第1話 旅立ち
ピーヒョロー、という鳶の声に、思わずナァラは頭上を見上げた。雲一つない青空を自由に飛び回る鳥を目で追いかけ、身をよじる。後方に見える森と、その向こうにある山をぼんやりと眺め、ふとバランスを崩しそうになり、慌てて前に向き直った。
慣れない馬上で揺られる彼女の額に、うっすらと汗が滲んでいた。
「一旦休憩にしましょう。」
先頭を歩く管理神官が振り返って言った。
ナァラは世話人の男に支えられて馬から降りると、礼を言い、勧められた木陰に腰を下ろした。
一年に一度、神より選ばれる生贄の巫女。その命と引き換えに世界に平和をもたらすと言われ、悲劇的な最後と相まって、その存在は生ける伝説と言っても過言ではない。この大陸に知らぬものは無く、誰もが畏敬の念を抱いている。
その生贄の巫女の旅路を助け、無事に神殿まで送り届ける為に、教団より「奉献の徒」と呼ばれる一団が派遣される。
彼らは、責任者である管理神官の他に、護衛と世話人で構成されていた。
護衛として、守護主神官が1人。
その配下の守護神官として、男が2人、女が1人。皆20代だ。
世話人は、中年の男2人と女2人の合計4人。こちらは40代位だろうか。
一団の中心の管理神官、そして守護主神官は30歳位だった。
巫女を入れて丁度10人となる彼らは、他に馬を2頭連れており、1頭は巫女を乗せ、もう1頭は荷物を運んでいた。
全員が旅用のフード付きのマントに身を包んでおり、男のそれは濃い青で、女のそれは濃い赤で染め上げられていた。
ナァラがこの一団と旅に出て、最初に戸惑ったのは、その呼び方だった。
初めに管理神官が言ったとおり、彼らは名乗らず、役職で呼び合っていた。しかし、それでは守護神官や世話人のように複数いる役職だと呼び分けができない。
どう呼び分ければよいか尋ねるナァラに、管理神官は素っ気なくこう言った。
「マントの色で呼び分けください。青の守護神官、赤の世話人といった風に。
我々は個人ではなく、役職としてここにおりますので、例えば二人いる青の使用人を呼び分ける必要はありません。どちらでも同じくその任務を果たします。」
ここに来るまで、ナァラは気持ちの整理がつかず、思考はついつい内側へと向かってしまい、特段彼らと会話は無かった。
休憩となった今、改めてどう話しかけてよいか分からず、様子を伺う…。
ふと、赤の世話人のふくよかな方がナァラに近づいて来て話しかけた。
「巫女様、慣れていない馬の旅で、お疲れになったでしょう。」
「すみません、私だけ馬に乗っているのに…」
「いえいえ、大丈夫ですよ。さぁ、お水です。どうぞ。」
ナァラは礼を言って、渡された水を口に含む。
世話人の口元はにこやかに微笑んでいるのに、半面のせいで表情が見えない。
村長の家にいた頃は、彼らの表情で機嫌が分かったし、何を欲しているのかも大体わかったものだが、この一団はそれが全く読めず、ナァラにとっては、非常に居心地が悪く感じられた。
どう振舞えば良いのか分からなかった。
生贄の巫女。
そう。彼女にとって、突然告げられた役割。そしてそれは、本当は自分にあてがわれたものではない。
黙って馬の背に揺られているその間にも、周りの人達を騙しているという罪悪感。
嫌で嫌でしょうがなかった村長の家から出ることができた安心感。
当然のように身代わりにされた悔しさ。
ずっと望んでいて、7年振りに触れることのできた外の世界の開放感。
そして、生贄としての運命が待ち受けている空虚さ。
旅立つにあたり着替えさせられた上質な巫女装束と薄紫のマント。
大地の香り。森の息遣い。
無機質な半面の集団。
彼らの腰に揺れる剣。
色々な感情がぐちゃぐちゃになって、とりとめのない思考の断片が浮かんでは消えていった。
巫女として、ふさわしい振舞いをしなければ、と気持ちを奮い立たせてみても、無理やり罪人に仕立て上げられ、今も罪を重ねているんだ、という苦しみが心を締め上げる。
「巫女様、大丈夫ですか?」
気付くと先ほどの赤の世話人が、ナァラの顔をのぞき込んでいた。
全く表情の見えなかったその半面ごしの顔。しかし、間近で見るその瞳が揺れていることにナァラは気が付いた。
「これを使ってください。」
差し出される手巾。
その時、初めてナァラは自分が涙を流していることに気が付いた。
「お辛いですよね。突然家族と離れ離れになってしまって…」
(家族と離れ離れ…)
村長の事を思い出し、急速に冷えていく心に我を取り戻したナァラは、渡された手巾で涙をぬぐい、力のこもった目で彼女を見つめ返した。
「ありがとうございます。私は大丈夫です。はしたない所をお見せしてしまいました。」
「いえ、そんな…。私たちにできることは致します。何かあればお声がけくださいね。」
離れて行く彼女の背を見つめながら、ナァラは自嘲気味に心の中でつぶやいた。
(何もかも嘘だらけ…。)
気を使ってか、その休憩中はもう誰もナァラに話しかけてくることは無かった。
「巫女様。出発の前に、一つお聞きしてもよろしいでしょうか。」
ぼんやりしている所を、突然管理神官に話しかけられて、ナァラは思わず飛び上がりそうになった。
「な、何でしょうか…?」
「その、右足首の紐飾りは、どういった品なのでしょうか?」
ナァラは自分の右足を見る。そこには、本当の母親が残してくれた紐飾りが巻かれていた。色とりどりの糸で編まれているが、大分色あせており、小綺麗な巫女装束の中で明らかに浮いている。
巫女装束に着替えさせられた時、ナァラは唯一の自分の持ち物であるこの紐飾りを右足首に結んだ。それは、彼女なりの、自分がここにいるという精一杯の主張だったのかもしれない。
顔も覚えていない母親の残してくれたもの。「自分」の為に送ってくれたもの。大切な形見。
ふと、ナァラは優しい気持ちになった。そして、そのせいで、気が緩んでしまった。
「これは、母のかた…いえ!あの、は、母の知り合いからもらったものです。」
”ナァラの母親”はまだ生きている。ナァラは、危うく嘘がばれそうになった事に動揺し、思わず顔をそらしてしまった。
「お母上の?…そうですか。大切なものなのでしょうね。」
早鐘のようになる心臓。その音が周りに聞こえてしまいそうで、恐ろしくなってナァラは胸の前で手を組んだ。
(母の知り合いって何?母に編んでもらったとか言えばよかったのに!顔まで逸らして、絶対に怪しまれた。まずい、まずい・・・)
言葉が継げず、不自然な沈黙が流れる。
(何か、何か言わなくちゃ・・・)
しかし、完全に動揺した頭からは、気の利いたどんな言葉も出てこない。
沈黙に耐えきれなくなり、ナァラは意を決して管理神官の方を向き直った。
「あの、これからどこに・・・」
こちらを見つめる半面越しのその瞳は、どこを見ているのか全く分からない。
何もかも見透かされているようで、そして、自分が情けなくて、ナァラは唐突に涙がせりあがってくるのを感じた。
(駄目!泣いてはダメなの。)
泣くのを堪えようと目元に力を入れ、歯を食いしばるナァラは、管理神官を睨んでいるようにも見えた。
ふと、管理神官が視線を外した。
後ろを振り返り、周りのメンバーに呼びかける。
「間もなく出発する。各自準備を整えろ。」
彼の両手が、行き場を探すように空中を彷徨った後、腰に佩いた剣の柄の上にその位置を見つけた。
音もなく溜息をつく。
そんな彼の様子を、少し離れた場所で出発の準備を整えながら、守護主神官が横目で見つめていた。