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自由への逃走  作者: 真魚
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第一章 海峡の王 七

セーリスの台詞は「ルール・ブリタニア」の歌詞をイメージしています。

17世紀のイギリスはまだまだ小国ですが、のちの大英帝国の萌芽は、間違いなくこの時期に萌し始めていたはずです。

彼らの自意識は、世界の半分を支配したあとにも、根柢の部分でどこか「弱者」だった気がします。

支配されないために支配する。

奴隷にされないために奴隷にする。

隷属の恐怖に駆り立てられるような支配の衝動という気がします。

 クローヴ号の備品であるスキフボートは、組み立て式の一本マスト、一枚甲板の大型ボートだ。セーリスはこの舟に好きなように銃火器(ガン)を積むようにと命じた。

「できるだけ迫力のある感じがいい。出てきたら吃驚しちまうような」

「ならファウラー砲を並べたらどうです? 舳先に二門とも」

 思い切って提案するとセーリスはきょとんとした。

「重くなり過ぎないかい?」

「合わせたって二〇〇ポンドですからね。スキフのサイズなら、船尾の底荷(バラスト)を重くすりゃ何とかなると思いますよ」

「そうか、なら君にすべて任せるよ。材木も船大工も自由に使っていい」

「任せてください司令官」



 スキフはその通りに改造され、クローリーを指揮官にして小舟の群れへと突進した。

 セーリスは弩を構えた水夫たちを背後に二列に並べて船尾楼甲板から睥睨していたが、二門のファウラー砲を目にした漕ぎ手の現地人たちが怯むのを見計らってスペイン語で宣言した。


〈よく聞け原住民(インディオ)ども! 我々はこれから日本の皇帝に挨拶にいくところだ! 皇帝は我々と同盟を結ぶはずだ! お前たちが我々に武器を向けたことを知ったら、強大な日本の皇帝が必ず報復するだろう!〉


 セーリスの宣言をジョン・ジャパンがマレー語に訳して伝えるなり、漕ぎ手たちが目に見えて狼狽えた。頭領らしい赤いサッシュを巻いた男が刀を抜いて仲間たちを叱責し、刃先をクローヴ号に向けて怒鳴り返してくる。途端、セーリスが眉を吊り上げ、背後を省みながら命じた。

「ミスター・ラントロ! あの無礼な原住民(インディアン)を撃て! 我々に刀を向けている!」 

「待ってくれセーリス!」

 半甲板から商人頭が叫んだ。

「君は約束しただろう、誰も――」


「あれはオランダ人ではない! ランクロ撃て! 正当な防衛だ!」


「はい司令官!」

 返答と同時にパン、と乾いた音が響き、次の瞬間、赤いサッシュの男が刀を握ったまま頭から海へと倒れていった。

 水音の白い波の柱が立ち、渦を巻く青金石色(アジュール)の水面に血の色が広がった。


「聞け原住民ども!」

 セーリスが英語で叫んだ。


「我々はイギリス人だ! 我々は小さな島国の住人だが、かつてスペインの無敵艦隊(アルマダ)を退けた! イギリス人は何にも支配されない! なぜなら支配者だからだ!」


 セーリスの声音は晴れやかで耳に心地よかった。水面の血の濁りがたちまち渦に呑まれてゆく。そのとき、例の大カヌーがゆっくりと近づいてきた。

「おいエヴァンス、来たぜ、テルナテの貴公子(プリンス)だ」

 メレディスが嬉しげに耳打ちしてきた。

「司令官の読み通り、俺たちに加勢してくれるのかな?」

 両側に鰭のような舷外浮材(アウトリガー)を備えたカヌーの舳先で旗印が輝いていた。その傍らに立っているのは若木のようにすらりとした褐色の膚の貴人だった。眩い白い腰布を巻き、赤と金のサッシュを締めて、頭には赤いターバンを巻いていた。

 インドの王様だ、とエヴァンスは嬉しくなった。本物のインドの王様が俺たちの勝利を祝いに来たのだ。

「司令官!」


 貴公子(プリンス)が来ています!


 そう叫ぼうとしたとき、セーリスが右腕を大カヌーへと向けながら命じた。

「エヴァンス! あの舟を狙え!」

「え?」

「狙え! あのカヌーを!」

 セーリスの声に苛立ちが滲んだ。エヴァンスは慌ててファウラー砲を向けた。こんな小舟のちっぽけな砲をあの貴公子が怖れる筈がない。内心でそう思っていた。

 しかし、次の瞬間、貴公子はびくりと後退ったかと思うと、両膝をついて頭を低めてしまった。その姿を右腕で示しながらセーリスが誇らしげに宣言した。

「見ろ原住民ども! これが我々の力だ!」

「イギリス万歳! ジェームズ国王万歳!」

 ラントロが叫ぶとクローリーが叫び、船上からもスキフからも同じ叫びがあがった。重ねてセーリスが命じる。

「エヴァンス、メレディス、小舟に穴を開けてやれ!」

「はい司令官!」

 小舟の舷側に穴が開くと、漕ぎ手たちが悲鳴を上げ、次々と海へ飛び込んでは岸へと泳いでいった。オランダ人たちがクローヴ号の錨綱にしがみつく。セーリスが満足そうに笑った。

「彼らを助けてやれ。そして誓わせるんだ。二度と我々を侮辱しないと」

 


 この日まさに大勝利だった。

 引き揚げられたオランダ人たちは、二度とイギリスを侮辱しないと欽定訳聖書に誓わされた上で、スキフボートでローデ・レーウ号まで送り返された。スキフには沈鬱な顔をした商人頭も同乗していた。

 スキフがクローヴ号に戻ると、待っていたのは船上からの拍手と歓声だった。セーリスはエヴァンスを半甲板に呼んで褒め称えた。

「よくやってくれたねエヴァンス。今日の勝利は皆君のおかげだ。VOCを威嚇し、テルナテの貴公子も頭を下げたとなれば、我々に丁子を売りにくるカヌーは明日からぐっと増える筈さ。みな私の勇敢なエヴァンスのために拍手をしてくれ給え!」

 万事がそんな具合だったのだ。


 七日前。そう、たった七日前まで――



 その日に何があったか? 勿論よく覚えている。


 水葬だ。

 五月ごろ給水のために立ち寄ったドイという無人島で大冝我をした操舵長(クォーター・マスター)のジェームズ・マイルズが、一か月の苦しみを経て息を引き取ったのだ。


 横殴りの雨の降る午後だった。仕来り通り八回の船鐘が鳴らされてはいたものの、甲板を叩く雨音に遮られてあまりよく聞こえなかった。裁縫師が帆布で縫い上げた経帷子に包まれた骸は、牧師代わりにセーリスが祈りを捧げたあとで、厚板の上を滑って海へと滑り落とされた。

 骸に初めの大波が被さった瞬間、ボールスが舷縁(ガンネル)から身を乗り出して叫んだ。


操舵長(マスター)!」


 バンタムから乗り組んだエヴァンスは知らなかったが、ボールスはマイルズと相当親しい付き合いをしていたようだった。

 雨に泡立つ海面を浮きつ沈みつしながら遠ざかっていった骸がついに見えなくなった後で、雨空を仰いで慟哭し、膝をついて甲板を叩きながら叫んだ。

「操舵長、操舵長、どうして死んだ! 畜生、何が黄金のジパングだ! 丁子(クローヴ)は十分仕入れたんだから、俺たちもさっさと故郷(くに)へ帰ればよかったんだ!」 

人気の高いボールスの慟哭に水夫たちがざわめき始める。

 ヘクター号で反乱が起こる前にもこんな空気になったことがあった。

 泣き叫び続ける昔馴染みをエヴァンスは慌てて宥めた。

「おいジョニー落ち着けって。ミスター・マイルズは今ごろ天国にいるさ。この糞みてえな板の上よりはよっぽどいいところにな」

 ボールスが掌で顔を覆いながら頷くと、周りの水夫たちも次々に慰めを口にし始めた。エヴァンスはほっとした。

 その時セーリスが掌を打ち合わせた。


「皆悲しむのはそこまでだ。各自の仕事に戻れ」


「ジェネラル・セーリス、それはあんまりじゃないか?」と商人頭が抗議した。「彼らは仲間を失くしたばかりなんだよ? 二年間一緒にやってきた船乗り仲間を」

「そんなことは私も分かっている!」

 セーリスが尖った声で言い返し、拳で目元を拭った。「コックス君、君は私が悲しんでいないと思うのか? 私の勇敢なマイルズの死を。二年間私に仕えてくれた大事な操舵長の死を! しかしね、私は知っているんだ。彼は我々の大いなる船路のために命を捧げたんだ。誉れある会社の利益と故国の名誉のためにね。だからその死は無駄ではない。残された我々は、マイルズが命を捧げた目的を果たすべく各人の義務を果たさなければ」

 セーリスは幾度も目元を拭いながら話した。

 掌砲長のエドワード・マークスが顔をぐしゃぐしゃに歪めて頷いていた。水夫たちの視線が集まりきるのを待って、セーリスが空を仰ぎ、凛と響く声で命じた。

「南南西の風が激しい。一端すべての帆を巻け!」

「はい司令官!」

 船乗りたちが一斉に答えて動き始めた。頭の上でバタバタと索具が鳴っていた。水夫たちが身体を斜めにして怒鳴り合いながら帆綱を引く。


 作業が終わると船上を支配しかけていた悲嘆の空気も一掃されていた。気落ちしているのはボールスだけのように見える。エヴァンスはその肩を叩いてやった。

「なあジョニー、カードでもしようぜ」



 いつものように銃火器室(ガンルーム)へ向かうと、思いもかけず入口に掌砲長が立ちはだかってきた。

「おいエヴァンス、無断で出入りをするな。砲手補の居所は砲列甲板(ガンデッキ)だ。衣装櫃(チェスト)をそっちに移せ」

 掌砲長の声音には親しみの欠片もなかった。おいおいマークス何の冗談だよ、と笑い飛ばそうとしたとき、背後からボールスが肩に手を置いて囁いてきた。

「やめとけ。見ろよ。風向きが変わってやがる」

促されてマークスの肩越しに銃火器室の中を覗くと、梁に吊るしたランタンに照らされた室内に意外な人物がいた。

 舵手のリチャード・デールだった。

 セーリスが手にしていた覚えのある六分儀を丁寧な手つきで磨きながら、百年前からの親友みたいに航海士のヒンスリーと話していた。

 デールは入口からの視線に気づくとちらりと顔を向け、ニタリと目尻を下げて勝ち誇ったように嗤った。

 エヴァンスはそのとき初めて悟ったのだった。



 俺はどうやらお気に入りの座から転落したらしい。



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