Hold【不知己】記憶
Hold ホールト(優しく愛らしく)(独)
何が妻を不機嫌にさせているのかわからなかった。それが一層自分を苛立たせる
私がしている事を妻はそうしてはいけないと言い張る。それも意味がわからなかった。だが、妻がそう言うからにはそうなんだと私は思った。何せ私は自分自身のことがわからない。だからいつも妻の言う事を、そうなんだと受け入れてきた
妻は私のしていることをマインドコントロールの一種だと言った事がある。放っておいてそいつが自ら正しい行動を取れないならば、そう仕向けた方が話は早いだろうと、私は思っているだけだ。仮にそいつが選択しなかったとしても、それは仕方がないことだ。本人が選んだのだから
「君の言う完璧な世界に近づく道だろう」
妻に言う
「貴方の思考の上では完璧でも、それは形だけの話よ。その通りになるとは限らないわ。もっと大きい目で見たら、違うかも知れないでしょう?」
「私は何の意図も加えていないよ。本人に気づかせるように仕向けるけど、それを選択するしないは当人が決めることだ」
妻は首を横に振る
「個々が完璧でないと、全体も完璧では無いのよ。だから私達はセラピストになって、人の心を深く知ろうと思ったんでしょう?なのに貴方はそれを他人を支配する事に使おうとする」
「そんなつもりは無い。支配などしない。本人の選択だと言っているだろう?」
「選択肢を与えるという考え方そのものが、支配なの。結果としてどちらかではあるけど、貴方がそれを示した時点でその人の選択ではなくなりコントロールになるわ」
そうなんだろうか。自覚にはないが。いつものように自覚がない自分の中の誰かがそうしている、と言う事なのだろう
「そうなんだね」
「そう。でも貴方はそれを自覚しないし、認めようとしない」
「確かに自覚はないよ。けど認めるよ?」
「貴方は認めていないわ。自覚無しに認める事は出来ないわ」
そうなんだろうか。私にはわからない
「その件について、本人が自己破壊に走るのを止めることは出来ないわ。止められないのよ、本当に損をしていると気付かなければ。だから出来る事はその人が良くなりたいと求めるのを待つだけよ」
「放置しろと言うこと?」
「作意を加えるのを止めましょうと言っているのよ。同じ結果を招くわ。彼が今まで依存していた相手が、貴方に代わるだけなのよ」
妻を見詰める
そんなものなのか。ならセラピストができることはあまり無いな。だったらなぜこの仕事をしているんだ
「私達にできることはあまり無いんだね」
自分の声が上擦っているのが耳に入る。いけない。こんな事では。こんな事で感情的になっては
屋根に叩きつけるような雨音が、自分の耳の内でごうごうと鳴る。それが耳鳴りなのか外の音なのか良く分からなくなってくる
「なぜ自分の限界を認めないの?手放せば上手く行く事を、貴方がしがみ付いて自分の力でやろうとするから、また何度も同じ事が起こる」
「私が何かしているって言うのか?」
「自力でやろうとしてるのよ。それに貴方はそれを一番言われたく無いと思っている。運命に負けたく無い、終わりにしたく無いし、諦めたく無いと思っている」
私に理想の世界なんてない。今はただ生活の糧を得たいだけだ。妻と話す世界は確かに理想だと思う。全てが調和して、誰しも願いが叶う世界なんて。セラピストを生業にすると話し合った時には、そんな話で盛り上がったものだ。だがそんなものは現実不可能だ。仮に愛がそれをやったとして、どれ程の時間がかかるのか
私を取り巻く環境を見る限り、稼ぎがなくなれば今の生活を続けていけないだろう。まあ、雇われ仕事なら内容を選ばなければ、食いつなぐ位はできるだろうが
「大丈夫よ。正直に、クライアントに本当の事を言えば良い。慰めにここに通っても、本当には救えないって言えば良いの。どんなに結果を出そうとしても、本人が結果を出したく無いと思っていたら結果は出ないわ。表面の行動だけ正しくても、心が望んでいないならばそうはならない」
確かにそうだろうな。望んでいないものは無理だろう。だが私はいつも不思議だった。もし結果を出したくない心と出したい心があったなら、なぜ出したくない心を優先するのか。愛は全てだ。結果を出したい心がその者が真に思っていることを知っている。だが愛は必ず出したくない心を優先する。ここがそういう世界だからか?矛盾した願いをしたら、何を基準に願いを叶えるのだろう。本来の道へと繋がる願いを優先しないのだろうか
「それは器が出来ていないから」
「えっ?」
「今思っていたこと。願いが叶う順番の事。貴方が以前言ったのよ。叶うに相応しい器になった事から順番に叶うって」
私はそんなことを言ったのだろうか。己に問うとその人格は既に消えていて何も覚えていなかった
「人格が消えていて記憶がないよ」
「そうでしょうね。貴方はそうやって全てを先送りにしてきた」
これも自覚がないな。そんなことが出来るとは知らなかった
「クライアントに本当の事を話せば離れていくだろうね」
「それでも良いのよ。私達も、自分自身に立ち返るべきよ」
「生活は困窮するけど、まあ何とかなるかね。日雇い労働もあるし」
まあ、私の考えなど何の意味もないのだろう。いつも自分が間違っていて、妻が正しいのだから
「そんな自分を卑下するような言い方しないで。貴方が間違っていると言う意味では無いの。そのやり方は充分だと言っているのよ。どうして自分の限界を認めないの」
間違っていないのなら、何だろう。私にはわからない。充分とは今の生活を続ける必要がないと言う意味なのか
限界は突破する為にあるとどうして思ってくれないんだ
わかってもらえ無いのか。評価してくれないのか…妻なのに
「自分を見失う貴方を見るのは辛いの。私は何処までも貴方と一緒にいるわ」
「なら、どうして私の言っていることを認めてくれない」
「今まで貴方に全部譲歩してきた。でも貴方はいつも脱線する方に行こうとするわ。もう限界なの」
「なぜ君が正しいと言い切れる」
「私がじゃない。愛の声を聴いているの」
「それは信用できるのか?本当に愛なのか」
「愛よ」
妻が愛の声に絶対の信頼を置き、それが揺らぐ事の無い事を知っている。その姿に憧れ、自分も妻に教えられて何度も愛の声を聞きたいと願い、聞こえてくる声に従ってきた。だが妻はそれは偽者だと言い、それでも信じて進んでも必ず裏切られた。確かに妻は正しいのかもしれない。だが、何故自分には聞こえないのか。その理由がわからなかった。
運命は見えない。愛が示す道があることは判るが、それがどこにあり、どれなのかはわからない。もっと難しいのは今はそれが正しいのか判断がつかない。妻は違うなら違うと言ってくれるのだが、何が違うのかわからないし、何故己がそうするのかもわからない。物理的な現象のように目で見える訳ではない。何が基準なのか。そしてそれが何処に繋がっているのか。己の運命は今どこの地点にいて何処に向かい何を目指しているのか、何もわからない。判るのは何処かに向かっていることだけだ。それは時間ではない。何かが進展しているような漠然とした感覚だ
探し物が何かわからないなら見つけることは出来ないことと同じだ
きっとその考えそのものが間違っているのだろう。判る必要などないのだろう。それを必死に考え、解決策を見出そうとすることがおかしいに違いない
私はそのことを思った時、愛に対して怒りの感情を抱いていることに気づいた。常に上から目線で保護者のように振る舞う愛に。愛は全てだ。その全てに抗うことに意味がないことは理解できる。だがもううんざりだ。これ以上付き合うつもりはないと思っている己に気づいた
「わかった…離婚しよう」
「えっ?」
自分の口から出た言葉に自分でも驚く。だがもう取り消せ無い
「もう君を信じられない。お互い意見も合わないし、考え方も違う。なら別れよう」
「それは無理よ。私達は対なのよ。一つなの」
「もう良いよ。君に付き合えない。この家から出て行ってくれ。この家は僕の名義のものだ」
涙を溜めて自分を見詰める瞳から目を逸らす
「君が言ったんだ、もう限界だって」
「私が君の苦しみの原因なんだろう?だから私が居ない方が君は楽になるだろう。それとも私が出て行こうか?」
「いえ…確かに貴方の家よ。家も事業も何もかも」
「そうだろう。それは君が責任を取らないからだ。全部私が背負っている」
「そんなつもりは。その時には愛がそうした方が良いと言ったから…」
妻は目を伏せた。俯いて私から見えない顔から、涙が溢れているのが見える
そんな顔を見るのはこっちだって辛い。いつも心を痛めているんだ、自分を責めながら。もうそんな事は終わりにしよう。私よりも妻はずっと有能なんだ。足を引っ張っているのは常に私だ。わかっている
「貴方を愛してるわ、愛してるのよ」
「わかっている。でも駄目なんだろう。私はきっと君に相応しくない」
「そんな事は無いわ」
「だが限界なんだろう?」
私がもう一度言うと、妻は私を見上げた。失望の表情が浮かんでいた
何かが割れるような音がした
私は、外套を掴み玄関の扉を開けて外へ出て行く妻の背中を見送った
その時は、実家に向かったんだろうと思っていた
翌朝、病院から電話が入るまでは
足を滑らせて増水した川に落ちて、恐らく軽い脳震盪を起こしてそのまま溺れて、瀕死だと
その後、その記憶は途切れた




