Narrante【心を軽くする法】
Narrante ナッランテ(語るように)(伊) 音楽記号です
菫青が使う目的を思い浮かべて薬草を探すと、道が光ったり、“此方”と声がして直ぐに見つかった。それを加工する時にも、“此れは細かくすり潰した方が良い”とか、“姿のまま保存した方が扱い易い”とか指示する声が聴こえた
菫青はそう言うのが普通だと思っていたが、周りの者はそういう声は聴こえていないらしかった。一度義父の榊に迷いなく薬草を探し出す理由を尋ねられた時に、そう答えたら、義父の顔には明らかに不可解と嫉妬の色が浮かんだ。それでもうその事は他人には言わない事にした
皆は随分と不便なのだな、と思った
ある時その声に、その薬草が何処まで薬で、何処からは毒なのかを問うた。声は教えてくれなかった。それで煎じて飲んでみた。結果酷い腹痛で丸一日寝込む羽目になった。だが菫青は煎じた薬湯を飲んでいる時の、感覚が変わった瞬間を繰り返し思い出していた。あれが境界だったか。良く良く己の感覚を研ぎ澄ませれば、大概の事はわかるのだと思った。それで己の身体感覚にはいつも留意するようになった
那由の書いた教本には、人の心に関するもの、愛に関するものがあった。菫青はそれを何回も何回も読んだ。しかし、人の心を軽くする方法は実績する機会が無いな、と思った。菫青は大概の事は好きにやっていたので、不満は無かったし、己の興味が満たされていれば楽しかった
だがやがて、気に留めずにいた兄らの虐めが、度を越して来たと思った
己には特に問題があるとは思って居なかったので、その兄を掴まえて、心を軽くする方法を試してみようかと思い立った
夕餉の後、五番目の兄の部屋の前で待ち構える
部屋の前に立つ菫青を見て、兄は驚いた。菫青は変わり者だが、積極的に報復する質とは思わず、舐めてかかっていた。もしや仕返しに来たのか…
思わず逃げようとするが菫青に腕を掴まれた
「如何された。兄上。己のお部屋にお戻りではあらぬか」
「何用だ、菫青」
兄の声は僅かに震えていた。菫青はにっこりと笑った
「何、大した用ではあらぬが、少しばかり話しとう思うて」
兄は幼いのに落ち着いて笑う菫青を薄気味悪く思った
菫青は怒っているとか仕返しという訳でも無く、この兄を実験台に那由の術を試せる事を素直に喜んでいただけだ
兄は自室に入るのを避ける訳にもいかず、動揺していない振りをして部屋に入り座り、菫青はその正面に座った。
「で、話とは何ぞ」
菫青は黙っていた。何故己に虐めをするのかその由を知りたいと思いを定めながら、相手の纏う空気を眺め、またその心の中に共鳴して感じた。己の心に同じものを感じた
「兄上、三番目の兄に嫉妬しておられるな」
兄は仰天した
「な、ななな何故それを」
「うむ、麻呂の言う事が合うているなら、認められては如何であろう」
「何で麻呂がそのような事…」
「認めれば心軽くなる筈だ。兄に嫉妬している由を聞くか」
「…兄に嫉妬している由を汝は知るのか」
兄は釣られて訊いた
「四歳の頃、己にと用意された菓子を兄が取って食べた時、兄は叱られなかったが、一つ下の弟に同じ事をした時に我は叱られた。此れは父が兄の方が文字の読み書きが上手いのを良しとしているからである。だが兄自身はそんな事で読み書き上手くなりたいとは思わぬ。父がそれを間違っていたと気付いて貰うまでこのままでいるのだ」
「……」
「何故に何も言わぬ」
「…そんな事認められるか」
「だが、己が認めて居らぬ気持ちを認めて仕舞えば、己を変える事が出来る。前を向き、明るい気持ちになれる」
兄は恥と怒りで真っ赤になって言う
「そんな事、汝に頼んで居らぬ。我は変わりたくなど無い。何でも出来る汝になどわかるか」
兄は童のようにわんわんと泣き出した。あれ、おかしいぞ。この兄は齢十二、もう元服も近かろうと言う歳だ。我よりも六つも上なのに、我よりも子供のようだ
兄は泣きじゃくりながら、近くにあった木簡を二つ三つ菫青に投げつけ叫んだ
「出てけ。もう二度と己に構うな」
菫青は呆気に取られ、急いで部屋を出た
菫青には、どうすれば苦しみから解かれるのかを分かって居ながらやらない意味が分からなかった
翌朝、菫青は義父に呼ばれた
「汝、兄を酷く泣かせたそうだな」
「ああ、それは、心を軽くする法を用いて楽にしようと…」
「何でも良いが、その様な事はもうするな。汝も大事だが、兄らも我が子だ」
だから、大事なのならば本当に思っている事を吐き出させ、認めさせた方が遥かに良好になるのだが、と思うが、もう聴いては貰えそうに無かった
義父は溜息をついて言った
「な、菫青。汝は賢いが、人の事を良く分かって居らぬ様だ。此処の常識は麻呂が教える故、麻呂がするなという事はせぬ様に。此れは汝を守る為だ。それと次いでに言うが、せめて麻呂に位敬語を使え。一応父なのだ」
「わかった…わかり申した。父上」
この時、契約にある“守る為にはズミの木の精が力を貸す”という言葉の力が働いて、菫青には義父への服従が刻まれた。この様な事を繰り返す度に、それは重ねて刻まれる事となった
菫青は世話役の嫗に溢した
「なあ、麻呂は常識知らずかの。そもそも常識とは何ぞ」
嫗は常識とは何か答えられなかったが、菫青に自覚が育って、己が他者と違う事に気付き始めたのだと思った。嫗は愛おしむ様に菫青のかむろに切り揃えた髪を撫でた。菫青はその行為が心にくすぐったい様な心地良さをもたらす事を知っていたので、黙ってされるがままにする
「菫青様は菫青様にあられます。他の何者でもありませぬ。婆はそれで良いと思うてます」
菫青も、やはり其れで良いのでは無いかと思った。己がそう思った、という事は他の誰に言われようと思った事は思ったのだから仕様がない
「思った事、婆に言うても構わぬのですよ。婆の頭は覚え悪い故、ただ聞いてるだけで」
其れもそうだな、と菫青は思った。取り敢えず、兄の事を口にしてみた
「何故に変わりたくないなど、あるものだろうか。麻呂には全く不可解だ」
「そうですねえ、婆も変わりたくはありませぬなあ」
「そう言うものか」
菫青は嫗の方を向く
「ええ、婆はこの様に菫青様の御髪を梳き、撫で、お膝に座らせるのが嬉しう思います。ですから、此の喜びは変わらずあって欲しいものです」
菫青はつい頰を緩ませた。己の表情を感じて、己もその言葉を嬉しく感じたと実感した。その変わりたくないは兄のものとは根本違うと思った
「父上も、婆が思うてくれる様な事を、麻呂に感じるだろうか」
「其れは…」
嫗は言葉を止める。榊様は菫青を大事にしている。だが其れは箱の中に入れた宝物を時々出しては眺めている様なものだ。持っていると幸運をもたらす宝物を
「大事にして居られると思いますよ…」
嫗はそう続けた
「ああ、こう思うた事をそのまま口にするのも良いかな。整理出来る」
「左様で。此れからもそうなすってくださいまし」
この頃から嫗は目が弱くなり始めていた。嫗は己の寿命では菫青の結婚を見届けられないのでは、と思っていた。
菫青はその後も周囲の気になる者の内面を霊視して、その心を解決するのは出来ずとも、理解しようと努めた。相手が如何してその様な考え方に至ったのかを分かると、納得する部分もあり、人が何故その様に行動するのかを理解するのに役立った
其れと同時に愛について考えた。己は愛の様に、満遍なく人々を受け入れ、愛する事が出来るだろうかと思った。例えば嫗が与えてくれるもの、其れは愛だ。薬草を探す時導く声、其れも恐らく愛なのだろう。愛は己を愛するが、他の人々は愛に愛されて居ないのだろうか
その疑問はより一層菫青を、人の心への興味に導いた
ある時、義父の榊が話す鳥というのを購入して来た。薄い黄色でとさかがあり、化粧でもしたかのように頰に紅が入っている。それはかん高い声で喋った
「ごきげんうるわしう…」
兄弟らも皆興味深々だったが、中でも菫青の食い付きは凄かった
「此れは何と言う鳥です、如何にしても言葉覚えるのですか」
「鸚哥と言う。繰り返し同じ言葉を話し掛けると覚えるそうだ」
菫青の滅多に見ない笑顔を見て、榊はこの子は鳥が好きだったのかと思った。行商人が珍しいのを持っているのを見てつい衝動買いしたものだ。己が持っていたところで世話が面倒になって使用人に押し付けるのはわかっていた
「やろうか、そんなに気に入ったのならば」
「良いのですか」
菫青は榊を振り返って心からの笑みを咲かせた。つい見惚れる程の笑顔だ
「構わぬ。世話を充分してやる様に」
「わかり申した。礼言います、父上」
鳥籠を義父に渡された時に、周囲の視線にはっとした
自分に向けられた兄弟らの嫉妬、妬みの矢が突き刺さる。五番目の兄だけは此方を見ない様に目を反らしていた
そう言う事か。何で今まで気付かなかったのだろう。この連鎖は、ずっとこの家にあった。彼らは己がやりたいかやりたくないかに関わらず、才あろうと無かろうと、陰陽道を学ばねばならない。其れが当主の目に留まらなければ、当主はその子への興味を失う。此処では愛される事と才能を現す事は同義だ。彼らに積もるその鬱積。
特に目立つ己に兄弟ら全部のものが一手に向けられたに過ぎなかった
ずっと己に刺さり続けた負の感情が、初めてはっきりと見えた
衝撃を受けた。何に衝撃を受けたのか良く分からなかった。ただ、哀しくて辛かった。何か嬉しい事があっても、兄弟らに見えるところで喜ぶのは控えた方が良いのだろうか、と思った
菫青は鸚哥に、教えた
「我此処にあり。我愛しむ。己が己である事を」
菫青はこの先の己に対し、決して忘れてはならぬ言葉を鸚哥の前で繰り返した
「われここにあり、われいつくしむ、おのれがおのれであることを」
鸚哥がその言葉をすっかり覚えた頃、嫗は菫青の元服を見ずしてこの世を去った
鸚哥は菫青にすっかり慣れ、籠から出しても飛び去らなくなった。床を歩く鸚哥を菫青は腹這いになってあやし、その頭や首を指でそっと撫でた。鸚哥は目を瞑って気持ち良さそうに首を傾げる
「ごきげんうるわしう」
「汝の機嫌は良さそうだ」
嫗を亡くした傷心に菫青は塞いであまり表に出なくなった。菫青は抱えた哀しみを紛らわす為に、するべき事を見出しては其れに没頭した。相変わらず那由の残した術を読み解き、習得していたが、人の心については未だ進んでいなかった
「ああ、汝はしがらみ無くて良いな。何故我はこの家の子になったのだ…」
ふっと漏らした己の言葉に、遠い記憶が呼び覚まされた。かつて幼い己を守っていた精。あれが此処が相応しいと此処に導いたのだ。此処で得たもの、那由の残した知恵、義父の惜しみない援助、嫗の優しさ…
大事なものを一つ失ったと思った。其れを支えにしていたと気付いた。やっと菫青は僅かながら泣けた。涙が出たら少しだけ胸を占めていた重たさに空間が空いた気がした
ああ、そうか。今こそ人の心を軽くする方法を実践する時では無いか
菫青は起き上がり鸚哥を籠に戻すと、準備に取り掛かる。集中し易く外からの刺激を遮断する為、部屋を閉めきり、灯を点けた
此処に踏み込む事を喜んでいる何かが居ると感じた。急に周囲に霊気が満ち、囁くように風が頰を撫でる。戸を閉めたのに
菫青は心に感じるままに呟いた
「我は哀しんでいる…」
その言葉を反芻するとまた涙が出た。涙を拭い、続ける。言葉は己だけに聞こえれば良い。誰も聞いていない。誰も見ていない。見ない振りしても感じているのは事実だ。どんなに逃げても心は己と共にあり、付き纏う。己は己の心から逃げない。覚悟を決めた
我が心に入って行く。表面に現れる感情を受け入れ、認め、手放しては次に浮上する感情を、また味わう
泣いている小さな女子。大事な人を失って、心の拠り所を失って。だが最も哀しんでいるのは、己の後ろに居る女。誰だ
其れが言った
“愛する機会を実践出来なかった事を哀しんでいるのだ”
はっきりわかった。嫗の死を悼んで居るのでは無く、嫗を通じて得られた愛の体験を感じる機会を失った事を悔いているのだ。ああ、もっと、生きている間に、この気持ちに気付けば良かった。本人に言ってやれば良かった。届けてやれば良かった。汝の気持ちは麻呂に届いたと伝えてやれば良かった。汝が支えだったと…
菫青は号泣した。その哀しみの奥には愛が潜み、見出されるのを待っていたのに、気付いてやれなかった。鸚哥は少し驚いたように籠の中で跳ねた
「きんせいさま、ばあはそばいられて幸せ…」
菫青は驚き目を開けた
「婆か」
だがもう鸚哥はいつもの鸚哥に戻っていた。菫青は目を瞑り、嫗の心に波長を合わせる。今度は直接心に嫗の想いが響いた
「菫青様は徳高きお方、何らかの使命を受けてこの世に神より遣わされたのだと思うてました。其れが何か拙き我にはわかりませぬが、その為のひと時を共に過ごせて誠に人生の最後は素晴らしく幸せな日々になり申した。ご自身を責める必要はありませぬ。貴女様は必ず何かを為されます」
其れを感じ取ってまた菫青の頰には涙が伝った。先程己が感じていた事を伝える。其れが共鳴し、向こうに吸い込まれるように拡がるのを感じた。嫗に伝わったと思った
「勿体ない。満足です」
その言葉を最後に、嫗の気配は消えた
菫青は涙を拭う。嫗は満足したのだ。彼女はその人生を全うした。此れは喜ぶべき事だ。旅立ちを祝福して、良き来世を願う
先程の女子に見えたのは己だが、その後ろにいた女。教えてくれたのは誰なのだ
今度はそこに焦点を当てる
突然、何かが己をこじ開け入って来るような感覚に襲われ、座って居られなくなり、横向きに倒れた
「ぐっ」
声が漏れるが、表面には何も起こって居ない。霊的な何かが入って来た、或いは繋がったと感じた。起き上がり、座り直すと声がはっきりと響いた
“菫青、我は汝。我を求めてくれる時を待って居った”
「何者だ。汝を何と呼べば良い」
笑ったような感覚が伝わる
“我は汝を導く。やがて来るべき時、汝らが結ばれるように。名は…そうびとでも呼べ”
そうびがどう書くのか分からなかったが雅な花が思い浮かんだ。菫青はその花を知らなかった。見た事のある其れはもっと小さくて、色が無かったが、目に浮かんだのは大輪で青かった




