2-1 港
これより第二章です!
もちろん最後まで執筆済み。
完結までじゃんじゃん投稿しますので、安心してお読みください。
青い空に、真っ白なカモメ。波打つ海と、潮風の匂い。眩しい日差しに目を細める。
目の前には、広い陸地が見えてきていた。遠目に見える港には幾つもの建物が並び、沢山の帆船が行き交っている。
帝国アストロワの最も大きな港町、帝都アスラ。それは想像よりも大きく、堅牢な軍船や巨大な商船が行き交う、大きな都市だった。
島から離れて一週間ほど経ったこの日。私達は遂に帝国に辿り着いていた。
「緊張する?」
「そりゃあ……もう……」
船縁から帝国の港を眺めていた私の隣にクロヴィスが並ぶ。クロヴィスは、その翡翠のように輝く目を細めて笑うと、私の顔を覗き込んだ。
「……帰りたくなった?」
「いいえ?」
突っぱねるようにツンと言い返す。
決めたのは私だ。私の辞書に二言は無い。
そうして強がってみせた私を見て、クロヴィスはくっくと笑うと、ピィ、と笛を吹いた。不思議に思ってその様子を眺める。
「ほら、あれ」
「え……?あっ、あれ!?」
クロヴィスが指差す遠い港の方から、一羽の鷹が飛んできた。悠然と羽を広げた鷹は、ヒュンとマストの周りを一周すると、クロヴィスの腕に止まった。
「すごい……あんな遠くでも口笛が聞こえるの?」
「口笛に少しだけ魔力を乗せたから。目に見える範囲なら届くんだ」
「すごいね……」
見ると、足首にはクロヴィスの魔力結晶が嵌まった足輪が付いていた。きっとこれと繋がっているんだろう。
それをじっと見つめて納得したような顔になった私に、クロヴィスはほんのり呆れたように笑った。
「……アーシェには言わなくてもなんでもバレそうだね」
「そんな事無いわよ?」
「トルメアの筆頭聖女は光魔法だけじゃなくて教会の統率や守護の計画も立ててたんだろ」
「……よく知ってるわね」
船に乗ってから、クロヴィスは時々皇太子らしい雰囲気を出してくる。島では見かけなかったその雰囲気に時折どきりとしたのは、私が緊張しているからだろうか。
船はざぶんざぶんと気持ちよく進んでいく。目の前に近づく港は巨大で、属国トルメアの港がままごとのように感じるほどだった。帰りたいなんて言わないけれど。それでも、こうしてついてきてしまって良かったのかと頭を過るぐらいには、私は緊張しているようだった。
「よし、行っていいぞ」
クロヴィスが鷹を空へ羽ばたかせる。足には文が付いていた。恐らく帰国を知らせる文だろう。バサバサと飛び立つ鷹が、青空に弧を描き、帝都へと戻っていく。
クロヴィスは、鷹を見送ってから私を振り返った。
「着替えようか」
「うん……ほんとにあれでいいの?」
「もちろん」
そうしてクロヴィスに促されて腕を通したのは、トルメア筆頭聖女のローブだった。
久しぶりの上質な生地の触り心地に、気持ちがキリ、と引き締まる。
だけど、いつもよりもずっと不安だ。ここはトルメアではないのだから。
鏡に映った自分の姿をじっと見つめる。
誇りを持って勤めてきた筆頭聖女の任。追放されたけれど、それでもやっぱり、自分が志すとおりに光魔法を使いたい。その気持ちは変わらなかった。
――大丈夫、私は務めを果たせるわ。
帝国アストロワ。きっとこの国の何処かに第一王子レオナルド殿下がいる。恐らく、お兄様も帝国に来ているはずだ。
呪印が無くなった今、祖国トルメアのために私にできることを精一杯やろうと決めた。こうして離島から連れ出してくれたことに感謝しながら、少しずつでも前に進んでいこう。
――それまでの間なら、クロヴィスと共にいてもきっと許されるだろう。鈍く痛む胸を抑えながら、覚悟を刻み込むように、きゅっと口を結んだ。
砕け散るまで進む。そう、決めたんだから。
「アーシェ、準備できた?」
トントン、とドアが叩かれる。ハッとして、気を取り直したように笑みを浮かべてから、ドアを開けた。
「おまたせ――…………」
ドアの向こうに立つ人を、呆然と見上げる。
アストロワ帝国の紋章が輝くフロックコート。それを纏っているのは、間違いなく皇太子クロヴィスだった。
クロヴィスは、固まってしまった私に笑いかけると、私の手を引いた。
甲板の明るい日差しに目を細める。
「――ようこそ、アーシェ。ここは、帝都アスラ。アストロワ帝国の中心だ」
目の前に、沢山の花に彩られた街が広がる。
明るい、活気のある街。船は既に運河に入り、街中を進んでいた。窓に花のプランターが並んだ背の高い建物が並び、上品な日除けとセンスの良い露店があちこちに立っている。行き交う馬車や街の人は、皆生き生きとして活気のある表情だった。どの人も、トルメアで見てきたのとは違う、洗練された新しさのある装いをしている。そこは、間違いなく多くの国を従える覇権国、帝国アストロワだった。
「すごい……こんなに綺麗な街なのね」
「この国の顔だからね、この港町は」
その声に視線を向けると、クロヴィスは嬉しそうに私の方を見ていた。
「……なに?」
「いや……似合ってるなと思って」
「え?」
「聖女のローブ。似合ってる」
やっとクロヴィスの視線の意図がわかって、ハッとして目を泳がせる。顔が熱い。まさかこの服装で褒められるとは。
「別に、そんなに華やかな服じゃないでしょう?」
「そう?綺麗だけど」
「――っ、あ、ありがとう……」
真っ赤になって礼を言うと、クロヴィスはキョトンとした顔をした後、ぷは、と吹き出した。
「なんで笑うのよ!」
「いや、アーシェの照れた顔が想像以上に可愛くて」
「からかわないでよ!」
「ごめんって」
赤い顔のままクロヴィスを睨みつけると、クロヴィスは離島にいた時と同じ少年のような表情で笑った。
何だか悔しい。私は暫し逡巡した後、そろそろとクロヴィスのコートの端をつまんだ。
「何……?」
「その……クロヴィスも、これ、かっこいいね」
負け惜しみのように必死でそう伝える。うまく言葉にできずに『これ』と言って服をつまんで済ませてしまった。おまけに顔も見れなかった。らしくない事をするもんじゃないと、言ってから後悔する。
でも、なんの返事もないのが気になって、恐る恐るクロヴィスの方へ顔を向けた。
べし、と顔に手が乗った。
「ふぐっ、ちょっと!何するのよ!」
「……ちょっと待って」
「何をよ!?」
「予想外の不意打ちで」
「は?」
顔を鷲掴みにしている手を剥がそうとするのに剥がせない。ぐぐぐっと押し合いへし合いしていると、パタパタと誰かの足音が聞こえてきた。
「はい!そこ、イチャイチャしない!」
「ケビンさん!?この手どかして!」
「分かってる、分かってるから、ね?とりあえずそろそろ着くから。外面モード全開で頼むよ」
はぁ、とため息が聞こえて手が離される。
クロヴィスは、ぷいっとそっぽを向いたままだった。
「ほらほら、アーシェちゃん。一旦あっちの様子見ておいて。結構な人いるよ」
ケビンさんのその言葉に促されて船の行く方向を見る。大きな船着き場は、もう目の前だった。上等な馬車が何台も並び、ビシッと制服を着た御者や騎士が沢山待ち構えている。思わず背筋を伸ばして表情を引き締めた。
碇が降ろされ、ケビンさんがさっと船を降りていった。偉そうな雰囲気の誰かと話している。その背後の馬車は、どれも精密な彫刻が施されていた。きっとどれもかなり上質なものだろう。
ケビンさん達を遠目に見てから、クロヴィスは私の方に視線を向けた。
「……着いちゃったね」
「そうだね」
「ほんとにやるの?」
「もちろんよ。立派に勤めてみせるわ――どいつもこいつも一網打尽にする囮作戦をね」
静かに私の方に視線を向けたクロヴィスに、にやりと笑みを返す。
「大丈夫、どんとこいよ。どうせ隠れてたって変わらないもの。クロヴィスの失墜を狙う輩も、私を殺したい奴らも、みんなまとめてかかってくるといいわ。トルメアの元筆頭聖女の底力を見せつけてやるわよ」
「……頼もしいね」
「でしょう?」
クロヴィスは、翡翠色の目を静かに私に向けた。それから、ほんのり笑うと、私の手を取った。
「……握るなら俺の手握って」
その言葉にハッときつく握りしめていた手を開く。クロヴィスは、しっかりと私の手を握った。
クロヴィスは、私の強がりを分かってくれていた。その優しさが心に染みて、その手をきゅっと握り返す。
「……覚悟はいい?」
「…………うん」
クロヴィスにそう返事を返す。クロヴィスは、私をじっと見つめてにこりと微笑んでから、私をそっと抱き寄せ額にキスを落とした。
皇太子クロヴィスの転覆を目論む者。トルメア第二王子ローランド殿下と繋がり、国を乱している者。
きっとそのどちらもが、クロヴィスの近くにいる追放された聖女アーシェを狙うはずだ。
一方はトルメアを手に入れるために。そしてもう一方は、皇太子クロヴィスの弱みを握るために。
「行こうか、アーシェ」
「はい、殿下」
貴族の微笑みを乗せてにこりと微笑むと、クロヴィスは一瞬きょとんと私を見返してから、同じように綺麗な皇太子の微笑みを見せた。
船のタラップをクロヴィスの後に続いて降りる。辺りには沢山の人だかり。その誰もが行方不明だった皇太子クロヴィスに注目し――そして、その真後ろにいる見たこともない令嬢に視線を向けた。
白い上等なローブ。トルメアの筆頭聖女を表すその輝きが、帝国の陽の光を浴びて輝く。
ざわ、と群衆が揺れた気がした。
――見られている。でも、気を抜いたらだめだ。
私は努めて平静を保ち、にこやかにクロヴィスに続いた。
ちら、とクロヴィスの顔を盗み見る。真っ直ぐに前を向いた表情は凪いでいたけれど、先を見通すような静けさは間違いなく皇太子クロヴィスだった。
私の視線に気がついたのか、クロヴィスもちら、と私の方に目を向ける。その上品な雰囲気をまとった目は、私と目が合うと少しだけ優しく細められた。
「――その女性は何者ですか、殿下」
船を降りて少し進んだ、馬車の手前。不意にかけられた声にそちらを向くと、上質なコートに身を包んだ男がいた。
灰青色に白髪が交じるその髪は綺麗に撫でつけられ、几帳面そうな視線がこちらに向けられる。
――この顔は、絵姿で見た。元老院議員、ハイラス・ガルシア。元老院議員の中で、クロヴィスに反発している者の一人だ。
緊張に、ゴクリと唾を飲み込む。
「やぁ、久しぶりだね。……帰還の祝いより質問が先かな」
「……申し訳ございません。ご無事で良かったですな、殿下。帰還お祝い申し上げます」
見本のような丁寧なお辞儀をしたハイラス元老院議員は、その気難しく笑みの無い顔を私の方に向けた。
「――見たところ、この者はトルメアの聖女のようだ。国内は殿下のご不在で大騒ぎだったのですが、まさか他国で浮名を流して連れてきたのですか?」
クロヴィスは静かな視線をスッとハイラスに送った。ハイラス元老院議員も目を細めて応戦する。
「この服……トルメアの筆頭聖女のローブではないですか。まさかトルメア第一王子の疾走に関与し逃亡中の元筆頭聖女、アーシェ・フェルメンデではないでしょうな?」
「そうだよ」
間髪入れず、クロヴィスはそう答えた。途端に鋭い視線が私に向けられる。
「は……?殿下、まさか罪人をこのように連れ帰ったのですか?」
「罪人?」
「そうでしょう。聞けば、アーシェ・フェルメンデは呪印を刻まれた罪人。このように連れ歩く事など、皇太子としての資質が問われます」
「――へぇ」
ハイラスに厳しい視線を向けられたクロヴィスは、冷たく笑って首を傾げた。
「アーシェは非公式に呪印を刻まれていたよ。何故君が呪印の事を知っているの?」
「……トルメア国より指名手配の連絡を受けています。これは公式なものです」
「裁判の記録は確認したんだろうな」
クロヴィスは笑みを消した。ひやりとした空気に、思わず息を呑む。ハイラス元老院議員は、ぐっと押し黙った。
「……裁判の無い呪印の行使は重罪だ。アーシェの呪印は不完全なものだったよ。呪印を刻んだ者が分かったら報告して。その者の処罰が必要だ」
「…………畏まりました」
ハイラスは、丁重に頭を下げた。承諾の返事をしたが、報告が来る事はない気がする。クロヴィスはスッと視線を外すと精巧な彫刻が刻まれた馬車に私を乗せ、そのまま隣に座った。更に続いてケビンさんが馬車に乗り込んでくる。
「いきなりだったね。ハイラスのやつ、お前が平然と帰還して苛ついてるんだろうな。堅物爺め、またネチネチ粘着してきそうだ」
不機嫌そうにクロヴィスが眉をひそめる。そのあまりにも嫌そうな顔を見て、私は思わず吹き出した。
「……ちょっと、笑わないでよ」
「ごめん、あまりにも嫌そうだったから」
「嫌に決まってる」
「でも、うまくいったじゃない」
カタカタと進む馬車の中で、ふぅ、と気の抜けたように息を吐き出した。座り心地の良い柔らかな座席に揺られながら、馬車の外を見る。
「――皇太子クロヴィスを引きずり下ろそうとする者も、レオナルド殿下の失踪に関わる人も、こうやってみんな私の所に群がってくるはずだわ」
こんな派手な帝国入りをしたのは、全てこれが理由だ。だからこれでいいと、自分にも言い聞かせる。
それを聞いて、クロヴィスははぁ、とため息を吐いた。
「…………やっぱりやめない?」
「嫌よ。せっかくこうしてクロヴィスについてきたんだもの。できる事はやらないと」
「……俺の気力が持つ気がしない」
「そんなに嫌?」
「当たり前だろ」
もう一度はぁ、とため息を付いたクロヴィスは、不機嫌そうな顔を私の方に向けた。
「正直、そのうち冷静でいられなくなる気しかしない」
「そこは頑張ってよ」
「……なにも、アーシェを囮のように使う必要無いだろ」
「あら。トルメアを正常に戻すための援助は惜しまないんじゃなかった?」
「…………」
クロヴィスはまた渋い顔をした。それを見てケビンさんが吹き出す。
「すごい、アーシェちゃんが皇太子殿下をやり込めてる」
「開き直ったら強いのよ私」
「強すぎだ」
「でも、冷静に考えても、一番効率の良い作戦でしょう?」
「…………」
クロヴィスは、じとりとした目で私を見た。
「本当に、覚悟してよ」
「もちろん、どこに行っても針のむしろになる覚悟はできてるわ」
「……そこじゃない」
低い声でそう言うクロヴィスに首を傾げる。
「なんの覚悟?」
「…………俺に囲われる覚悟だよ」
その言葉に、良く分からずきょとんとした顔をすると、クロヴィスは目を怪しく細めて私の顎の下を撫でるように持ち上げた。
「えっ……?」
「ほんと……なんで自覚ないかな」
「どういうこと?」
「……俺が今どれだけ君に執着してるか分かってる?」
「しゅうちゃく?」
「囮だろうとなんだろうと、君に手を出したやつに俺が何するか分かんないよ?」
「……うん?」
とにかく守ってくれるってことだろうか。分かるような分からないような気持ちでふんわり頷くと、クロヴィスはきゅっと口を結んだ。
「……ちょっと自信なくすんだけど」
より不機嫌そうに眉をひそめたクロヴィスは、手を離すと少し拗ねたように顔を曇らせた。
「……もういいよ、ここまできたら諦めてもらうしか無い。面倒な皇太子に付きまとわれても、もう逃げられないからね」
どさ、と背もたれに背を預けたクロヴィスに、ケビンさんはニヤリとした笑みを返した。
「まさか天下のクロヴィス殿下がここまで振り回されるとはねぇ」
「うるさい」
「まぁまぁ。とりあえず、行き先は宮殿でいいよね?」
「そうだね……アーシェは一旦離宮の方に避難で」
「えっ?でも、」
「だめだよ」
被せるようにそう言ったクロヴィスは、何だかとても圧のある、綺麗な笑顔を浮かべていた。
「アーシェは、俺の寵愛を一身に受けてることをアピールしないといけないだろ?だから、ちゃんと俺に大事にされないとね?」
その迫力のある笑顔に迫られて。私は冷や汗をかきながら、はい、と返事をした。
パカパカと滑らかに馬車が進む。賑やかな街並み。香水の香り。トルメアの王都よりも、圧倒的に栄えた街並みが流れていく。
そして、日が少し傾いてきた頃。馬車は大きな城壁の前まで来ていた。
目の前には視界に入り切らない巨大な宮殿。壮観なそれを、馬車の窓から見上げる。
――なんて、大きい
それは、帝国の強さを象徴しているかのようだった。
「じゃあ、ここで」
正門に着く少し前。クロヴィスはそう言って、私の手の甲に口づけた。
「……くれぐれも、身の回りに気を付けて」
「大丈夫よ。クロヴィスも、気を付けて」
にこりと笑ったクロヴィスは、ケビンさんとさっと馬車を降りていった。そして、馬車が再び走り出す。
何度も大きな門を通り抜けていく。馬車は軽やかに綺麗な石畳を進み、宮殿から少し離れても止まらずに進んでいった。そして、そのまま狭い門を幾つか通り抜ける。
段々と人気が無くなり、静けさに包まれた頃。馬車は素朴な庭園の先にある、古い建物の前で停まった。
喧騒から離れた、人気のない庭。広々としたその場所には、優しげな草木が揺れている。その中に、古びたレンガでできた小さな城が立っていた。そこにずっと前からあったような建物は、かつて美しかった事をうかがわせるような、歴史を感じさせる小さな離宮だった。
柔かな風が、優しく誘うように、そよそよと私の頬を撫でた。
「お待ちしておりました、アーシェ様。こちらへどうぞ」
腰の曲がった白髪のメイドさんは、名前をカーラと言った。カーラは、初めて会った私に目尻の皺を深めてにこやかにお辞儀をして、私を温かく迎え入れてくれた。カーラに続いて、ゆっくりと離宮に入る。
暖炉のある素朴な内装は温かみがあった。時々誰かが過ごしているのか、少し生活感のあるそこは、古びてはいるけれど包み込むような優しさがある。
小ぶりな、黒樫の艷やかな階段。古い建物だけど、きちんと手入れがされた内装はとても落ち着いた雰囲気だった。案内された先にあった寝室は、小花柄の可愛らしい壁紙だったけれど。少し色褪せたそれが、とても優しげだった。
「こちらは、クロヴィス様が幼少期に過ごされた離宮なのです」
物珍しそうに部屋を眺めていた私に、カーラが静かに教えてくれた。
「もしかして、ここは子供部屋だったんですか?」
「えぇ。クロヴィス殿下が赤ちゃんの時に過ごしていた部屋ですね」
カーラは懐かしそうに目を細めた。
「この古びた離宮は巷ではアストロワの小屋と言われていますけど。皇帝陛下も愛した優しい離宮ですわ」
「……私、この雰囲気がとても好きです」
「そうでしょう?クロヴィス殿下もこっそり来て時々羽根を伸ばしてるんですよ」
カーラはにこやかに頷くと、部屋の窓を開けた。夕日を浴びた柔らかな風が吹き込み、カーテンを揺らす。
「お疲れでしょう。本日はお食事もこちらへ運びますので、どうぞゆっくりお休みください」
カーラが出ていった部屋で、夕日に染まる窓の外を眺める。
穏やかな夕暮れ。
その向こう側に見える、紅く染まった宮殿。きっとあの中では、クロヴィスが帰ってきたことで大騒ぎだろう。
――どんなに隠れても、『皇太子が連れ帰った女』だって、アーシェは注目を集めると思う。
船の中で、クロヴィスはそう言った。それに私はこう返した。
――だったら、思いっきり注目を集めてやるわよ。クロヴィスを引きずり下ろそうとする輩も私を狙う奴らも、全部引っ張り出してやるわ。
にやりと笑った私に、クロヴィスは頼もしいね、と困ったように笑っていた。
この先、どうなるかはわからないけど。囮として役に立つなら、それでいいかもしれない。トルメアのためにも。――クロヴィスのためにも。
それが、私が船の中で出した答えだった。
「とりあえず、予習しようかな」
うーんと背伸びしてから、ちょうど近くにあった本棚の方へ向かった。
きっと、間もなく大嵐が訪れるだろう。私はいくつかの本を抱えながら、夕暮れに紅く染まった巨大な宮殿を、暫くの間静かに見つめていた。




