Hold【風の囁き】凛と颯雅
Hold ホールト(優しく愛らしく)(独)
“そう言えば視線を感じたが誰も居なかった事があったな。あれか”
凛の中の実穂高が言う
「ああ、そう。京の都に呼び出された晩に。ふうん」
凛が呟く
なんかそのふうんって怖いんだけど
「あのさ、弁明しておくけど、逸彦も常に孤立してるから。村や都を守っても、鬼になる前は仲間や親族だったわけで、それを斬ると、わかってはいても感情的には拭い切れなくて、皆に冷たくされて結局そこを出て次に行くんだ。誰かと懇意になっても必ず別れるから、深入りしちゃいけないって思って、本当に好きになりそうな予感がすると敢えて避けてしまうところがあって…」
颯雅は言いながら思う
ああ、本当に、なぜ俺が言い訳するんだ。俺じゃないのに
逸彦や他の神が女たらしなのは俺のせいでは無いだろう
「うん。例えば逸彦の場合、どんな相手なの?」
「依頼受けて城守ったりすると、領主の娘を嫁に貰わないかと言われたり、なんかとにかく神の如く凄い人物だと思われるから、目に留まろうと色仕掛けされるとか」
「色仕掛けされてもさ、どうして好きでもない相手と何かできるの?」
颯雅を見る凛の目が座っている
「颯雅君だって、前に彼女居たんでしょう。それだって」
俺?現世の俺の話に及ぶんですか
「いや、何もない。肉体関係はない。そこまで行かなかった」
「本当なの」
「うん、本当…しそびれた」
「んん?」
「いえ、本当に、僕童貞なんです。信じてください」
ここではっきり言っておこう。ホテルに行って何かしようと思ったのだが、未遂に終わった。彼女の硬く閉ざされた門の前に、戦意を喪失し、結局撤退を余儀なくされたのだ。だから童貞のままです、はい
いや、だけど、そっちだって何回も生まれているんだし
「そっちはどうなの?」
「え?」
「実穂高は生涯処女だったの」
「そ、それは」
凛は目を逸らす
「あ、やっぱり。相手は誰なんだ」
内側の逸彦共々叫びながら、お前自害しておきながら嫉妬する権利なんて無いぞと突っ込む。なんか忙しいな、俺
「えっと、水師」
「水師?」
あ、あの牛引きで、口外するなと手首を掴んだ男か
「側付の水師と夫婦になったのよ、止むを得ず。本当は水師と結ばれるべきでは無かったの。今はわかる。でもその時には、一番近くに居て心許せる唯一の相手だったし、水師に求められた時には逸彦の事であまりにも傷つき過ぎて何も考えられなかったの…」
颯雅と逸彦は無言になる
「逸彦との間を邪魔したのも義理の父だし。そうしなければ、賀茂の家を縁を切れなかったから。そういう契約があったの。婚姻が賀茂の養育終了の条件だったからよ。逸彦と結ばれないから…」
なんだ、結局逸彦が自害したのが皆悪いんじゃないか
逸彦がどんよりと項垂れて地面にのめり込みそうな程落ち込んでいるのがわかる
「まあ、とにかく、過去の女性関係はこの際、颯雅君の方でもきっぱりお断りして、後腐れ無くしておいてね」
「え、どうやって?」
「その人達と関係ないと宣言して」
「宣言?」
「そう」
颯雅はなんと宣言すれば良いのかわからなかった
”こう言え
神は神又は神の分身たる逸彦をはじめとする者たちが行ってきた、女性関係、それらに対する恋愛感情、その間に生まれた子供等に対し、一切の関係を全て愛へと還す。今を持って神は関与せず権限を持たない”
颯雅はそれを反芻した
「これでいいの?」
颯雅がそのようにすると何となくすっきりした感じがする
凛をみると、ちょっと落ち着いたように見えた
相変わらず、逸彦はしゃがんでのの字を書いている
「いい加減やめたら逸彦。いじけていても何も変わらないよ」
どうすればいいんだ、と言う目で颯雅に訴えてくる
「実穂高に謝ってキスすれば?」
逸彦の顔が驚愕に変わり、顎が落ちそうになっている。それでも逸彦は見えない実穂高に土下座をして謝ると、もじもじしながらもキスの真似をした
「で、どうなの。実穂高の反応は」
颯雅が凛の顔を見る
「実穂高、目を回して倒れちゃったけど。良いのかしら、これで」
困惑した表情の凛が言い、二人は顔を見合わせた
夕飯の間、颯雅は時々ちひろの方見たが、特に気になる感じも無く、忙しい時間帯になるとその事も忘れて仕事をしていた
ワカナが夕食に現れた。ワカナは一人で食事をしたいたが、ワカナの口元にはずっと笑みが溢れ、考え事をしているように見える
颯雅も凛も彼女が恋をしていると感じた。多分エンヤとの間に何か進展があったのだろう。ワカナが何をどう決断するのかわからないが、きっと良い方に動くだろう
二人は安堵した
夜、また中庭では何人かが酒盛りをしている
二階の窓から覗くと、エンヤとワカナは隣同士にベンチに座っている
颯雅は庭に出なかった。もし出て行ったら、また演奏してくれと皆に言われるだろうし、そうしたら自分もそうするだろう。だが今夜はそうすべきでは無いと思った
颯雅は窓から離れた
二人の想いが二人のペースで進むのを邪魔してはいけない。自分が出て行ったら、歯痒くて、余計な事をして、その流れに干渉してしまうかも知れない。過剰に彼らを思いやると相手に負債になると凛に聞いて、そっとしておこうと決めたのだ
颯雅が振り返ると、凛が微笑んで自分を見ているのが目に入る
「ラズワード隊長、気が済んだ?」
「ああ、うん。多分」
「じゃあ、今夜は、実穂高の為に何か演奏してよ」
「そっか、そうだね」
部屋に入り、颯雅がハーモニカを取り出すが、凛は首を振った
「紙笛やって見せてよ」
「紙笛か。どうやってやるのか俺知らないし」
颯雅がそう言うと、凛は破った手帳の一枚を颯雅に渡す
颯雅は目を閉じ、逸彦に尋ねながら、紙を丁寧に折り畳んで、口に含む
紙が息で震える音が宥めるように響く
それは単純でいかにも子供らが喜びそうな音だ
吹きながら、颯雅は逸彦の孤独を想った。心をかすめる逸彦の記憶は、いつも誰とも距離を置いている。逸彦は子供が好きだったし、慕われたようだが、それは彼らが先入観を持たず接してくれるからだ。彼は村人と殆ど個人的に関わらない。誰もが逸彦を遠巻きにし、近づいて来るならば利用しようとか、命を狙うとかだったのだ
彼がもっと愛に心を開いていたならば。そうしたら、自分ももっと凛に…
そうなのか?
凛を愛している
愛しているのに、何が怖いんだろう
なぜ愛する事が怖いんだ
凛は目を閉じ紙笛を聴いている
凛がその向こうに聴くのは風の囁きだ
逸彦が周りに何を築こうと、その音は彼が何者なのかを知らせてくれる
それが通じていたならば、他のことはどうとでもなったと実穂高は思っていた
だが逸彦にはそうと信じられなかった。なぜ。それ程までに神の庇護を受け、愛に養われていたのに。
神の命を受けそのままに生きるのは、実穂高から見たら憧れる程に自由だったのに
彼が本当に怖れていたのは孤独ではなく…




