1-20 東屋
少し空気がひんやりとした雨の日。私は小屋の中で、一人ぼんやりと窓の外を見ていた。
庭を濡らした雨水が土と緑の匂いを立ち上らせ、一人だけの静かな小屋の空気を潤す。
あれから、クロヴィスの態度はずっと甘いままだ。友人としてきっちりと距離を置いていたクリフさんはすでにどこかへ消え去り、色気満点のクロヴィスに大変身だ。名前が変わったら態度まで変わるとか、そんな事あるだろうか。
一体、なぜ。酷い熱で頭がおかしくなってしまったのだろうか。慣れない扱いに頭を抱える。
甘い空気、間近でささやく声。私に触れる手と、熱を持った瞳。
クロヴィスは、何を考えているんだろう。
そっと、自分の銀の髪を一房手に取る。分かってる。クロヴィスに触れられれば嬉しいし、甘く笑いかけられれば胸の中が温かくなる。
一人で逃げてきた離島で、クロヴィス達に会って。心地よい日々に、離れがたいと思っていたのは事実で。
一緒に魚を釣って、果物を採って、お米を蒸して。その日々は、いつの間にか胸の中で確かな色を持って、輝いていて。
でもずっと、その気持ちは直視しないようにしてきた。
これは一時のこと。クロヴィスが島にいる間だけのこと。冷静に考えれば、そんなことは百も承知なのに。
それでも、ずっと目をそらしてきた胸の内が、クロヴィスに触れられるたびに満たされるように膨らんで。浮つく私の心は、朝から降り続ける雨にも冷やされず、今日もずっと熱いままだった。
ぼんやりと小屋の外に目を向ける。
庭の緑は雨に潤い鮮やかで、ぱちゃぱちゃと降る雨水を踊るように弾いている。雫をいっぱいに纏った赤い花は、雨の日でも鮮やかにその色を際立たせていた。
その向こうに見える東屋の下で、おーいと手を振るクロヴィスの姿が見えた。もうお昼時。食事を準備する時間だった。
私は諦めたように立ち上がり、浮つく心を抑えながら、クロヴィスのいるキッチン横の東屋へと向かった。
「大丈夫?ぼーっとしてたけど、具合悪い?」
「ううん、ぼんやりしてただけ。えーと、これ洗って茹でてくれる?」
「わかった」
クロヴィスはいつも通り大きな籠に沢山の芋を入れると、よいしょっと持ち上げた。
いつものキッチン。いつものごはん作り。随分と手慣れてきたクロヴィスと、みんなのご飯を作っていく。そこにあるのは穏やかな時間。でも、いつもとは違う、絶妙に甘さのある空気が私たちの間に満ちる。
時折触れる手。少し近い肩。私の手元を覗き込むクロヴィスの髪が、さらりと目の前で揺れる。クロヴィスの低い、穏やかな声。どうでもいいことで笑う顔。そのひとつひとつが、鮮やかに色を帯びていく。
後が辛いだけだと知っているのに目を逸らせないのは、私がずっと、求めていたことだったからだろう。
ざあざあと降る雨。二人だけのキッチン。食事の準備はあらかたおわった。それでもこの雨の中行く当てもなく、私たちはキッチン横の東屋の長椅子に腰掛けた。蒸し器の中にはお芋とお米の炊き込みご飯が入っている。火をつけているから離れられないけれど、かといってやることもなかった。
「今日もよく降るね」
「っ、そうだね」
二人並んで木の長椅子に腰掛け、ぼんやりと降り続く雨を眺める。でも、この静かな時をクロヴィスと過ごすのは妙に緊張してしまって、私は慌てたように変な感じで提案してしまった。
「その、お米、見ておくから。クロヴィスは何処かに行っても良いよ?」
「…………なんで」
クロヴィスがむっとしたように言い返してきた。提案の仕方が悪かったかもと思いながら、しどろもどろに言葉を返す。
「なんで、って……暇、でしょう?」
「……アーシェと一緒なら暇なことなんて無いよ」
「っ、でも、」
「あ、そうだ」
突然何かをひらめいたらしいクロヴィスは、長椅子の上でくる、と体勢を変えると、ゴロンと寝転がった。
綺麗なブロンド髪が私の膝の上でさらりと流れる。太ももに感じる、慣れない頭の重さ。一瞬状況が掴みきれず、呆然とその整った顔を見下ろした。
「っ!?な、なに!?」
「え?あぁ、疲れたから」
「いや、そうじゃなくて、」
「駄目だった?」
「ダメっていうか……」
困惑しながらもクロヴィスを見下ろす。
クロヴィスはほんのり嬉しそうに、いたずらっぽく私を見上げた。
「いいでしょ?俺に触れられるのは嫌じゃないって言ってたし」
「……それ引っ張るわね」
「存分に使わせてもらう」
くっくと機嫌よく笑うクロヴィスは、気持ち良さそうに目を閉じた。
「あ――……幸せ」
「……本当に?」
「うん。死ぬならここがいい」
「いや死なないでよ」
「例えだよ、例え」
そうして笑ったクロヴィスは、薄目を開けて私の手を取ると、自分の頭にそっと乗せた。
さらさらのブロンドの髪が私の指に触れる。
「せっかくだから、撫でてよ」
「えっ!?」
「いいだろ、撫でるぐらい」
少し拗ねたように私を見上げるクロヴィスは、妙に可愛く見えた。そして上手く断る理由も見つからず、ぎこちなくその髪を撫で始める。
金に輝く柔らかな髪が指の間をさらさらと流れていく。思った以上に気持ちの良い感触に、何だか心までほぐれていくようだ。
クロヴィスに流されている。それは否めない。でも、どうしようもなく満たされているのも事実だった。
閉じた瞳にかかる、長いまつげ。少し甘えたような仕草。
小さな東屋の下は、ざぁざぁ降る雨に切り取られたようで。二人だけの時間が、無性に心地よくて、愛おしい。
なんかもう、だめだなぁ。自分に呆れながら、クロヴィスの金に輝く髪の毛をさらさらと撫でていく。
近い未来、私はこの時を、どんなふうに振り返るのだろう。
「……こんなにいっぱい撫でてくれるとは思わなかった」
不意に、クロヴィスの少し照れくさそうな声が聞こえた。きょとんとして見下ろすと、膝の上にはほんのり頬を染めたクロヴィスの照れた顔。私は一気に我に返り、慌てて両腕を真上に上げた。
「っ!ごめん!」
「そんなに気合い入れて逃げなくても」
「いや、だって、その……すごくさらさらで、気持ちよくて」
「あんまりこだわり無かったけど、生まれて初めてこの髪の毛で良かったと思ったよ」
ふふ、と照れたように笑うクロヴィスが、年相応の若者に見えて目をパチパチとする。
「……なんだか、膝の上にいると、ちょっと子供っぽくみえるね」
「これ、あんまり好きじゃない?」
「そんな事無いけど……」
「なんとなく、アーシェは甘えられるのも好きなんじゃないかと思って試してみたんだけど……」
「えっ!?は!?はぁ!?」
その言葉にギョッとして膝の上のクロヴィスの顔から無理やり仰け反るように距離を取る。
そんな私を見て、クロヴィスは少し拗たように眉をひそめた。
「アーシェ、面倒見いいし。それとも実は甘えられるのはそんなに好きじゃなかった?」
「は!?いや、待って、何の話してるの!?」
「何って……アーシェがどんな男が好きなのか知りたくて」
「なにそれ!?何考えてるのよ!?」
「そんなの決まってるだろ」
そう言うと、クロヴィスはむくりと起き上がった。私の隣に座り直したクロヴィスの体が、さっきよりもずっと大きく感じる。私は背が高いほうだけれど、それよりも背の高いクロヴィスの顔は、私よりも高いところにあって。私を見下ろすその顔が想像よりずっと大人びていて、どきりと胸が跳ねる。
「っ、その、」
「俺が何考えてるのか、だよね」
クロヴィスは、じっと私を見つめると、真面目な顔のまま静かに言った。
「そんなの一つしかない」
「ひ、とつ?」
「うん。――アーシェを、全力で俺に惚れさせようとしてる」
「……は」
吸い込まれそうな海の色のような瞳が、すぐ近くで私を見つめている。
クロヴィスは、おもむろに私の手を取ると、手のひらにそっと口づけを落とした。
「っ!?」
「どうしたら、もっと俺のこと考えてくれる?」
甘く私を見つめたクロヴィスは、手のひらから手首の方へ、もう一度ちゅ、と口づけを落とした。それを、真っ赤になってふるふると見つめ返す。
「あ、遊ばないで!」
「遊んでないけど」
「余計タチが悪いわ!」
「仕方ないだろ。ここ宝石屋もドレス屋も花屋も無いし、時間もないし」
「だ、だからって……」
「嫌なら言って」
結局これだ。これを言われてしまうと、私はもう何も言えない。そうして赤くなったまま、ぐっと押し黙る私のことを、クロヴィスはとろりと熱を持った瞳でじっとみつめた。
「…………それとも、もっと許してくれる?」
緩く、私の頬に手が伸びて。少し硬い親指が、私の唇をそっと撫でる。
「っ……」
「……っふは、真っ赤」
「〜〜〜〜〜っ、からかうなぁぁぁ!」
真っ赤な私の声が、土砂降りの庭に響いた。
甘い甘い、クロヴィスとの時間。その目が優しく私に向けられるたびに、胸がきゅっと締め付けられる。
ずっと直視しないようにしてきたそれは既に大きく膨らみ、目をそらしてもはっきりと私にその存在を知らしめている。
いつの間にか、ずぶずぶと沼にはまっていく。甘い何かに絡み取られていく。
嫌なら嫌だと言えばいい。先がない関係などやめて欲しいと言えばいい。そんなことは分かっている。
でも、終わらせられないのは、私の方だった。
私の左腕には、今でも黒い呪印がある。
私はこの国に縛られている。
置いて行かないで。いなくならないで。
でもそれはきっと、叶わぬ願いだ。
あと少ししたら、クロヴィスはこの島を出ていく。私はクロヴィスについていくことはできない。だからきっと、また来るねと言って、クロヴィスは島を出ていくはずだ。
また会えるその時は、いつか来るのだろうか。
物思いに耽っていたら、あっという間に夜だった。夜風が小屋の窓から柔らかく吹き込み、優しい色合いの古布を揺らす。美しい虫の音と、葉が風に揺れる音、遠く聞こえる波の声。暗い夜空に瞬く星は、手が届きそうなほどに近い。
「全力で惚れさせて、その後どうするつもりなのよ」
ぽつりと呟いた声が、小屋の中に響く。
私はあなたについていくことはできない。それは、あなたも分かっているはずだ。
でも、それを言ったら何もかも終わってしまいそうで。
服の中からチェーンにつながったクロヴィスと同じ色の結晶をを取り出す。それは部屋の小さなランプの光を反射し、私の手の上で柔らかく優しく光っていた。
皆さん、血糖値は大丈夫ですか?
「だめかもしれない……」と砂糖が口から出てきた方も、
「いやでもどうすんのこの先」と心配してくださった優しいあなたも、
引き続き2人を見守ってくださると嬉しいです!
いつもいいねやご感想ありがとうございます!
とても嬉しいです!
読んでいただいてありがとうございました!