Rinforzato【通り雨】
Rinforzato リンフォルザンド(その音を急に強く)(伊)
元妻と別れ、家に向かおうと思ったが、運転中も彼女に言われた言葉が東の頭の中を反芻した
今の仕事を好きかどうか、彼女は疑問の種を植え付けて去った。最後の意地悪かなんかか。これを持ち越して明日になって職場に行くのは嫌だった。もし彼女の言う通りだったら、負けたみたいに思うな。何で勝ち負けなんだ。やっぱり、戦っていたのか。混乱する気持ちのままに、東は保育園に向かう
駐車場に車を停めると、事務所の扉を開く
「あれ、東園長。今日午後休取ってましたよね」
保母さんが言う
「うん、ちょっと、忘れ物」
東が遊び部屋に行くと、園児の相手をする、エプロン姿の凛の背中が目に入った。ほっとする
自分でも驚く。まさか凛の顔見に来た訳はあるまいな…
だが東は凛を見詰めていた。橘君と会ってから、凛は急に女性らしくなった。今まで子どもだと思って、ただ可愛いと思っていたのにちょっと悔しいな。二人を羨ましく思う。あんな風に惹かれ合い、誰かを求め合えたならば…
凛は自信が無くて、臆病だと自分を言うが、本当にそうなのか。絵の個展だって、橘君との事だって、少しも引かない。それどころか、絶対に諦めない。果敢に自分を乗り越えて行こうとする。そう、あの子は自分が自分である事を諦めた事が無い。誰かに迎合して偽る位ならばと、口を閉ざしただけなんだ。それによって純粋な感性を守り通しただけだ。この芯の強さ。そして周囲に見えないところでずっと燃やしていた生きる情熱。絵を描くことに触発されて現れた、知られなかった凛の内面
凛は誰かの視線を感じた。振り返ると、伯父の東が自分を見詰めているのに気付いた
凛は一緒に遊んでいた園児に断ると、東の方へ歩いて来た
「どうしたの、東さん」
そして顔を近づけてきたので、東は少し顔を反らせた。女っぽくなったと思った直後に顔を寄せられては意識してしまう。だが凛は鼻で一回息を吸った
「煙草吸ったわね。三回目よ。誰かに会ったのね」
東はちょっとびっくりした。煙草と誰かの関係を気づく人が居るなんて思わなかった
「ああ、今日限り止める…残った煙草は全部棄てて来た」
「そう?良かった。その人と会うと東さん幸せじゃ無さそうだし」
東は二度驚いた。咄嗟に凛の手を掴むと、事務所の方に向かった
「ちょっと話しても良いか」
「うん。何?」
二人は靴を履いて事務所の扉から出た
東は話し始める
「さっきまで会ってたのは、別れた妻だ。どうして彼女と会うと幸せじゃ無さそうなのが分かるんだ」
「前の奥さんだったのね」
凛は少し焦点をずらして東の顔を見る
「なんかちょっと顔の前に影が出て来るわ。調子が狂うっていうか、いつもの東さんと違うわよね」
東はもっと突っ込んで聞きたいという気持ちと、そうしたらもう後には戻れないという葛藤が突然胸に湧いた。橘颯雅とこの前話した時の興味とは全く次元が違う。あれは他人事でいられたが、今は当事者なんだ。何かが自分を突き動かそうとしている
固まっている東に凛は尋ねる
「この前颯雅君と会ったんでしょ。何だかいつの間にか仲良くなっちゃったのね。昨日会って聞いたわよ。前世の事も話したって言ってたわ」
「そう、前世…。君ら前世で会ったんだろう。凛と俺も会った事あるのか」
「会ったかわからないけど、知ってたと思うわ…」
凛は東を見た。その目は何処までも深く澄んで透明で、宇宙の果てまで続いているのかと思えた。突然凛が凛ではない誰かに見えた。凛の内側に居る誰かが東を見返し、射抜かれた気がして、つい顔を背けた。だがもう遅かった。さっき元妻に言われた事を、悪意ややっかみや憐れみに包まれているのを良い事に受け取らないでいた。凛の中に見た誰かは一瞬のうちに潜ませたその真実を暴き出し、纏めて、東の心に否応無しに叩き落とした
ああ、そうだ。愛していなかった。俺は誰の事も愛していない。愛が芽生えるのが怖いんだ。それに抗い、戦っていた。俺は生きていない。生きる事を外側から見ていた。だからこそ生きる事そのままの子ども達を見て知りたかったんだ
東は愕然とし、屈み込んだ。凛はちょっと心配になって、隣に同じように屈んで、東の肩に手を添えた。東はその手を掴み、尋ねた
「凛…誰かと誰かが、特定の縁で結ばれるなんて事あるのか。君らは…そうなのか」
「そうよ…結ばれる運命の相手を対と言うの。東さんと別れた奥さんは対ではないの、だから別れて良かったのよ」
凛は東の顔を覗き込んだ。やがてその目に安堵が浮かび、笑みを湛え立ち上がって言った
「良かった、顔が良くなった。もう晴れたわ。すっかり大丈夫だから、このまま家に向かうと良いと思うわよ」
それから凛は事務所の扉を開こうと手を掛けたが、振り返って言った
「沖縄に行く日程、颯雅君と希望日書いたから、バイトのシフトよろしくね。日誌に貼って置くから、明日確認してね」
随分と明るい様子で扉の向こうへ消えて行く凛を見て、東も何故か安心した
この前橘颯雅に相談受けた事は、恐らく解決済なんだろう。東は事務所に戻らず駐車場の車に乗り込むと、自宅の方向へと車を走らせた
運転しながら、さっき気付いた事が何度も浮かび上がった
愛していない、愛が芽生えるのが怖い、生きていない、それで子ども達を見ている
そして、結ばれるべき対が居るという事
俺は生きていなかったのか。そうだな、確かに、ガラス越しだ…じゃあ、そのガラスを叩き割ったら、俺は生きられるのだろうか
東の中に何かが膨れ、弾け、飛び散った。それはあたかも種子が熟した種を飛ばすかのように、一気に広がった。目に涙が溢れて来た。自分でもびっくりしたが、突然、感覚という感覚が研ぎ澄まされ、だが柔らかく、色は鮮やかに、音が明確に聴こえ始めた
東の中に鳴り響くいのちの音は高く低く響き、拡がり、重なり、それぞれが好き勝手に歌いながら、全ては調和していた
それを自分は見ていた、知っていた、と思った。子ども達が皆で遊んでいる時、彼らは複数で集まって遊ぶ事もあれば、一人で遊ぶ子も居る。突然興味を替えてしまう事もある。笑いもするが泣きもする。だがその一日に彼らが体験した出来事は宝箱の中で一晩眠りに就き、翌日には新しい体験を目指して目を覚ます。それはあたかも、今聴こえてくる音楽のようだ
それをいつも見ていた。それと同じだった。自分の中にもそれがあったのに、忘れていた。自分を閉め出していた。何故遠ざかっていたんだ。何故それに自分だけは含まれないと思い込んでいたんだ。自分は何か罪深いものだと思っていた。自分が何かを願うと、災いが起こるのではないかと勝手に思っていた
東は元妻の“あなたは運命に愛されている”という言葉を思い出した
そうか、愛されていたのか。忘れていただけなのか。どんなに閉め出しても、自分は見捨てられてはいなかったのだ…
ああ、愛をもっと感じていれば、もっと色んな事が出来たのに。色んな事を知れただろうに。凛達のように…
誰かを、他ならぬ誰かが自分の愛すべき対が居るならば、出逢いたい、その人を愛したい…
東の命は叫んだ
東のその願いを、愛は待っていた
雨が降って来た。自分が泣いたから雨が降ったのかと思った。雨はたちまち強くなった。ゲリラ豪雨に近いな。さっき凛は自分の顔を見てすっかり晴れたと言った事を思い出し、雨が降っている事を心中で突っ込みを入れる
しまった
自分の内側の想いに浸っていたら、道を曲がり損ねてしまった。一方通行だから、このまま道を行って駅前通りに突入するしかない。ただでさえ人が多いのに、雨が降り始めたから送り迎えする車も増えて、通過に時間が掛かってしまう
商店街に入ると、のろのろ運転の車の間をすり抜けて歩く人が居て、より一層車の進みは遅い。そこへ来てもう一本道が合流する。そのうち駅前に差し掛かり、駅の側で車の乗り降りをする人が居る。雨が激しいので、皆なるべく駅に近いところで降りようと、タイミングを見計らっている
その時、駅の庇の下に立って雨空を眺めて居る小さめのスーツケースを持った一人の女性が佇んでいるのが目に止まった
東の目はその人に釘付けになった。女性はゆったりしたベージュのパンツスーツに、首にきらきらする糸を織り込んだ透ける濃いグレーのストールを巻いていた
あの人、見た事ある。急な雨に困ってる…乗せるべきか
車の窓を開けると雨にかき消されないよう東は叫んだ
「未来ちゃんのおうちの方!」
「あ、園長先生」
「乗って行かれますか?」
「良いんですか?お願いします」
車の助手席にスーツケースを抱えて素早く乗り込むと、礼を言う
「助かります…東園長先生ですよね」
「ええ。二回位お迎え来てましたよね。未来ちゃんの、えっと…」
「祖母の妹です」
「ああ、それは覚えられないな…お若いですね」
東は笑った。女性も笑った
その時、不意に、そのまま激しく降りしきっているにも関わらず、雨はゆっくりになった。まるで銀色の糸が伸びては雫になっているのが見えるかのように感じた。雨の叩きつけるような音が水滴の奏でる音の重なりに聴こえてきた
東は永遠がその扉を今しも開こうとしているとわかった。胸のうちに湧き起こる何かの予感が、駆り立てた
「みきちゃんって呼ぶの、抵抗あるんですよね、私も名前がミキなんです」
「先生のお名前がミキさん?」
「ええ、果実のミ、生きるでキ、羽根のハで、実生羽って言うんです。なんか女の子みたいで、あんまり好きじゃ無くって」
「実生羽君?」
東は助手席に座る女性の顔を見た。遠い記憶で、その名で何度も自分を呼ぶ女の子の声があった。その子は桑の実の味と綿菓子の香りと蓮華の花に飛ぶ蜜蜂の羽音がした
「私はその名前が好きだった。だから無用にいっぱい呼んだ覚えがあるわ。前の園長先生の息子さんだったの?あ、実生羽君の苗字記憶してなくって、今まで結びつかなかったわ。私、靜奏です。覚えてないかな。同時期に園にいたの、一個下だったかな」
「しずくちゃん?覚えてますよ、懐かしいですね。髪をおさげに編んでいた」
彼女が笑うとほっぺたに飴でも入っているかのように膨らむのが好きだった。あの時と同じ目をした女の子が同じ笑顔をこちらに向けて隣に座っている。
車は駅前通りの渋滞を抜けたところだった。東は言う
「今急いで帰った方が良いですか。もしお時間あればお茶でもしてお話しませんか」
「ええ、もちろん。私もお話したいです、ご迷惑でなければ」
東は笑ってハンドルを切った
まだ止まぬ雨の向こうに晴れ間を見たように思った




