Narrante【狭間の時】
Narrante ナッランテ(語るように)(伊) 音楽記号です
漸く菫青が気に入った側付が現れた
菫青の好みが難しく、なかなか合うのが居なかったがたまたま訪れた商人の息子が、菫青の目に留まった。此れで嫗亡き今、菫青の寂しさも落ち着くだろう。後は元服と、派手な御披露目の機会を待つばかりだな。加茂家の当主榊は胸を撫で下ろした
水師はその名を貰い、菫青の側付きとなった。離れの菫青の部屋に近い、廊下を渡った所の部屋をあてがわれた。
名付けたのは菫青だ。水師は菫青に巡り会えた事が兎に角嬉しかった。己の話を莫迦にせずに聞いてくれた初めての人だ。これからどんな風になるのか、少なくとも実家よりは良いに違い無かった。昼は榊の従者から側付きの心得や、作法を教わった。菫青にまたいつ会えるかと楽しみにしたが、食事も家の者達と使用人らは別々で、会う機会が無く数日過ごした
その夜の事、水師が床についていると、戸を叩く音がする
「水師、起きて居るか。入っても良いか」
「菫青様ですか」
「ちいと汝の声聞きたくてな」
あれから菫青は暇さえあらば己の心と向き合った。兄らの虐めに合えば、己の心を覗いた。そして次第にわかって来た。那由が書いていた、感情を誰かに向けるは片方だけでは成立せぬという事を。嫉妬が有るならば、嫉妬する側と嫉妬される側が居る。双方の水面下での同意無しには其れは起こり得ぬ。認めたく無くても、嫉妬されるという体験も己の意志があると認める。するとその部分は軽くなる。何度も何度も取り組むうちに、兄らの虐めは軽減して来たように見受けられた。そうびと会う事は稀だった。ただ、心の深部に入ると誰かが微笑んで見てくれているような感覚があった
それでも話し相手は相も変わらず居ない。寂しく無いと言えば嘘になる。折角話し相手に面白そうな水師が側付きに入ったのに、何やら勉強ばかりで一向に会えぬ。それで会いに来たのだ
「麻呂の側付きなのに、側に居らぬのう。話したくて来たのだ。どうだ、最近どの様な面白き事見つけた?」
「菫青、この様な夜更けに。我が叱られる」
「構わぬ。汝の所為ではあらぬ。我が話をせがみに来たのだ」
菫青は珍しくいたずらな笑みを浮かべる
「それで如何だ。作法の手習いとやらは」
「はあ。少しも面白くはあらん。話詰まらぬから表の雀眺めて居ったら、何か飛んで来た」
「飛んで来た?」
「扇がな、己目掛け飛んで来た」
「成る程な。それで如何した」
菫青は面白そうに聞いている
「わあ、と叫んで、外の雀が急に此処まで飛んで来たのかと騒いだら、師がな、笑い堪えて真面目な顔を保とうするんで、もう我耐えられず…」
「笑うたのか」
「ああ、それで真面目な手習いの雰囲気ぶち壊してんで、怒りなすって」
菫青はあのくそ真面目な義父従者の顔を思い浮かべ腹を抱え笑う。それを見ると水師も嬉しくなる。調子に乗って話すうちに夜は更け、気付くと菫青は水師の褥に突っ伏し寝ていた
水師は菫青の身体に衾を掛けると、その肩をさすりながら己も横になる
話を聞いてくれる。一緒に笑ってくれる。己が己である事を認めてくれる。この人を主人として仕えられるならば、なんて幸せなのだろう
愛しいものを抱き締め撫でた時の様に、菫青を抱いて寝る
はて、これって作法として如何なのだろうか。幼い頃仔犬に己の衾を掛けて一緒に寝たら、犬など床に上げるなと父に怒られた。犬は外のものだからか。主人は大事だから良かろう
目を閉じると菫青の香りがする
他の誰にもこういうのを感じた事が無い。何だろう。暗い夜から朝焼けが生まれる時の様な、花が今しも咲こうとする時の様な、香り
心落ち着き、水師も眠りに入る
三日ばかりそんな日があり、遂に榊の耳に入った
榊は激怒し、水師の首根っこを捕まえ、尻を竹棒で叩こうとする
菫青は間に止めに入った
「父上、麻呂が話をせがみ、そのまま寝入ったのです。水師は悪う無い」
「本当か」
「本当です」
榊はうつ伏せている水師を見ると念を押す
「良いか、そのまま逃げるなよ」
榊は菫青を少しだけ離れたところに連れて行くと、起こった出来事をひと通り聞き出した
「何もされて居らぬのだな」
「されるって、何をですか」
「いや、その。水師は汝が女と知らぬのか」
「はい」
「何故そうも言い切れる」
「水師はそのような上面の事に興味有りますまい」
榊は面食らう
「そうなのか。男か女かと言うのが上面なのか」
「そうです。だから側付きにしたのです」
「だが抱いて寝ていたというでは無いか。朝童部が見たと」
「それは水師にとって懐いた犬を抱いて寝るのと同じなのです」
「それは誠か」
「はい。久方ぶりに良う眠れました」
「…菫青は犬と同じ扱いで構わんのか」
「はい」
「然して何故言い切れる」
「霊視しました」
「……」
もう榊もそれ以上何も言えなかった
榊は溜息をついた。此奴らの非常識には着いて行けん…
「わかった。だが同衾はいかんぞ。もう二度とするな。水師にもそう言い聞かせろ」
榊は水師に向かって叫ぶ
「今回は折檻勘弁してやるが、今度あったら百叩きだぞ。わかったな」
水師が座り込んだまま頷くと、菫青は水師のその手を取る
「行こう」
「…何処へ行くのだ」
榊が問うと、菫青は笑顔で答えた
「父上の言う事をよく言って聞かせる。礼儀も敬語も。だから今日は勉強は無しにしてくだされ」
榊は二人が連れ立って行くのをそのまま見送るしか無い。だが、良いだろう。あんな菫青見た事が無い。年相応の童の様な顔をするなぞ、初めて見た
「菫青様、何処へ行く」
「何処でも。汝の好む場所は何処ぞ」
「己は川原によく行く」
「あのくれた石ころ拾うた所か。わかった。案内せよ」
それで今度は水師が先に立ち、二人は歩いた。京を出て、近くの里山に入る
川はそれ程深くも無く、澄んだ川底も良く見える二人は段差を下り川沿いにまで降りる
直ぐ手にも届きそうな所の川の水が、折り重なった落ち枝の堰を避けてさざ波を立てる。川面に反射する陽光が菫青の顔に煌めく光を映す
菫青は屈みこんで川の流れを見ながら、横の水師に言った
「水師は来たばかりで知らぬだろうが、麻呂は父上と血が繋がって居らぬ。父上が麻呂を大事にすは麻呂に陰陽師の才あると見込んでの事だ。そうでなければ、麻呂はこの家に居場所はあらぬ。兄弟らは皆麻呂を嫉妬して話し掛けても来ぬ。まあ、話し掛けられても煩わしいだけだがな。麻呂は汝と会うまで童と笑って話した事あらんかった」
「誰もか」
「誰もだ」
「己も、話聞いてくれる者居らんかった。一緒だ」
「だな。世話役の婆は居ったが、二年ばかり前に亡くなった。婆は麻呂に良くしてくれた」
「亡くなったのか。残念だな。寂しかろ」
「うむ。それでな、相手の何かを良いと思うたら、相手が生きて居るうちにそれを伝えねばならんと、その時に学んだのだ」
水師は尊敬の念に感じ入って幼い主人の顔を見入った。菫青は振り返り水師の顔を真っ直ぐに見て、己の内の真実思っている事を伝えた
「だから麻呂は汝に言う。麻呂は汝と居ると笑う事を思い出す。だから汝が側付き辞めさせられぬよう、作法も敬語も覚えて欲しいのだ」
菫青の言葉は透明な水師の心にそのままに届いた。水師は拙いながらもこの人の奥にある純粋さが己と同じものであり、それ故に菫青を支え守らねばならぬと感じた
水師も菫青に真っ直ぐ向き直る
「わかり申した。己、いや我は菫青様に忠誠します。えー、忠誠尽くします。そうしたいと思います。手習いも、受けて良く覚えるようにします。ですからどうか…」
菫青は首を傾げ水師を見た
「我の前では笑うていてくだされ…」
菫青の目から涙が溢れた
水師は驚き、言う
「如何されました。何処か痛かったでしょうか」
「いや、生まれて初めて知った。嬉しくて泣く事があるのだな…」
涙を拭う菫青に水師は笑いかけ、立ち上がると手を差し伸べ言った
「菫青様、お手をどうぞ。あの川渡った向こう、我のお気に入りの場所です」
菫青はその手を取ると己も立ち上がった
手を触れた時にひりりとした感触があり、菫青は首を傾げる
何だろう、この感じ。結界が張られた?誰も教えて居らぬのにか。水師の横顔を見上げる
もしや此奴、天賦の才など持っていたか…面白いな
菫青は先を飛ぶ水師の踏んだと同じ所を踏みながら、渡り石を渡って川向こうへと着いた
童と成人の狭間の愛しい時間だ
この一月後には菫青は元服する事となり、二人で里山に行くなど滅多に出来ぬようになった




