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重いエッセイ集

全部、黒い海に沈め

作者: 寒がり


 そこに詩情が溢れないのはなぜだろう。

 心と言っても創作意欲と言っても活力と言っても感情と言っても希望と言ってもいい。仮に僕というものが存在するとしたら、その存在の内側から外側へ伸びていく矢印の不在だ。沸騰していた鍋に氷を投げ込んで水面が沈静化したようなそれだ。


 依然として何も変わっていない。違和感に突き動かされてふらふら飛び回る視線は犯人を検挙しない。

 空はもっと青く、木々はもっと濃い緑に、アスファルトはもっと確固とした反作用を返した筈なのに。


 蝉の鳴き声が纏わりついて、僕をジリジリ焼いている。

 ベンチも、木々も、行き交う自動車も、全てを叩き割ったらどんなにせいせいするだろう。対象も原因もない、純粋な苛立ち、怒り、破壊衝動。そんな感じの何かが、全てだ。


 時に西暦2025年。多様性という名の普遍主義が文化の多元性を圧殺し、猥雑な豊かさがクリーンな適切さへと削られてゆく時代。あらゆる部面で不条理は追放され、弱さと怠惰と幸福とが礼賛されている。


 弱者であることを誇れ、怠惰を誇れ、無知を誇れ、無能さを誇れ、プライドを捨てることを誇れ、愛国心の欠如を誇れ、家族愛の欠如を誇れ。あるのは、そんな大合唱だ。

 今や正義の根拠は被害者たる地位に存する。「被害者」が一番偉い。まるで星新一先生の「涙の雨」じゃないか。

 ところが、そういう社会になったプロセスを一コマ一コマ止めながら観察すると、全く適切な、尊敬すべき人々の努力と献身が見て取れる。少なくとも、分かりやすい悪者は捕まらない。

 

 強さは悪徳の最たるもの。芸能人や知識人、成功者、国家などは非難されねばならず、それらを非難せねば非国民だという。成功者は引き摺り下ろされねばならぬ。憲法14条1項とは引き下げ平等主義ならむ。


 あらゆるコミュニティは、個人主義の論理で分断され、または、分断されようとしている。孤人主義万歳。1億2千万の孤独。集団は悪。汝、孤独死せよ。

 ラディカルフェミニストは公然とネイションの解体を主張し、革命を標榜する勢力は相変わらず、我々の政府を、市民対権力というあの公式に当てはめるための策動に余念がない。我々の政府を倒して「われわれの政府」を作りたいという夢に共感できるほど、僕は希望を抱いていない。情熱を持った人間はその一点において尊敬に値すると思う。


 支流が本流に流れ込むようにあらゆる憎悪を誘導された官吏は悲鳴を上げ、頭脳は民へと流れてマネーゲームと商業趣味とが栄える。


 ファシストよ滅べ。

 コミュニストよ滅べ。

 フェミニストよ滅べ。

 リベラリストよ滅べ。

 ナショナリストよ滅べ。

 

 そう言ってみたところで何になる?

 イデオロギーはすべての悪を担えるほど偉大ではないのだ。イデオロギーが悪いんじゃない。悪いのだとしても全部じゃない。存在が悪なのだ。けれども、全てが悪だとしたら、悪以外に何もないのだとしたら、悪は比較対象を失って悪たり得ない。


 すべて悪ではなく自己否定だ。全く、自己否定だ。

 押し寄せる枯渇感は、結局、客体ではなく主体の問題であって、僕は、世界を理由もなく理不尽に憎むという方法で、理由もなく理不尽に自分を憎んでいる。自分の中のファッショを、コミーを、フェミを、リベラルをナショナリストを憎んでいる、そういう方法で自分を憎んでいる。


 存在の理不尽性に理不尽を叩きつけ、自傷している、その自傷が存在だ。よって、不快だ。とても不快だ。

 ところが、生きようとしている。この不快は、むしろ死から遠ざかろうとしている。磁石の斥力のように、死ぬことを拒否している。降着すれば降着するほど、この斥力は増していって、ロケットは事象の地平に達しない。


 このような斥力が源泉なのだと思う。

 多分、生命はあるべきではなかったのだ。あるべからざるのにあるからこんなにも苛立たしく、逃れようもなく不快なのだ。生命の尊貴という倫理法則にはコミットするが、ある種の事実命題としては生命の生命に対する反価値性を信じる。


 初夏の温かな日の光は、欅並木の緑を透過し障子に明かりが差すような柔らかな黄緑の光となって広がる。透明な風がさざ波のような音を立てて葉をゆすると木漏れ日が瞬き、木陰が複雑に躍動する。

 その奥には寺社がある。薄暗い参道には静謐さがある。例えば、山奥の水源地で、ゴツゴツとした岩の表面を流れる清水に含まれる類の涼しさや清浄さが充溢している。


 果たして僕の精神は正常であろうか。精神の健全性とはどの程度の水準を以て判断せられるのであろうか。李徴のように詩吟を誦じる事はもともとできないが、憲法や民法の有名な条文くらいなら誦じて見せよう。ミルの危害原理を簡単に説明して見せよう。


 通常人の理解可能な範囲を逸脱した場合に、通常人の理解可能性に対する責任を放棄し、または理解可能性を確保する能力を喪失した場合に、言動は正常性を欠くと仮定すれば、少なくとも責任放棄の咎で僕は狂っている。


 しかし、規範を定立し、その適用を行なって結論を導くという思考の型自体は理解可能性に対する形式化・形骸化された努力であって、上記の言動は二重拘束メッセージである。

 死んだ人間が自分の死をおそらく知覚できないように、狂った人間はおそらく自分が狂ったことを認識できないだろう。死が存在しないのと同じ理屈で、狂気も存在できない。


 払底している。もとより何も掴めない。何も得られない。僕は存在することによって僕以外の全てから切断されている。それは僕ということの定義であり、生きているということのトートロジーである。何かを得ることも死も僕には不可能である。


 詩情が溢れないのは、なにもないからだ。なにもなく、なにも生まない存在へと転倒したからだ。芳醇さは失われた。絶対無が相対無に堕ちた。というより、そのように確定した。


 ただし、確定は不可逆ではない。炉の中に投棄された不純物を掻き出して、炉を空っぽにしなくてはならない。ところが、不純物とはある種の純粋さに他ならないのだ。透明さは混沌でなくてはならない。混沌であるべき流動が醇化されたことの不純!磨製石器の如き自我。だから叩き割りたい。叩き割らなくてはならない。

 

 空虚さとは余地であり、詩情が溢れないのは余地が失われたからだ。空虚さを恢復せねばならない。空虚が欲しい。是非とも必要だ。それなくば、一刻も我慢ならん。

 頭の中のゴミを全部まとめて捨ててしまわなくてはならない。ところが、そのゴミとは、自分自身なのだ。自分自身のために自分自身を棄却せねばならない。その事は生まれた時から死ぬ時まで変わらないだろう。


 雨に濡れたアスファルトは鏡面のようにヘッドライトを照り返す。黒い水面の下に、車も人も街も沈んでいる。愉快だ。全部沈んでしまえ。全部全部、黒い海に沈んでしまえ。水底に向かい一様に沈んでいけ。

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