1-18 熱
ひやりとした夜の空気にぼんやりと目を開けた。見慣れた小屋の木の天井には、薄く光るランプが灯っている。
まだ頭が働かないまま、起き上がって部屋を見渡した。タリアさんにもらった可愛らしい古布が、夜風にほのかに揺れている。
はっとして口を覆う。そうだった。魔封じの腕輪をされて、攫われて――そして、クリフさんが助けてくれたんだった。
あの後、船は領主の屋敷近くの砂浜へ向かったようだった。私は毛布にくるまれクリフさんに抱き上げられたまま、小屋まで送り届けられた。でも、気がついたらクリフさんはいなくて。ケビンさんが申し訳無さそうに、安心してゆっくり休んでねと言って部屋に入れてくれた。
ベッドの横には、無惨に破られたワンピースが落ちていた。その時のことを思い出して、ブルリと身震いする。
危なかった。まさか、あんな思いをするなんて。今まで己の身の安全には一応気を付けていたものの、本当の意味をわかっていなかった気がする。命を失うこと。辱めに合うこと。
鍵をかけろ。そう言っていたクリフさんの言葉が、身に沁みてわかるような気がした。
気をつけよう。身体を守るように両手で腕をさする。そうして腕をさすってから気がついた。
「魔封じの腕輪も、ない」
男たちにつけられていた魔封じの腕輪は、もうそこには無かった。外すのは大変なものなのに、いつの間に外してくれたんだろう。不思議に思いつつ、とりあえずみんなにお礼を言わなければと立ち上がる。時計を見ると、まだそこまで遅い時間では無いようだった。簡単に身だしなみを整えて、キィ、と小屋の扉を開ける。
空には明るい月が出ていた。少しひんやりとした夜の風が、ふわりと髪を巻き上げる。
「――やぁ、アーシェちゃん。ゆっくり休めた?」
「ケビンさん……」
階段の一番下の段にケビンさんが座っていた。ニコニコと私を見上げる顔はいつも通り人懐っこそうだったけど。
でも、仄かに漂う重い空気が、楽しい話題だけではないことを私に知らせていた。
よっこいしょと立ち上がったケビンさんは、私が階段を降りる姿を見ながら、何から話そうかと悩んでいるようだった。
「ケビンさん……あの、助けて下さって、ありがとうございました」
「うん、無事で良かったよ」
「その……クリフさんは……?」
「……ちょっとね」
「……?」
言いづらそうなその雰囲気に、まさかと顔を青くする。
「っ、まさか、クリフさん、怪我を!?」
「あぁ、いや、それは無い。あいつが怪我するとかよっぽどの事じゃないと無いから。でも、まぁ、うん……そうだな……」
少し考えるようにわしゃわしゃとフワフワの茶髪を搔いたケビンさんは、少し真面目な顔で私の方を見た。
「…………あのさ」
「?」
「お見舞い、してみる?」
「お見舞い……?クリフさん、具合が悪いの!?」
「……そうだね」
もしかして、海に入ったからだろうか。今は暖かく気持ちの良い季節だけど、楽しく海で泳ぐには海水温が低い。申し訳ない気持ちになりながら、クリフさんの様子を聞こうとした時だった。
ケビンさんが真面目な顔で私を見ているのに気がついて、はっとして口を閉じる。
「…………クリフにこれ以上踏み込むかどうかは、アンナちゃんに任せるよ」
「え……?」
何のことか分からず、首を傾げる。そんな私に、ケビンさんは少し切ない笑顔を見せた。
「……あいつは、ただの男じゃないから。これ以上は言えない。でも、クリフにこれ以上踏み込むなら、覚悟して」
ケビンさんは、そう言ってから、一拍置いてもう一度顔を上げた。
「――いや、あいつの為に、アーシェちゃんが覚悟してくれたらいいなと思ってるよ」
「か、くご……?」
「クリフは部屋で寝てるよ」
そう言ってケビンさんは何処かへ行ってしまった。
さわさわと夜風が緑の大きな葉を揺らす。黄色い大きな実がひとつ、ころりと地面に落ちてころがった。その様子をぼんやりと見ながら、今の言葉を反芻する。
クリフさんは、ただの男じゃない。それは、なんとなく分かっていた。私がこの国の貴族令嬢で、筆頭聖女だったことを知ってもなお、その態度は特に変わらなかった。壊れた船に乗せられないほどの地位で、沢山の護衛がいて、有能で、何でもできて。そんな人が、ただの平民であるわけが無かった。
いや、多分それどころじゃないのだろう。
その事情に踏み込むのに、覚悟がいる人。それほどの何かを背負った人なのだ。
ほんの少したじろいで、小屋の階段に腰を下ろす。頭をよぎったのは、一緒に魚釣りや料理をした、クリフさんの穏やかで楽しそうな横顔。それから、私を心配する顔に――私を助けに来てくれた時の、冷たく怒った顔。
ケビンさんがあんなに言うほどの立場の人なのに。クリフさんは、私を真っ先に助けに来てくれた。
ぱっと立ち上がる。それは、殆ど反射的だった。きっと踏み込めば何かが起こってしまう。でも、どうしても、このままではいられなかった。
会いたい。ちゃんと、話したい。
そうじゃないと、一生後悔する気がした。
夜風を切って走り出す。クリフさんの部屋は、敷地の中央あたりにあった。周りにはいつもより多めの人がいた。皆一様にぴりぴりとした緊張感を持って警備をしているようだった。それでも、私の姿を見ると、にこりと笑って無言で行く先を示してくれる。
皆、己の役割が分かっているのだろう。その心遣いは気配を感じさせないほど静かで、トルメアの王宮の衛兵よりも訓練された騎士のように感じた。
クリフさんは、ただの人ではない。
ずっと思っていた事が、色をまとって現実味を帯びていく。
クリフさんの部屋の扉を開ける。部屋の中についていた人が、会釈をして出ていった。
暗い部屋の中には、光量を落したランプが仄かに揺れている。ぼんやりと照らし出されたその向こうには、苦しそうにベッドに横たわるクリフさんがいた。
どうして、こんなに。慌ててその枕元に近寄る。
苦しそうな息遣い。額に腕を乗せたクリフさんは辛そうに眉をひそめていた。
そっと頬に触れる。びっくりするほどの高い熱が自分の手に伝わり、思わず息を呑む。
「アーシェ……?」
「っ、ごめんなさい、起こしたよね」
気がつくと、薄目を開けたクリフさんが私の方を見ていた。陽の光を浴びるとエメラルドグリーンに輝くその瞳は、今はランプの明かりを跳ね返して、ゆらゆらと鈍い光を放っていた。
苦しそうなその姿に胸がギュッとなる。
「体調、大丈夫?」
「……なんで、ここに」
「具合が悪いって聞いたから」
「…………ケビンか」
はぁ、という重いため息が聞こえる。
「ごめんなさい……迷惑、だった?」
「……迷惑なわけない」
そう言ったクリフさんの額に手を伸ばす。やっぱり、びっくりするほど熱い。
「こんなに高い熱……風邪?それとも……」
「大丈夫。寝てれば治るから」
「でも、」
「病気じゃない。だから治癒の術も効かないから、何もしなくていいよ。少しすれば治るから」
その言葉に、はっとする。
あの時、船の中で、不思議な声で男を跪かせたクリフさんに、ケビンさんは身体の調子を気遣う言葉をかけていた。
――人の精神に作用する術。それが何なのかはわからないけれど。それがもし、自分の身体にも、酷く負担をかけるものだとしたら……
「やっぱり、あのときの声……」
「…………君は、危ないね」
ランプの明かりが宿り、ゆらゆらとほのかに光る目が細められる。
圧のある何か。踏み込んではいけない話に触れたことを察して、息を呑む。
「察しが良すぎる。何でも見透かされそうだよ。……知ったらいけない事も」
「そんな、」
「アーシェ」
私の名を静かに呼ぶその声に、どきりとして息が止まる。クリフさんの手が伸びて、私の頬に触れた。
熱で少し潤んだクリフさんの綺麗な瞳が、吸い込まれそうなほど近くで私を見ている。
クリフさんの熱が、触れた手からじわじわと身体に移っていく。
「……アーシェが悪い」
「え?」
「…………寝てる男の部屋に安易に来るなよ」
ゆる、と頬に触れた手が動いた。それは、まるで愛おしいものに触れるように、私の頬を撫でる。思わず固まった私を見つめながら、クリフさんはぼそりと言った。
「…………あの男、殺してやればよかった」
「クリフ、さん……?」
クリフさんは、苦しそうに熱い息を吐き出してから、そっと囁いた。
「クロヴィス」
「え……?」
「俺の名前」
そう言うと、クリフさんは私をじっと見つめた。
息遣いが聞こえるほどの近い距離。
とろりとした甘い空気が、私たちの間に満ちる。
だめだと思うのに。一時の関係に、深入りしても後が辛いだけだと分かってるのに。それなのに、どうしても目が離せなくて。
少しの間、そうして見つめ合って。それから、クリフさんは私をぐいっと抱き寄せた。
驚いて固まっていると、耳元に唇が寄せられた。
「呼んで」
「え……」
「クロヴィスって呼んで、アーシェ」
耳元で響くその低い声が甘くて。私はたまらずフルリと震えて、言われるがままに口を開いた。
「っ、クロヴィス」
「……ん」
ふっと笑ったクリフさん――クロヴィスは、そのまま私をぎゅっと抱きしめた。身体に回された腕からの熱が、私をどんどん熱くしていく。
「……アーシェ」
耳元で囁かれた私を呼ぶ声は、とても小さくて、溶けるように甘くて。
クリフさんはそれだけ呟くと、まるで憑き物が落ちたように身体の力を抜いて、そのまま眠ってしまった。
読んでいただいてありがとうございました!
ついにクリフさんが動いた!?
「きゃぁぁぁ!」と思わずテンションが上がった方も、
「クリフ、落ちたな」とドヤ顔をしてくださった方も、
このあとも二人を見守って下さると嬉しいです!
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