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第三十六章:交わされる最初の言葉  

日差しが優しく差し込む午後、玲奈は少しだけ早めにカフェを訪れた。

店の扉を開けると、ふわりと香る紅茶と、いつもの音楽――

そして、カウンターに座る佐野雅人の姿があった。


彼は本を開いたまま、ゆっくりと顔を上げた。

ふたりの目が、静かに重なる。


玲奈は思わず笑みを浮かべた。

それは、どこかで約束していたかのような、自然な再会だった。


「…こんにちは、佐野さん。」


それは、初めて声にした彼の名前。

手紙の中では何度も呼んだのに、口に出すのは初めてで、思いのほか緊張した。


佐野も少し驚いたように目を瞬かせたが、すぐに口元を緩めた。


「こんにちは…玲奈さん。」


互いの名前を口にしたとたん、不思議な安心感がふたりの間に流れた。

まるで、言葉が触れ合った瞬間に心の距離が一気に近づいたようだった。


「ここ、座っても…?」


玲奈の問いに、佐野は静かに頷いた。


「どうぞ。」


ほんの短いやりとりなのに、ふたりにとってはまるで何十通もの手紙を重ねた後のような重みがあった。


席に着いた玲奈は、少しだけうつむいて照れ笑いを浮かべる。


「不思議ですね。手紙であんなに話したのに、声で話すと、なんだか初めてみたいで…」


佐野は軽くうなずいた。


「わかります。…でも、こうして話せてよかったです。」


言葉は少なかったが、それで十分だった。

手紙の時間を大切にしてきたふたりだからこそ、

沈黙さえも、心を通わせる手段のひとつになっていた。


ふと、玲奈が声を落とす。


「また…ここで、会ってもいいですか?」


佐野は、迷わず言った。


「もちろんです。」


その瞬間、ふたりの中にあった“境界線”が、そっと消えていった。

手紙のぬくもりが、そのまま現実の会話へと形を変えた午後だった。

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