Narrante【伝授と解放】凛
Narrante ナッランテ(語るように)(伊) 音楽記号です
“ところで、汝の取り組み、とても良い。我が助ける”
実穂高の声に凛は尋ねる
そうなの?取り組みってさっきあの人生を思い出し泣いた事?助けてくれるの
すると次々と知りたい事の答えが浮かんだ
実穂高と養父も似たような関係で、家から出る事が阻止されていた事
凛の中の「正しさ」「善」への拘りがそれらの傷心を手離す障害となっている事
負の感情を感じた時には、それを我慢したり否定せず、そのまま認識し、味わう事が重要で、体験し尽くすと消えるという事
前回栗鼠のいる動物園に行った時に、本当は栗鼠から「貯め込む」を回収したので今回「排泄」が出来るようになった事
「本当?味わい尽くすと負の感情は消えるの?」
思わず声に出して言ってしまった
実穂高は笑っているようだった
「陰陽師の仕事ってセラピストなの?」
実穂高はセラピストという言葉の意味が分からないようだった。凛は言い換える
人の心を癒し軽くする仕事。
実穂高は陰陽師はそう言う事をしないが、自分は那由という者が書き遺した書を手習いに、人の心を軽くする方法を学び、実践したと伝えた
「今頭痛いのはどうしてなのかしら」
実穂高は理由を探り、それが頭と思考、考えが設定している限界によるものだと教えた。そして、その考えが役立った時は終わりで、今は状況が変わった事を充分に認識すれば消えると言った
凛がそれを取り組むと頭痛は少しずつ治った
凛はちょっと元気が出て来た。さっきはあまり食欲が無くて残していたシリアルを食べ、冷めたポタージュを飲んだ
それから、またベッドに横たわり、心に引っ掛かっている感情と向き合った。二重橋で思い出した、颯雅であった運命の人と結ばれなかった人生を思い返しては泣くのを繰り返すと、嫌な感じは段々と薄れていった
突然曲が思い浮かんだ
“僕の歌は風に乗って
このまんまで息つげるなら
心と音は同じに在ると
運べ 僕の歌懐かしの故郷へ”
何かしらこのメロディー、この歌詞。考えていると、その時の人生で聴いた曲だと思い出した
あの人生で唯一救いだった運命の人と別れ、もがいていた中、ずっと聴いていた音楽があった。それ程メジャーでも無かったとあるシンガーソングライターの曲。彼の歌う曲が心の支えだった。それはいつもどこでも無い国の、懐かしい故郷を歌っていた。それを初めて聴いた時、何故この人は私の思い描く故郷を知っているんだろうと思った。
彼は一度結婚してまた別れて、それでも音楽を作り、活動していたが、四十になる前に突然死んだ。彼が亡くなったと知ったのは、亡くなって既に一年も過ぎた頃だ。それを知って、コンサートに一回でも行けば良かったと悔いた。だが凛自身が死んだのもそれから間も無くだった
凛はその違う人生に居て今世には登場しないアーティストが誰なのかを、突然思い当たった
東さん…
伯父がその人生でも自分を遠くから見守って居てくれたという事に感謝し、涙した
気分はすっきりしていた。自分はずっと自分が嫌いだと思っていたが、もしかしたら変われるのかも知れない。それは一筋の光のように、凛の足元を照らし、明るくした
自分の感情、感じた事を、自分に隠してはいけないのだとつくづく思った。それと同じように、もし颯雅の事を愛し、信頼するならば、思った事や感じた事を出来る限り話すべきだと思い、今度からはそうしようと決意した。
この人生の両親が好きとは言い切れないが、あの人生と比べたら天国みたいだと思った。自分の感情からは今世の両親への嫌悪が軽くなっていると思った。あの人生での親に対する憎しみを受け入れたから、今の両親を許せるようになったのだ。その事に思い当たり、凛は颯雅への今日のお詫びを母に協力して貰おうかなと思った
頭の隅で引っ掛かっていた事があり、去年の手帳を引き出しから引っ張り出す
「あったわ。個展で会った日に聞いたから、今年の手帳には書き写して無かったのね」
そこには個展を開催した12月の余白に、「颯雅誕生日、7月8日」と書いてあった
凛は部屋を出ると、下階に降りて母の仕事場に行った
「お母さん、青い布の在庫あるかな」
「青?今あるのは三種類ね」
咲雪は立ち上がって棚の上から巻いてある布を引っ張り出す
「うーんと、イメージ違うな…じゃ白で良いや。白の麻はあるかしら」
「これで良いの?割と一杯あるわよ、夏はこういうの良いからね」
「作って貰っても良い?お金払っても良いから…」
「え?何。どういうデザイン?」
凛は棚に立ててある咲雪のデザインファイル帳をパラパラとめくった
「これこれ。これのサイズLで」
咲雪もそのページを覗き込む
「男性の?まさか橘君の」
「うん、お願い。誕生日七月って聞いていたの、忘れていたの」
凛のいつになくさっぱりした表情に、咲雪はむしろ戸惑う
「ついでに私にもワンピース作ってくれないかな。麻レーヨンで。青に染めたいから、糸もコットンで」
「あなたのはどのデザイン?」
「前作ってくれたやつの、ちょっとデザインアレンジバージョン」
凛は違うデザインファイルから以前作った事があるシンプルなワンピースのデザインを示すと、メモ帳から一枚用紙を取った。それから、そのデザインをさらさらと描き写すと、アレンジを加え始めた。首周りとウエストに少しギャザーを寄せて、ウエストラインを5センチ下げて手首を軽く絞って…
凛が咲雪のデザインに手を加えると、もはやそれは全く別の印象に変わった。凛の好みに合わせ、清楚でシンプルで、装飾が殆ど無いデザインをしたものが、たちまち大人の女性の華やかさを品良く加えたものに変貌した
咲雪は正直びっくりした。凛の才能と、また凛のファッションの好みの変化にだ
明らかに、凛の心に女らしさが芽生えているのだと思った
「藍染の染料ある?前にワークショップで使ったやつ。無かったら自分で買って来るけど」
「うん、まだあるわよ」
咲雪はちょっと楽しくなって来た。さっき落ち込んでるように見えたのは何だったのだろう。この子がこんな風に自然に何かを頼んで来るなんて初めてだわ
咲雪は男性用シャツのナンバーを確認すると、平べったい引き出しから、Lサイズの型紙を引っ張り出す。布をテーブルに広げると、その上に型紙を並べ始めた
夕飯の準備は凛が手伝った。母に縫い物を頼んでいる以上、時間をあまり取らせる訳にも行かない。お米を研いで炊飯器のスイッチを入れ、冷蔵庫の野菜室の中の野菜を切って煮込む。
無難なところでカレーか。でももし今度こういう機会があるならば、もうちょっとちゃんと料理したいな。颯雅君と暮らしたら、毎日色んなもの作って一緒に食べるんだし…
考えながら自分でも赤面した。思考が完全に一緒に暮らす前提だ。だが結婚するとすれば彼以外に考えられない。でもこの考えは前よりもずっと前向きだわ。これって実穂高のおかげよね
凛は心の内で実穂高に感謝した
母は娘が率先して作ってくれただけでも大進歩だと思った。普段、家事をやってくれる事はあまり無い。父の誠時はとんでもなく喜んでいた。たかがカレールウ入れただけなんだけど、と凛は思った。だが今日よりも前には父に対して束縛されているかのように感じていた気持ちが軽くなっているのを再認識し、自分の変化を嬉しく思った




