1-24 前日
気持ちの良い晴れ。青空にふわふわの白い雲が流れ、爽やかな潮風が吹く。
船が直った。あの暗い嵐の中、浅瀬に乗り上げ傾いていた船は、今はきちんと海の上に真っ直ぐに浮かんでいる。
砂浜には山積みにされた飲み物や食べ物。島のみんなからの贈り物だというそれが、みんなの手によって船の中に運び込まれていく。
それを遠目に眺めてから、私は海へと続く方ではない小道に足を向けた。
今日はみんなの治療を行う日。私は、明日からの暮らしのために、今日も物々交換だ。
「ドムさん!おまたせ〜!」
「おぉ、アンナさん。今日もありがとう」
嬉しそうに頬を緩ませたドムさんに心が和む。ドムさんの家の中は、窓に揺れる簾がゆらゆらと日陰を作ってくれていて気持ちがいい。
中に入ると他にも数人の村人たちが転がったり果物を食べたりしてのんびりと集まっていた。
「あれ、アンナさん、今日は忙しくないの?」
「ん?どうして?」
「だって、船、直ったんだろ?」
頭に手ぬぐいを巻いたジェムさんが不思議そうに首を傾げた。あぁ、なるほどなとにこやかに頷いた。
「そうね、今日は早起きしたわよ。仮住まいとは言えそれなりに長かったでしょう?みんな荷運びが大変そうだったから、張り切って山盛りの朝ご飯を作ったわ」
「そうじゃなくて……アンナさんの荷造りは?」
「……私?」
そういう質問だったのねと、手元の鞄の中をガチャガチャ探りながら、その先を続ける。
「私の荷造りは無いわよ?私はここに残るもの」
「なんで……?」
転がって紐で遊んでいた日に焼けた女の子が目を丸くして私を見上げた。
「アンナちゃん、なんでついていかないの?」
「もう、むしろなんで行くのよ。私は領主の屋敷の管理人なのよ?クリフさん達を住まわせていただけで、」
「おうじさまは、おひめさまといっしょにいかなきゃでしょう!?」
途端に女の子の目には涙がいっぱいに溜まりだした。なんてこと。困ったなぁと思いながら、ハンカチを差し出す。
「ありがとう。でもね、それは物語のお話なのよ。私はお姫様じゃないもの」
「アンナちゃんはおひめさまだよ!こんなにかわいくて、きれいなんだから!」
「だから、」
「だってほら!これだって、きれいなししゅうだもの!」
そう言うと、女の子はばっとハンカチを広げた。
小さく入れていたつもりの、島にいる鳥をモチーフにした刺繍。誰も気づかないだろうと入れていたお気に入りの刺繍が見つかってしまって、あ、と小さく声が出る。
刺繍をするのは、この国では主に貴族子女の嗜みだった。
隣でそれを見ていたジェムさんが、ふぅ、と一つ息を吐き出した。
「アンナさん。島のみんなは最初から誰もアンナさんがただの島の管理人だなんて思ってないよ。――本当は、立派な貴族のお嬢様なんだろ?」
その声に驚いて目を丸くする。ジェムさんは、少しきまりの悪そうに視線を外した。
「その……悪いな。言っても良かったんだけど、逆に気を使うだろうと思って、みんなで黙ってた。アンナさんは姿勢も言葉遣いも綺麗だろう?俺達みたいな平民とは違うって、すぐに分かったから」
それから、ジェムさんは困惑したような視線を私に戻した。
「それから、クリフさん達もみんなお貴族様か何かだろ?村の女達とも話してたけどさ、クリフさんがアンナさんを連れていきたいのも分かってた。だから、俺達はみんな、アンナさんが同じ船でクリフさんについていくもんだとばっかり……」
「……それは、」
「まぁ、悩むのもわかるがなぁ」
その声に振り返る。ちょうどドムさんがどっこらしょと近くに座るところだった。
「なぁ、アンナさん……儂達はちぃと心配でな。アンナさんは何か無理しているように見える。しがらみとか、先の未来のこととか、そういうものに縛られすぎてないかい?」
そう言ったジェムさんは、まるで私を心配する親族のおじいさんのように眉尻を下げた。
「いいかい、アンナさん。この島にはいつでも帰って来ていいんだ。でも、クリフさんとの関係は、今離れてしまったら二度と戻って来ないんじゃないかい?」
そのドムさんの言葉に何も言えず、開きかけた口を閉じる。そんな私をドムさんは優しそうに眺めてから、ぽん、と古びた布地の膝を叩いた。
「まぁ、アンナさんが決めることだけどな。儂達は、アンナさんに幸せになって欲しいんだ。もしアンナさんがここからいなくなっても、変わらず穏やかな日々が続くだけだ。ここは最果ての離島。この国にとってここに領主の屋敷がある理由は、税収でも民の幸せでもない――ここが、この海が、トルメア国の領土だと示すためだ」
「ドムさん……」
「別に儂らはこの日々が続くなら、他の国の領土になっても別にいいんだ。あの人たち、帝国の奴らだろう?」
ドムさんは、日に焼けた顔をしわくちゃにして、にこやかに笑った。
「気楽に決めな、アンナさん。でも、これだけは言っておく。昔から言うだろ?やった後悔より、やらねぇ後悔の方がキツイって。……年寄りのお節介だけどな。儂はそれが一番心配だ」
「ドムさん……」
「さ、帰んな。ここにはいつ来てもいい。明日でも……数年後でもいいから」
そうして、ドムさんに突き放されるように家を出される。しょうがねぇなと笑ったジェムさんが、泣き止んだ女の子を抱き上げながら、気楽になー!と手を振ってくれた。
今日は治癒をさせてもらえなかった。他の村人たちと顔を合わせる気にもならなくて、行く宛もなく、私はそのまま海の見える高台に登った。
高台は、広く島を見渡せる場所だった。さっきまでいた村やゴツゴツとした岩場、それから、皆が荷運びをしている砂浜や、停泊している船。もう少し視線をずらすと、この島に来てからずっと暮らしてきた小屋が見える。
いつになるかは分からないけれど、きっと私はこの島を出ていく。それから、お兄様と合流して、この国のためにまた動き出すだろう。
ほんの少しの休み時間。穏やかな離島の暮らしは、私を癒やして。
それから、私が知らなかった気持ちを、沢山運んできた。
魚のいない空っぽのバケツも、少し焦げた炒めたお米も、土砂降りの日も――それが全部愛おしいのは、きっとここの生活が気に入っているからだけじゃないだろう。
ちゃり、と胸元からエメラルドグリーンの石を取り出す。
クロヴィスと同じ色の石が、濃い緑の中、そこに明るい海がやってきたかように美しく輝く。それをぼんやりと見つめてから、きゅっと握りしめた。
クロヴィスの提案は、とても嬉しかった。それは、間違いなかった。だけど。
それと同じぐらい、とても怖かった。
トルメアの王宮のぴりりとした空気。探り合う視線。錯綜する思惑。その中で筆頭聖女としての役目を果たすため、気を張って立ち続けてきた。守りたいものは沢山あった。美しい王宮、国のために働く王族貴族や兵士達、それから、かわいい後輩の聖女達。
私は、それを守るために必死で生きてきた。筆頭聖女の任はとても重くて。沢山の視線と、責任と、ざわめきあう声の中で、己の信じる道を見つけて立ち続けてきた。
だから、少しはわかっているはずだ。
帝国の皇太子と共に在ることの意味が。
貴族とはいえ、私はただの小さな属国の令嬢だ。それが帝国の皇太子についていくのであれば、安定した日々を送るためには並大抵の努力では足りないだろう。
学ぶ事。信頼と人脈を作ること。影響力を持つこと。そのどれもが厳しい基準で求められる。それは、属国であるトルメアの比にはならないはずだ。
そして、何よりも。
――本当に、クロヴィスとの未来があるかは分からなかった。
皇太子の隣に在るのは、皇太子妃だ。それがただの属国の令嬢であるはずは無かった。だから、自分の未来は愛人か寵妃だろう。きっと、表立ってクロヴィスの隣を歩く未来は来ない。
私は、その立場に耐えられるだろうか。
クロヴィスの瞳と同じ色に輝く結晶を手のひらで転がす。
きっと、私は嫉妬で醜くなる事に耐えられない。
だから、諦めた方がいい。だから、別の道を選んだほうがいい。どのみち国を建て直す協力は得られるのだから。そんなのは分かっている。
それなのに。
分かってるのに。
諦めきれないのはなぜだろう。
いつの間にかかなり時間が経っていた。水平線に太陽がかかっている。
真っ暗になる前に帰らないと。重い腰を上げ、夕暮れの道を領主の館へ向かって重い足を進めた。
茜色に輝く細い雲を見上げる。
聖女を追放された時も、王都を離れなければならなかった時も、こんな風に辛い気持ちになることは無かった。離島の暮らしだって気に入っている。穏やかな気持ちでいられる選択肢だって分かっている。
私は、何を選べば後悔するのだろうか。
領主の屋敷は、夕日の紅に染まっていた。緑の濃い庭はあの日初めて来た時のような鬱蒼とした雰囲気はなく、古い石畳が穏やかに続き、手入れをされた小さなテラス付きの建物がお行儀よく並んでいた。
緑の大きな葉が揺れ、真っ赤な花を沢山咲かせた低木が華やかに庭を彩っている。
そんな夕暮れに染まる美しい庭に、クロヴィスが一人で立っていた。私の足音に気付いたクロヴィスは、振り返ると綺麗な翡翠のような目を細めて笑った。
「おかえり」
「……ただいま」
クロヴィスは、ほんの少しの間、柔らかく私を見つめてから、ゆっくりと私を抱き寄せた。
「――明日、立つよ」
その声に、どくんと胸が嫌な音を立てる。
どうしても、それが嫌で。私はクロヴィスの服を、ぎゅっと握りしめた。きっとそれで私の気持ちが分かったんだろう。クロヴィスは、片手であやすように、私の頭をぽんぽんと撫でた。
それから、ふぅ、と吐き出す息が聞こえて。
次いで、クロヴィスはぎゅっと強く私を抱きしめた。
「……命令はしない」
耳元で、クロヴィスの低い声が静かに響く。
「……だから、お願い。一緒に行こう、アーシェ」
それは、どれほど残酷な言葉だろうか。
「――――クロヴィスは、」
その温かい身体に手を回しながら、か細い声を絞り出す。
「クロヴィスは、私が、必要?」
クロヴィスは答えない。ただほんの少し私を抱き寄せる手に力を込めて。
そして、そっと身体を離した。
「俺のわがままだけじゃ、君を連れていけない。……決めるのは、アーシェだ」
そう言って、まるで愛しいものを触るように私の頬を撫でたクロヴィスは、私と距離を取ると、静かに微笑んだ。
「――明日、いつもの砂浜で待ってる」
クロヴィスは、夕闇の中、私を残して去っていった。
遠く波の音が聞こえる。小屋の木箱の上で、古いランプの光が揺れる。初めてこの島に来た時に開けた窓の外には、明るい月が登っていた。
追放されたトルメアの聖女。命を狙われ、逃れてきた離島での暮らし。それは、理不尽な出来事だったけれど。傷つき疲れた私の心と身体を、優しく静かに癒やして。
そして、もっと大きな何かを、私の胸に落とした。
瞬く小さな星を見上げながら、私は一晩中、細い銀のネックレスにぶら下がる青と緑が混じり合う小さな石を見つめていた。