1-22 同じ船
それからも、暫くぬるま湯に浸かったような穏やかな日々が続いた。
いつものように庭の果物を取り、キッチンで米を蒸す。相変わらず私の釣り竿は魚を釣り上げず、クロヴィスのバケツは魚でいっぱい。ケビンさんやジョイさんが釣った魚を自慢してきたり、料理対決をしたり。
天気の良い夜には、砂浜で焚き火をした。火の粉が高く星空に舞い上がって。クロヴィスと砂浜に寝転がって、満天の星空を眺める。
手が触れて、目が合って。潮風で乱れた髪に、クロヴィスの手が伸びる。整えるように、撫でるように。綺麗な、でも男らしい手が私の髪に触れる。
心地よくて、あたたかくて。甘く笑った顔に癒やされて。
それと同時に、少しずつ傷が広がるように、胸が痛くなった。
未来のない関係。確信のない間柄。それでもその先に踏み込めないまま、終わらせることもできずにただ時が過ぎる。
砂浜に響く木槌の音。それは船が難破してからずっと変わらず、この砂浜に響いている。いつも変わらぬその音は、みんながこの島にいる間、途絶えることなく毎日同じよう聞こえるけれど。
それでも、木槌の音が一つ一つ鳴る毎に、時は進んでいって。それは、少しずつ私達の別れの時に向かって、歩みを進めていた。
その日は、朝から雨が降っていた。一度降り出すと大人しく出来ない離島の雨は、今日も相変わらずの土砂降りだ。その雨に煙る緑の庭を、雨音に包まれたテラスでぼんやりと聞く。
「よく雨が降る所だね」
「でも、緑が綺麗でしょう?」
「そうだね」
変わらず私の所にやって来たクロヴィスは、雨に濡れた庭を眺めながら私の隣に腰掛けた。
そのまま無言で寄り添いなから、二人並んで雨音を聞く。
「……もうすぐ、なおるね、船」
私の無理矢理明るく言おうとした言葉が、雨音の中寂しく響く。
船の出港は、五日後に決まっていた。最終点検と微調整をして荷物を積み込めば、船はこの島から旅立つことになる。
「ありきたりだけど……長かったようで、短かったね。でも、楽しかったよ」
震えそうになる声を、必死で明るく絞り出した。涙がこぼれ落ちそうになって、ぎゅっと手を握りしめる。
「私の魚釣りはまだまだだけど……クロヴィスも、いろんな料理作れるようになったし。島のみんなも待ってるだろうから、たまには…………ううん、いつか、遊びに来てね」
「……アーシェ」
結局溢れ出てしまった涙を、クロヴィスの指がそっと拭う。その優しさが、悲しいほどに残酷で、思わずその手を振り払った。
「っ、やめてよ」
「……やめない」
「――っ、これ以上、優しくしないで!」
その言葉に、クロヴィスは手を止めた。離れていくその手に、胸が苦しい。
でも、辛いなら、一思いに終わらせてしまったほうがいい気がした。
「……クロヴィスだって、知ってるでしょう?私は、この島を――この国を、出られない。みんなが国に帰った後も、私はこの島に残る。その先のことは分からないけれど、いつか私もこの島を出るときが来る。そうしたら、もうあなたに会うこともないわ。だから……あなたと離れる心の準備ぐらい、したっていいでしょ」
「……アーシェ、」
「それとも何?最後まで、離島のバカンスの時にだけ付き合える都合のいい女でいて欲しい?」
「――そんなわけないだろ」
少し怒ったように言うクロヴィスを涙目で見返す。
もう駄目だ。本当にこれ以上優しくされても身体に毒なだけだと、最後の引導を渡すつもりで言葉を絞り出した。
「国にあなたの事を待っている人が沢山いるんでしょう?それに、あなたの国はトルメアじゃない。私はこの国を出られないし、いつまた命を狙われるか分からない追放された聖女だもの。時が来ればこの島を出て、また国のために動く時が来る……きっと、もうあなたに会うことはないわ」
自分で諭すように言っておいて、その言葉に傷ついて涙がこぼれる。
この先の私の未来と、クロヴィスの未来が交わることは、もうないのだ。
「――今まで、ありがとう。楽しかったよ。本当に少しの間だったけど……大切な思い出として、持っておくね」
「思い出になんてさせない」
私の言葉に被せるように、クロヴィスが否定した。どうしてと反論しようとしたけれど。
それよりも前に、クロヴィスが私の腕を取った。
「……全部、これのせいだろ」
袖をめくられ、上腕の呪印が目の前に現れる。
まるで罪人のように刻まれたそれは、黒く私の肌を汚していた。
あまり見られたくなかったそれを隠そうと腕を引こうとするけれど、クロヴィスは私の腕をしっかり掴んでそれをさせなかった。それから、反対側の手でさっとその呪印に触れた。
クロヴィスの手は、埃を払うように呪印に触れた。たったそれだけなのに、呪印はまるでそこに何もなかったかのように、跡形もなくパチンと消えた。
驚いて、目の前の男を呆然と見る。
呪印は、それを刻んだ者より、上位の者しか解くことができない。それが、目の前で、消えた。
私にこの呪印を刻んだのは、国で王家に次ぐ権力を持っていた宰相だ。
まさかねと否定していた答えが、ふと胸をよぎる。まさか、そんなはずはない。何も言えず混乱する私に、クロヴィスは静かに言った。
「……俺が誰なのか知りたい?」
息を呑む私の乱れた髪に手が伸びる。その手が、ゆっくりと私の耳に銀の髪をかける。
そうして、クロヴィスはまるで誘惑するように私に言った。
「俺に巻き込まれて、アーシェ」
そのまま肩にかかる髪を一房手に取り、ちゅ、と口づけが落とされる。
「知りたいと言って」
「……嫌」
「どうして?」
「怖い」
「…………俺も怖い」
その言葉に驚いて俯いた顔を上げようとする。でも、ぐいっと抱き寄せられて、クロヴィスの顔を見ることができなかった。
耳元で、クロヴィスの低い声が静かに響く。
「でも、一緒に前に進むなら、知ってもらわないといけない」
「……前に、進む?」
「そう。俺は、このままアーシェとの未来を終わらせたくない。――俺は、君と前に進みたい」
ぎゅっと私を抱きしめる腕は、何故か私に縋るようで。思わず、ゆるゆるとその身体を抱きしめ返す。
「……アーシェ」
大好きなクロヴィスの声が、乞うように耳元で囁かれる。
後悔するかもしれない。聞くのが、怖い。
それでも、一度間近で見つめ合ってしまえば、その目に引き寄せられるように恋い焦がれる気持ちが膨らむ。結局、聞かずにいる事はできなかった。知ることができるのなら、クロヴィスのことなら、全て知りたいのだから。
きっと、知れば後戻りはできない。後悔するかもしれない。それでも、心のなかで言い訳のように国の為にも知る必要もあると繰り返した。
覚悟を決めよう。きっと、知らないままでいたら、そっちのほうがずっと後悔する。
そうして、一呼吸おいてから、躊躇する心を落ち着かせるように、キュッとクロヴィスの服を掴んだ。
「……教えて、クロヴィス――あなたは、誰なの?」
クロヴィスは、私の答えを聞いて、ふぅ、と一息ついてから身体を離した。それから、綺麗な青と緑の混じる目を私に向けた。
「――俺の名は、クロヴィス・アストロワ。アストロワ帝国の次期皇帝」
一瞬、何を言っているのか分からなかった。
「う、そ……」
「……ほんと。知ってるだろ、この名前」
「――っ、」
まさかと思った軽い心当たりが、急に目の前で色を帯びて現実になる。
アストロワ帝国。それは、我が国トルメアが属する巨大帝国。その次期皇帝など、小さな属国のただの貴族の娘が願ったところで、会えるはずの無い雲の上の人だった。
もし、本当にクロヴィスが、クロヴィス・アストロワなら。トルメアのただの貴族令嬢の私が、簡単に口をきいていい相手ではなかった。思わず一歩下がって頭を垂れようとする。それを、クロヴィスの腕が抱き寄せるようにぐいっと防いだ。
「やめて」
「でも、」
「そういうつもりで言ったんじゃない……わかるだろ」
頭を垂れる隙間が無いほど、距離を詰められる。心を乱しながら見上げたクロヴィスは、少し寂しそうに、不思議な色合いの目を私に向けた。
「どうして……?」
「ん?」
「……皇太子様が、どうしてこんな所に来ちゃったの……?」
「…………話してもいいけど、覚悟はいい?」
困ったように笑ってから、クロヴィスは優しく私の頬を撫でた。
「俺に近寄れば近寄るほど、巻き込まれるけど」
そう言って、にや、と笑ったクロヴィスに、私は思わず声を張り上げた。
「っ、近寄ってるのは貴方じゃない!」
「まぁそうだね」
「お戯れはおやめ下さい、殿下」
「は?」
途端にクロヴィスはむっとした顔になった。
「クロヴィスって呼んで」
「……無理」
「クロヴィス」
「やだ」
「この島にいる間だけでもいいから」
ぽつりと呟いたそれは、何故かとても寂しそうで。乞うようなその言葉に、私は思わず、小さな声で返してしまった。
「――クロヴィス」
「……ん」
ちゅ、と額にキスが落とされる。それを何だか投げやりに受けとって、どうしようもない気持ちで目の前の人を見返した。
「…………もうやめない?」
「なんで」
「帝国には素敵な人が沢山いるでしょう?」
「だから何」
「私にちょっかい出す必要なんてないじゃない」
「そんなことない」
「完全なるお戯れだもの」
「ふざけてなんてない」
「――っ、あなたと離れた後が辛いのよ!」
耐えきれず声を上げると、クロヴィスは落ち着いた表情で、じっと私を見つめた。
「離れなければいい」
「何、言って……」
「呪印はもう解いた」
その言葉に、ハッと息を呑む。
クロヴィスは、ふざけた様子なんてない、真面目な表情で私の手を取った。
「――一緒に行こう、アーシェ」
まさか。その言葉に、目を丸くする。
「だ、だめよ……あなたみたいな人が、追放された属国の元聖女を連れて行くなんて」
「だめじゃない」
「でも、」
「それぐらいで俺の立場は揺らがない。――それにトルメアを正しい姿に戻すならアーシェも帝国に来たほうがいい」
「え……?」
急に流れの変わった話に、ふわふわとしていた気持ちが一気に引き締まる。
クロヴィスは、一息ついてから静かに言った。
「トルメア第一王子レオナルドは失踪の直前まで帝国にいた」
まさか。その言葉に思わずふわりと目を開く。
「っ、レオナルド殿下は帝国にいたの!?」
「非公式の訪問だった。国王交代の、レオナルドが国王に就任するという内々の打診だった。……その後、レオナルドは国王の急病の知らせを受け、急いでトルメアに帰り、そのまま失踪した」
追放される直前の事を思い出す。そう、陛下が病に臥せって、レオナルド殿下が慌てて帰国したところまでは知っている。でも、レオナルド殿下は一夜にして行方不明になってしまった。
「……トルメアでは、王位継承を巡って強硬な反第二王子派の動きが怪しかった。レオナルドには気をつけるように父上からも助言があった。レオナルドは馬鹿じゃない。恐らく厳重に警戒して国に戻ったはずだ。――それなのに、レオナルドは跡形もなく失踪した」
少し言葉を切ったクロヴィスは、何か少し考えるように黙ってから、もう一度口を開いた。
「ただレオナルドが失敗しただけかもしれない。でも、それにしてはあまりにもタイミング良く行方がわからなくなった。第二王子ローランドやその取り巻きがここまで手際よくやれるとは思えない。……ただ、第二王子ローランド派に、帝国の誰かが手助けをしているのなら、説明がつく」
「な……」
「第一王子が急いで国に帰ることを知っていた。だから、一夜にして何かが起こり、レオナルドは行方不明になった。それが一番納得がいく」
「な、んで……帝国がそんなこと……」
そう言うと、クロヴィスは困ったように笑った。
「帝国の内部も、今かなり乱れているからね。……だから、俺がこんな所にいる」
苦笑いをしたクロヴィスをきょとんとして見る。
「…………あなたの皇位継承問題?」
「そう。さすがアーシェ、良く分かってる」
「嘘でしょう?」
「嘘だったらいいんだけどね」
はは、と乾いたように笑ったクロヴィスは、一呼吸置いてもう一度真面目な顔に戻った。
「もしレオナルドが意図的に失踪したのだとしたら、恐らくなんとかして帝国に向かうはずだ。トルメアにいたら殺される未来しかないだろうからね。俺達がここにいる間に何もかも解決していたらいいけど、アーシェに迎えがないことを考えると、多分事態は変わっていないか、残念ながら悪化しているかだと思う。アーシェの兄上は迎えに来られるならとっくの昔に君のことを迎えに来ているはずだろう?」
私から特に詳しいことは告げていないのに、まるで話を聞いたことがあるみたいだ。クロヴィスの察しの良さが少し怖くなる。
――アストロワ帝国皇太子クロヴィス。穏やかだが頭の回る策士だと言う噂はきっと本当なのだろう。ごくりとつばを飲み込み、しっかりと考えながら、言葉を返す。
「お兄様は、レオナルド殿下を探すと言っていたわ。お兄様は殿下と裏でかなり情報をやり取りしていたから、もしかしたら今帝国にいるかもしれない。……殿下がご無事なら、必ず合流して王都に舞い戻るはずだわ」
「なら、まだ会えていないか、国に戻れない理由があるのかもしれない」
そうして、クロヴィスは小ぶりになってきた雨の庭へ視線を向けた。
「……多分、トルメア国王は病気じゃない。でも、その真相を暴くには、国王の寝室に入れる第一王子が必要だ」
ざぁ、と強い風が吹いて庭の木を揺らす。クロヴィスは、静かに私の方に視線を戻した。
「アーシェが命を狙われているのは、恐らく国王の『病』を解くのに、筆頭聖女レベルの力が必要だからだ。そうじゃないと、こんな離島にまで君の命を狙って追いかけてくる理由がない」
そう言って言葉を切ったクロヴィスは、風格を滲ませた声色で、私に告げた。
「帝国はトルメアの内政を正常に戻す手助けは惜しまない。筆頭聖女アーシェは裁判もなく呪印を刻まれた。その者は必ず俺が罰する。きっと、国王を床につかせ、君の命を狙ったのもそいつだろうしね。もうアーシェに手は出させない」
「っ、でも、」
「これは君のためだけじゃない。トルメアのためだけでもない。属国を含めて揺れる帝国全体の安定のためだ」
そう言いながら、クロヴィスは私の手をしっかりと握った。厳しさの中に優しさのある目が私に向けられる。
「俺達が島を離れても、アーシェの身の安全と情報収集のために護衛を一、二名置いていく。体制が整ったら必ず君を兄上や家族に引き合わせるし、君が望めばいつでもこの島から連れ出す準備はできている。俺達は必ずアーシェの力になる。これは、助けてもらった恩義と、帝国の未来を思って皇太子として下した判断だ。この先どうなろうと、それは変わらない。――だから、ここから先の話は、ただの俺の我儘」
そう言ってから、一呼吸気持ちを整えるように黙ったクロヴィスは、覚悟を決めたように顔を上げた。
「俺は、島を出てもアーシェと一緒にいたい。だから、同じ船で、一緒に帝国に来て欲しい。――皇太子クロヴィスと一緒に」
はっと息を呑む。それは、ただ船に乗るという意味ではない。
帝国の皇太子と関わりがある者として、属国の一令嬢が船に乗り込むということだ。
きっと、私に多くの視線が注がれ、いろんなものに巻き込まれるだろう。恐らく元の暮らしには戻れない。
その未来を予想して、何も言えずに固まってしまった私を、クロヴィスは静かに見つめた。
「無理にとは言わない。でも、俺がこの島を離れる時、アーシェが俺と同じ船に乗らないなら……アーシェが俺と共にいることを選ばないなら、俺はもう二度と、アーシェには会わない」
一瞬、雨音が消えた気がした。
少しだけ、その言葉の理解が遅れて。それはゆっくりと意味を帯びて、じわじわと私の胸を締め付けていく。
クロヴィスは、少しさみしそうに微笑んだ。
「帝国の皇太子が事あるごとにちょっかい出してきたら困るだろ。だから、これが俺の最低限のけじめ。今君が俺に巻き込まれる覚悟ができないなら……この先はもう、俺はアーシェに会わない」
「……極端ね」
「…………ごめん」
「だったら手出さなきゃ良かったじゃない」
「それは無理だった」
「……だから、こんな風にドロドロに甘やかしたの?」
「そう……アーシェが俺から逃げられなくなればいいなって」
「噂通り策士ね」
「良く言われる」
「……ずるいと思う」
「うん……ごめんね、我儘言って」
そう言ってほろ苦く笑ったクロヴィスは、そっと私の頬に手を伸ばすと、流れ落ちていた涙を拭った。それから、ゆるい力で私を抱き寄せた。
「何十回も、何百回も諦めろって、自分に言い聞かせた。でも、無理だった」
静かにつぶやく声が、耳元で聞こえる。
クロヴィスは、少し息を吐き出して。それから、私をぎゅっと抱きしめた。
「――俺はもう、中途半端に君に関わることはできない」
雨上がりの風が、テラスを駆け抜ける。この島に来て初めて植えた果物の種が、芽吹いて小さい葉に雨水を揺らした。
「一緒に行こう、アーシェ」
そう呟いたクロヴィスの声は、優しく響くのに、何故かとても寂しくて。クロヴィスの抱きしめる腕は、私に縋るようだった。
ついにクロヴィスが何者なのかが分かりました!
「だと思ったぜ!」とスッキリした読者様も、
「えっアーシェどうするの?」と心配になった優しいあなたも、
引き続き応援してくださると嬉しいです!
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