏破し、どこに何があるのか、自分が活用できる手段は何かを徹底的に調べ上げたのだ。
だから、彼は父が本を取り寄せるのに重用していた商人ヨリヨニアリが王都にいるという事実を元に、彼に接触を図り、コネを作る。相手からしても、お得意様でもある教団ナンバーツーの息子とあれば悪い様にはしない。
そんな中で発見した、密会に丁度良い廃屋も、無数に用意した彼の手札の一つに過ぎなかった。
その手札が今、自分達を助け、希望の灯を絶やさぬための命綱となっている事に、アガナタは、この十五年間は無駄ではなかったと感じ、僅かに心が救われるような気がした。
アルバーダ将軍が約束を果たしているのならば、彼の背後に建つこの廃墟の中で、ユオーミは今この国の二人の王子と対面している筈だ。
王子とは言え、良く分からない二人の男と一人きりで対峙する事を望んだ彼女の意思を尊重しつつ、その状況は、彼に十五年前のあの雨の日の悪夢を思い起こさせ、その場に留まり続ける事に極度の自制心を求めた。
目を開けば少し先に見える四人の世話人。倒木に腰掛けて休む彼らの中に、朧が混ざっている。そうギュネスは言っていた。
金属棒を失ったアガナタに彼らを出し抜く術はなく、今この瞬間も、朧は遠くからこちらを見張っているかもしれないという漠然とした感覚が、胸元から染みのように広がってゆく。
言葉にできない不安が、アガナタにありもしない視線を感じさせる。首筋がヒリつき、さらに背中から胸を押すような不快感で肺が縮こまり、息苦しさを感じて彼は目を強く瞑った。
(彼女も……ラニーアも、こんな思いで日々を過ごしていたのだろうか。そうだとするなら、自分がしたことは、救いでもなんでもなく、かのじょに、ぜつぼうを。ぜつ、ぼう……)
おもむろに剣を抜き放ち、鞘を地面に叩きつける。一瞬で世話人たちとの距離を詰めると、瞬く間に全員を切り捨てた。そして、血濡れた剣を構えたまま廃墟に駆け込み、二人の王子を……
ふいにそんなイメージが脳裏をかすめ、彼は咄嗟に目を見開くと同時に空気を求めて激しく呼吸を繰り返す。どうやら、無意識に息を止めていたようだ。
視線の先にいる世話人たちは、倒木に腰掛けたまま青空を見上げ、この様子なら聖都まで雨に降られる心配はなさそうだ、などと天気の話に興じている。
(落ち着け!! ……だが、この密会を朧に感づかれる訳にはいかない。そんな事になれば、自分は解任され、ユオーミは……)
叫び出したいほどの焦燥を胸に抱き、彼は必死でそれを抑え込みながら、額に汗を浮かべ、見えない敵の潜む目の前の世話人たちを睨みつけた。
狭く、暗い地下室の中へと、新たに現れた少女がカビ臭く淀んだ空気を押し分けて梯子で降り立ち、蝋燭の炎がゆらゆらと踊る。それにつられるように、三人の影が地下室の壁で歪に踊った。
「巫女様、これはどういう事でしょうか?」
ユオーミが二人の方を振り向くや否や、第一王子のヨスホースが真顔で彼女に問う。その表情には、抑えてはいても、隠し切れない苛立ちが浮かんでいた。
一方、第二王子のヒルラインは押し黙り、眉間に皺を寄せたまま、兄と巫女をただ、凝視していた。
(何故、どうしてこうなった……?)
ヒルラインは狩場に現れた大猪から身を隠すため、アルバーダ将軍から渡された地図に従い、この廃屋に至った。地図の端には、廃屋のかなり手前で馬を降りるよう指示が書かれており、そのとおり、途中から馬を降りて歩いた。
『貴方にはもっと大事な役目があります』
将軍はそう言っていた。一体それが何なのか分からなかったが、恐らく、この国の行く末に関する事だと、直感的に思った。
力のある貴族、若しくは外国の有力者が協力を申し出るために密会を望んだのか、等と妄想して辿り着いたこの地下室にいたのは、まさかの兄だった。
地下室への梯子を下り、振り向いて顔を見た時、彼は思わず悲鳴を上げそうになった。
驚いたのは相手も一緒だったようで、驚愕の表情を浮かべた後、「お前が来るとは聞いていない」と吐き捨てた。
一瞬、巫女の言葉を思い出す。
『お兄様と、会って話をしてください』
これは、巫女様の計らいなのだろうか? だが、兄上と会って一体何を話せと言うのか。兄の厳しい視線をに思わずドキッとし、目を逸らしそうになるのを必死に耐え、睨み返す。
「こっちだって知らない」
眉間の皺を深くした兄が一瞬躊躇い、それから問い詰めるように言う。
「何故アルバーダ将軍がこんなことを? お前、何か知っているのか?」
その棘を含んだ言葉が、無性に自分を苛立たせる。堪らず、大声を上げた。
「知るものか! 今日兄上がここに来ている事すら知らなかった!」
兄が大きなため息を吐くと、先に来ていた彼が付けたであろう蝋燭の炎が、大きく身を捩った。
黴臭く、薄暗い空間で息を潜めて向かい合う。
そこに言葉は無く、沈黙したままお互いを視界に捕らえているのは苦痛でしかなかったが、けれど背を向けるのは危険だと本能が囁いてもいた。
剣呑な空気が場を支配し、静寂が耳に痛い。
もし今、どちらかが剣の柄に手をかけたなら、間違いなく斬り合いが始まるだろう。そんな事は望んではいなかったが、ではいつまでこうしていれば良いのだろうか?
猜疑心が、相手の一挙手一投足を注視させる。そして、自分の僅かな動作があらぬ疑いを生まぬようにと神経を張り巡らせ、その結果身動きする事すらできなくなった。
動かぬ二人と、その間で僅かに震える蝋燭の火。
沈黙に耐えかねたのか、こちらを睨みながら兄ヨスホースがぶっきらぼうに言う。
「……お前、准将や内務大臣と結託し、良からぬことを企んでいるな?」
やはり兄上は自分を疑っていた! それは彼にとって衝撃ではあったが、どこかで、ようやく答え合わせができたような安堵感もあった。そして、カチリと、頭の中で何かが噛み合った音が聞こえた。
(そちらがその気ならこちらも容赦はしない)
「何を言う! 兄上より実力も、重臣たちからの支持も厚い私が王位を継ぐのがこの国の為! 生まれの早さなど何の意味も持たない!」
自分で自分の言っている言葉が信じられなかった。こんな、恐ろしい言葉を、兄上に……
さっと兄の顔色が変わる。
「貴様!」
その声は、僅かに震えていた。
(ちがう、今のは、そんな事が言いたかったんじゃない!)
だが、興奮した心と口は止まらない。
「やるか!? 剣で私に兄上が勝てるとは思いませんがね?」
(駄目だッ!!)
蝋燭の火を映していた兄上の目に、一瞬怯えが浮かび、それが怒りで塗りつぶされるのが見えた。
どちらかともなく、剣の柄に手が伸びる。
(もう、戻れない!!)
兄弟で殺し合うという地獄が顕現しようかとした瞬間、その声が地下室に響いた。
「生贄の巫女です。どなたかいらっしゃいますか?」




