Rinforzato【煙草】東(あがり)
Rinforzato リンフォルザンド(その音を急に強く)(伊)
東は喫茶店の扉を開けた。ベルがからんからんと鳴る。ちょっとレトロな昔ながらの喫茶店だ。レトロを誇張して、ダイヤル式の黒電話がカウンターに置いてある
奥に座る女性がこちらを見て、名を呼んで軽く手を振る
「ミキさん」
歩み寄ると、女性は目を挙げて東の姿をその瞳に映した。
「どうした…」
「…ミキさんの方には私に何の用事も無いの?」
「そうだね…」
東は店員を呼ぶとフレンチのホットを頼んだ。そのまま動作は自動で麻のジャケットの内ポケットを探る
「吸っても?」
「良いわよ、それでこの店指定なんでしょ。だから喫煙エリアに座っているのよ」
わかっている?とでも言いたげに女性は東が煙草に火を点ける動作を見つめる。
東が顔を横向けて煙を吐くと、呆れたように元妻が言う
「まだやめないの?もう吸える場所も無いのに」
「ああ、でも殆ど滅多に吸ってないよ。職場では無理だし。お守りみたいに持ち歩いているだけだよ」
東はテーブルの出来る限り端っこの、彼女から遠い場所に灰皿を移動し、吸いかけの煙草を置いた
以前の職場では吸うのが当たり前だったから、周りに釣られてごく自然に喫煙を始めた。あの頃はいつも時間に追われていた。彼女と結婚した時は、ライターだったのだ
「まあ、あの当時は、書き物する人は普通に吸ってたわ」
ちょっと目を細めたが、また話を戻した
「それで?会うのはいつも私の方の都合と思うの?あなたの方には何か浮いた話は無いの?」
「変わらんよ、取り立てて。今面白いのは姪っ子に彼氏ができた事かな。君も一回会ったろう、凛が赤ちゃんだった頃」
彼女は少しだけ口角を上げて、応じる
「可愛いかったわ。とは言え、私はどの赤ちゃんもそれ程変わらないように見えるのよ。興味無いからね。私はあなたが保育園を継ぐと言い出すなんて思いも寄らなかった。あなただって子どもに興味あるタイプに全然思わないし」
「そうかな」
東は運ばれて来たコーヒーを口に運ぶ。彼女は頬杖をついてアイスティーのグラスのストローをいじくる。これは彼女の本当は話したい事があると言う合図だと東は思う
「それで、本当は何か話があるんじゃ無いの」
東が促すと彼女は言った
「…結婚が決まったのよ」
「それはおめでとう」
東がコーヒーを啜る間、暫し沈黙が流れた
「何か言う事は無いの」
「幸せになって欲しいと思う」
彼女は少し憤慨する
「相手はどんな男なんだとか、上手くやって行けそうかとか」
コーヒーカップを受け皿に置くと東は尋ねる
「そんな事言われたいの?俺は部外者だし、君はやって行けると思うから結婚に踏み切ったんだろ」
彼女は少しだけ顔を顰める
「ああ、ほら。だから私達は一緒に居られないのよ。あなたはいつもそうなの。赤ちゃんどころか、私にも興味なんて無い。あなたの心に私は居ない。そっちは何考えているんだか知らないけど、私には感情があるわ」
彼女の目は東を咎めるように見る
「でもあなたはそうか、の一言で受け入れる。いつも泥にまみれているのは私で、あなたは少しも汚れないのよ」
「泥に?まみれているよ、今は毎日子ども達と一緒に」
「そう言う事言っているんじゃ無いのよ」
彼女は目を逸らした
「大学で、あなたがどんなに羨まれていたかわかってる?他の子と同じく、私にもあなたが格好良く思えた。憧れだったからね」
大学で、東は確かにモテていたようだ。何人か女の子と付き合った。だが全部が同じパターンだった。女の子に告白されて、付き合って、暫くするとやっぱり無理ですみたいに振られる。するとまた違う子に告白される。東自身は何の事やらよく分からないうちに交際は終わっていたから、実感が無い
「あなたと結婚するって言ったら私は自慢できると思えたわ。あなたが私を好きなんだと思ったし」
それから、東が就職し、収入が安定した頃に結婚した
「あんなにやりたがってたライターの仕事だって、すぐ辞めちゃったじゃない」
「だがあれは君が…」
精神不安定で、と言いかけて東は止めた。仕事に明け暮れて妻と一緒にいる時間が取れなくてなって、彼女は情緒不安定になった
「毎日殺伐とした仕事の空気が、君に影響与えていたと思ったからだ」
「ええ、そうよ、私が鬱になったからよ。ライターだって私には嬉しかったの。私にはどんなになりたくてもなれないものだったからね。それなのに、私の為と言って、あのキャリアを、簡単に捨ててしまえるのよね。もうすぐ編集任されるかも知れないという矢先に。あなたはいかに自分が愛され恵まれているのかを知っている?」
意外な言葉に訊き返す
「愛されている?」
「運命によ。あなたいつも幸運を掴むし、周囲に取り立てられるじゃないの」
東は良く分からないままに口をつぐんでいた
「そうよ、あなたの不幸は全部私の所為なんでしょ。家事が手に付かなくなった私の為に、仕事帰った後、疲れているのに家事もやって私のご飯も作って、一緒に居る時間を取れるように、親族経営の保育園に移ったって言うんでしょ。わかっているわ」
「あなたの行動はいつも正しいわよ。どんだけ我慢強いのか知らないけど、私とは違う。私にはあなたが必要だったけれど、あなたは私が必要だったわけではない。あなたは本当は一人でも生きて行けた。私は憧れたあなたを所有したいだけで、身勝手なの。それだけよ
で、あなたはガラス越しに必死で足掻いている私を見てる。立ち入らないから、客観的に正しい判断を下せるというわけよ」
彼女はアイスティーのストローを口にくわえ、一気に話した喉を潤した
東は新しい煙草をくわえ火を点け吸うと、横向いて煙を吐いた
「…あなたは私と会う時だけ煙草を吸うのよ」
「え?」
その指摘に驚いたが、思い返すとそうかも知れない
「私知ってるわよ。あなたは別に煙草に依存していない。それが戦う時に自分を奮い立たせるスタイルと決めているだけよ。…だからあなたにとっては私と一緒に居る事そのものが戦いなのよ」
東は言葉が出なかった。彼女は男の指に挟んだ煙草から細く煙が昇るのを見つめていた
東はまだ一口しか吸っていない煙草を灰皿に押し付け消した
「そうか…悪かったな…」
「謝らないでよ、違うとか言って怒り出してくれた方がよっぽど気が楽なのよ。あなたと居ると自己嫌悪しかないわ」
「別れてから次の結婚までこんなに時間かかったの、どうしてか分かる?」
東は無言で元妻を見詰めた
「あなたの印象が強過ぎて、誰と会っても比べてしまうのよ。でもこの前、年末にあなたが連絡くれて、久しぶりに会って、良かったわ。分かったもの。自分を客観的に見えた。私はあなたが好きだったけど、私は憧れの形と結婚しただけで、本当には孤独だったのよ」
言葉を探すが、謝る事を要求されていないならば、こんな時何を言えば良いのだろう
東はジャケットのポケットから煙草の箱を取り出すと、彼女の前に置いた
「何?」
「もう二度と吸わない」
すると、彼女は目を伏せて応じた
「私も、もう二度とあなたに会わない」
グラスの氷が溶けてアイスティーは薄くなっていたが、ストローで吸って中身を飲み干すと、ソファーに置いていたハンドバッグを手に取り、財布を開く。お札を一枚取り出すと、東の前に置いた
「要らないよ」
「今はちゃんと働いているんだから、自分の分位払うわ。車の送りも結構よ。いい加減、気付いたら?自分の事だけやれば良いじゃないの。気を遣われる筋合いも無いのよ。無関係なんだから」
立ち上がろうとするのも押し留められ、半ば茫然とソファーに座り直す。背中でからんからんとベルが鳴るのとそれを見送る店員の声を聞いた。窓の外を見ると、少し曇ったガラスを通し立ち去って行く彼女の後ろ姿が目に入る。大学でも彼女から告白を受け交際を始め、結婚を求められて結婚した。こんな自分を好きだなんてだけでも有り難いと思うだけだ。必要な事は全部やったし、自分では大事にしたと思っていた。だがガラスの向こうで見てただけなんて…
ショックを受けていた。若い時なら未だしも、この歳で今更ショックなんて受けるのか
年末に別れた妻に連絡を取った。中途半端なままに止まっていた時間を動かしたかったからだ。ちゃんと終わらせた方が良いと思った。だが自分ではどうするのが正解なのかわからなかった。その後、二、三回向こうから連絡が来て、会った。確かに、ずっと手を着けなかった煙草を再び吸い始めたのは彼女に会った後だ。
自分がテーブルに置いた煙草の箱を手でくしゃっと握り潰すと、灰皿の上にそれを重ねた。こうして置けば店員が棄ててくれる
女性と対峙することが俺には戦いだったのか。何と戦っていたんだ
会う度に、自分では何もしなかった。毎回元妻の愚痴を聞いてあげただけだ。自分は彼女とやり直す気は無かったし、ただそれで気が済むならばと思っただけだ。ここに、自分は絶対にこうしたいとか言う意思は何も無かった。終始彼女に対して受け身だった
果たして、俺は妻を愛していたのか
何かを喪失したと感じたが、何を失ったのかよく分からなかった
伝票を持って立ち上がると、勘定を済ませて駐車場に向かった




