1-25 朝
瞬く星の光が薄くなり、離島の深い緑の山際が藍色の光で彩られる頃。ひと足早く目覚めた鳥が、遠くの木の上で甲高い声を上げた。
穏やかな潮風。雲はなく、波の音も柔らかだ。
修理を終えた船が迎えた、船出の朝。それはとても穏やかで、心地の良い朝だった。少しずつ色を帯びてきた海は、透明な朝の光を取り込み、空と一緒に青く輝き始める。
小屋の窓の外では、起き出したみんなが動き出したのが見える。部屋から少しずつ荷物が運び出され、人気が少なくなっていく。
もう朝ごはんはいらないからね。ケビンさんから、昨日のうちにそう言われていた。
預けた鍵もない。礼を要求することも無い。きっとこのまま私が小屋から出なければ、もう二度とみんなには会うこともないだろう。
部屋の中にはうっかり持ってきてしまった、朝のフルーツを収穫するための大きな籠。一人分には大きすぎるその籠は、役目を見失って寂しそうに小屋の床に転がっていた。
籠の少し向こうには、結局最後まで使われることの無かった大きな鍵。何度も鍵をかけろと言われたけれど、きっとこの先あの大きすぎる鍵がこの小屋の扉に鍵をかけることは無い。
ため息を吐いて、いつものように髪を梳かす。いつもの朝。いつもの支度。
それでも、一睡もできなかったこの日の朝は、頭にくるほど爽やかで、穏やかだった。
コンコン、と小屋のドアをノックする音が聞こえた。思わず息を止める。
それから、深呼吸をして、扉を開けた。
「おはよう。朝からごめんね、アーシェちゃん」
ドアの向こうにいたのはケビンさんだった。ぽかんと立ちすくんでいた私に、ケビンさんは苦笑いをして首を傾げた。
「まぁ……ここで俺が来るとは思わないよね」
「っ、そういう、わけじゃ、」
「はいこれ」
口籠った私の手に、何かがドサリと乗せられる。やたら重いそれを不思議に思いながら袋の口を開けると、そこには大量のお金が入っていた。
「なにこれ!?」
「え?お礼だよ、長らくお世話になったからね」
「こんなにもらえないわ!」
「――じゃあ返しに行きなよ」
突き返そうとしたそのお金を受け取らず、ケビンさんはさっと一歩下がった。
私の手に残った大金。その意図が分かって、ぎゅっとその袋を握る。
「…………こんなの、いらない」
「分かってるよ。でも、ごめんね。俺はクロヴィスの味方だから」
ケビンさんはいつものふざけた雰囲気を消したまま、静かに私に言った。
「このまま、クロヴィスに会わないつもり?」
「…………」
「本当に、もう二度と会えなくなるよ」
その言葉に、胸がずきりと痛む。ぎゅっと握りしめた手に視線を落としたケビンさんは、ふぅ、と息を吐き出した。
「――初めてなんだ。あいつが、こんな我儘言うの」
「え……?」
「正直言って、俺から見たら帝国の皇太子なんて窮屈で仕方ない。それでも、クロヴィスが本気で弱音を吐いたところなんて見たことないよ。我を忘れてしまったのだって見たことない。――この島に来るまでは」
そう言ったケビンさんは、真顔で私を見た。じっと私を見るその目には、私を突き刺すような強さがあった。
「クロヴィスの隣にいるには覚悟がいる。強さも、頭も必要だ。でも俺は、それ以外にも寄り添う気持ちも必要だと思ってる」
「寄り添う、気持ち……?」
「……アーシェ嬢なら、クロヴィスの『帰る場所』になれるよ」
そう言ってふっと空気を和らげたケビンさんは、じゃ、と言ってコトコトと階段を下りた。
「一刻ほどしたら、出発する予定だよ。あいつは砂浜にいるから。……会いに行ってやって」
「っ、ケビンさん、」
「俺はバイバイしないからね〜」
そう言ってケビンさんはニヤリと笑って行ってしまった。
手にはずしりと重たい大金が残った。きっと、こんなお金はいらないって知った上で、ケビンさんは私に渡したんだろう。
こんなのいらないって、返すって、クロヴィスのところに行けるように。
どしゃりとお金を床に放り投げ、小屋の外に出る。うまく頭が回らないまま、ふらふらと砂浜に続く小道まで歩いた。
朝起きて、クロヴィスに会って。ありがとう、さようなら。そう言おうと思っていたのに。真夜中の闇の中で、何度も何度も、それを頭の中で思い描いていたのに。
どうしても、足が動かなくて。
砂浜へ続く林の中。立ち止まったその場所から、遠目に砂浜に立ち尽くすクロヴィスの姿が見えた。
光を浴びて輝く青い海。ざぁという波の音と、爽やかな潮風。その中に立つクロヴィスの金の髪がさわさわと揺れている。
アストロワ帝国の次期皇帝、皇太子クロヴィス・アストロワ。トルメア国王でさえ頭を垂れる、雲の上の人。
きっと帝国について行ったら、クロヴィスは私に部屋を与え、服を与え、召使いを与えて……時々一緒に過ごしてくれるだろう。
それは、多分幸せなひとときで。
きっと、苦しいものになるはずだ。
帝国での後ろ盾が一切ない属国の令嬢。その未来は、きっと寵妃や愛人だ。私は将来、皇后と肩を並べて微笑む皇帝クロヴィスを、遠目で見守ることになる。それに耐えられるとはどうしても思えなかった。
だから、やめようって。笑顔で別れようって思ったのに。一晩中悩んだのに、私はそれをクロヴィスに伝えることができなかった。
波の音を聞きながら、砂浜に立つクロヴィスを見つめる。
――何十回も、何百回も諦めろって、自分に言い聞かせた。でも、無理だった。
そう言って私を抱きしめたクロヴィスは、どんな気持ちだったんだろう。
胸元から、ちゃり、と銀のチェーンにぶら下がった結晶を取り出す。翡翠のような、深みのある色合い。
その好きになってしまった色は、いつも目の前に広がる離島のエメラルドグリーンの海と同じ色だった。
「……だから、偉い人は嫌なのよ。どうせついて行ったら、山のように綺麗な女の人が出てきて私の事攻撃してきたり、黒い思惑がある輩が近づいてきたりするんでしょう?」
そんなの百も承知だ。やめるのが懸命だ。苦労するのが目に見えている。傷ついて、泣いて、後悔するかもしれない。
そうやって、一晩中自分に言い聞かせたのに。
結局私は諦められずに、こうして立ち止まって、あなたを見ている。
そうして、私は暫く砂浜に佇むクロヴィスを見ていた。それから少しして、クロヴィスは、領主の屋敷の方向に視線を向けると――そのまま向きを変えて、船に乗り込むための小舟の方へ足を向けた。
瞬間、私は走り出した。
そう、答えなんて、とっくに出ていた。
覚悟が、できなかっただけで。
「――っ、クロヴィス!」
はぁはぁと息を弾ませ砂浜をかける。驚いたようにクロヴィスが振り返って私を見た。潮風に、私が蹴り上げた砂とクロヴィスのブロンドの髪が舞う。
必死で走る。息が苦しい。肩ではぁはぁと息をしながら、クロヴィスの前までたどり着いて、その顔を見上げた。
クロヴィスは、じっと私を見つめた。それから、何も言わずにスッと手を差し出した。
「……クロヴィス」
「………………」
静かな時が流れる。
クロヴィスは何も言わない。ただ、私の方に向かって、静かにその手を伸ばすだけだった。
クロヴィスは、この手を、どんな気持ちで私に伸ばしているのだろう。
私は、はぁはぁとはずむ息を整えるように、一つ深く呼吸をした。それから、ぎゅっと目を瞑って、自分の胸の中を確認して。
それから、覚悟を決めて、顔を上げた。
傷つくのなら、傷つけばいい。砕け散るのなら、それでいい。ぼろぼろになって、だめになったら、またこの島に帰ってきたらいい。
今、この手を取らないで。ずるずると後悔する方が、ずっと嫌だ。
ざぁ、と強い潮風が吹いて。胸の中でもやもやと泥のようにへばりついていた弱気な自分が消えてなくなって。
あぁそうか、これで良かったのかと、清々しい気持ちでパシリとクロヴィスの手を握った。
クロヴィスが、驚いたように目を丸くする。
その表情が可愛くて、それから、なんだかむず痒くて。へへ、と笑った私を見て、クロヴィスは眩しそうに目を細めた。
ちょっとだけ、泣きそうな顔。そんな顔もするんだと面白くなる。クロヴィスはきゅっと私の手を握ると、次いで嬉しそうに微笑んだ。
「――――行くか」
「……うん」
覚悟してしまえばなんてことはなかった。行っても行かなくても傷付くのなら、もう突っ込んで傷つけばいいだろう。やるだけやって、砕けきったらまたこの島に帰ってきたらいい。
大丈夫、粉々になったって、生きていけるはず。この白い砂浜だって、砕けた珊瑚や貝殻でできているんだから。
急に目の前が開けて、心が晴れたように明るくなる。
私に足りなかったのは、ケビンさんが言う通り、やっぱり覚悟だったのかもしれない。
クロヴィスは、うん、と返事をした私を眩しそうに見つめた。それから、ぐいっと私の手を引いて、ぎゅっと私を抱きしめた。
船の上から、うぉーっというみんなの叫び声と、盛り上がったような拍手が聞こえる。
なんの祭りなの。私は可笑しくなってケラケラと笑いながら、私を抱くクロヴィスの体に自分の腕を回して、思う存分、きゅっと抱きしめた。
読んでいただいてありがとうございました!
アーシェちゃん、ズバッと覚悟を決めたようです!
「いいねぇアーシェ!」と親指を立てて下さった方も、
「てめぇクロヴィスはっきりしやがれ!」とヤキモキしてくださった方も、
いいねブクマご評価ご感想なんでもいいので応援して下さるととっても嬉しいです!
もうすぐ第一章はおしまいです。
本日またアップする予定ですので、よかったらまた遊びに来てください!