第一章 海峡の王 六
ところで、クローヴ号がペレベリに停泊を続けていたのは、「ケイ・マラダイア」という難しい名のマキアン島の有力者が使者を寄越して、できればこっそり丁子を売りにいきたいと申し出ていたためでもあった。何でもケイ・マラダイアは諸島で最も有力なテルナテ島の君主の兄弟で、スペインの干渉にもオランダの干渉にもうんざりしていうのだという。
使者が請け合ったとおりタハネの砦はごく小規模で、オランダ船もスペイン船も一向に現れなかった。
二日目に至って空気がだれてくると、セーリスは仕方なく総員警戒態勢を一度解き、暇な水夫たちには弩でも作らせておけと命じた。火矢が放てる大型の奴だ。船大工と掌砲長が四苦八苦して司令官の望みに叶う弩の見本を拵えあげた頃、現地人の小さなカヌーが朝方こっそり漕ぎ寄せて秘蔵の丁子を売りに来た。
オランダ人よりも少しばかり高く買い上げるという評判が広まってくれたのか、初めの一隻を皮切りに、丁子を売りに来る小舟が徐々に増えてきた。
もしこのままケイ・マラダイアが現れなくても、上手くすれば必要量を仕入れられるかもしれない。
そうしたらあとは日本に寄って、「オゴショ・サム」なるこちらも難しい名の皇帝に手紙を届けて帰るだけだ。日本の皇帝の宮廷にはイギリス人の寵臣がいるという話だから、この仕事は楽勝だろう。
船内をそんな楽観的な空気が支配し始めた五日目の午後、南を見張っていたフォアマストの檣楼から警笛が鳴り響いたのだった。
「船だ、南からガレオンが来る――!」
これは愕くべき報せではなかった。
来るべきものがつきに来たのだ。
あらかじめ知らされているこの世の終末みたいなものだ。
船尾楼甲板からトランペットが吹き鳴らされるなり総員が戦闘態勢についた。エヴァンスは左舷のファウラー砲に、右舷にはメレディスがついた。
午後の陽を負って真南から近づいてくる船は、バウスプリットの先端にも三本のマストの頂にも同じ旗を掲げていた。
青と白と赤の横縞。
オランダ連合東インド会社(VOC)だ。
「ローデ・レーウ号だ。アンボイナから来たのか?」
バンタムで雇われた日本人通訳のジョン・ジャパンが怯えた声で囁いた。英語ならばレッド・ライオン号だ。
横縞の真中に黒で記された「VOC」の連字が見えるほど近づくと、相手方の船首楼甲板に複数の砲口が並んでいるのが見えた。どれもセーカー砲のようだ。
「えらく多いな」
メレディスが震え声で云った。
ローデ・レーウはクローヴ号より一回り小さいのに、相当数の砲を搭載しているようだった。武装商船ではなく純粋の戦艦なのかもしれない。オランダ船は図々しくもクローヴ号の船尾の真後ろに投錨し、現地人の漕ぐ小舟に小銃を構えた兵士を乗せて日夜哨戒を始めた。
オランダ人たちは先制攻撃を誘うつもりか、クローヴ号の射程範囲にまで入ってきてイギリス人を侮辱する歌を唄った。セーリスは総員に警戒態勢をとるよう命じたが、攻撃されるまで撃ってはいけないと厳命した。
ローデ・レーウ号がやってきた翌日、北から新しい船が来た。
初めに遠い船影を見とめたとき、クローヴ号の面々は方角からしてついにスペイン船の登場かと慄いた。しかし、近づくにつれて胸を撫でおろした。
船はガレオンでも快速帆船でもなく、この海域の有力者が好んで用いる舷外浮材つきの大きなカヌーだったのだ。
「あれはケイ・チリ・サダングの舟だ」
マキアン島で雇った水先案内人は、大カヌーに望遠鏡を向けながら言った。ジョン・ジャパンの通訳によれば、「ケイ・チリ・サダング」なる人物はテルナテ島の有力な貴公子なのだという。舳先のポールの先に何かキラキラと輝く印を立てたカヌーは、ゆっくりと弧を描いて往復運動をしながら、遠ざかるでもなく近づくでもなく様子を窺っているのだった。
どうも状況を観察しているらしい。
この高貴な観衆の登場がイギリス人を奮い立たせた。
とりわけいきり立ったのはクローリーとラントロという若い商人の二人組だった。彼らはオランダ人との交渉に赴く商人頭のリチャード・コックスにやめろと直談判した。
「キャプテン・コックス、我々は戦うべきです。相手はまだ一隻だけなのですから今攻撃すれば勝てます」
「しかしね君たち、ローデ・レーウ号を全滅させない限り必ずまた新手が来るよ」
「その前に出航するのですよ。一度勝利を見せつけてやれば、あのテルナテ島の貴公子とやらはこちらに加勢するはず。連中はVOCの専横にうんざりしているのだから、銃さえ与えてやれば好きに戦うでしょう。その隙に我々は日本に発てばいい。勝てるのは今です。今すぐ攻撃すべきです!」
気炎をあげる若者たちに商人頭は苦笑いした。
「二人とも落ち着き給えよ。それで、我々が行っちまったあと貴公子はどうなるんだい? わずかばかりの銃と火薬で、三十門の砲を備えたオランダ船と独りで戦えと? そんなやり方はフェアじゃないよ。大丈夫だ。言葉が通じる相手なら交渉の余地はある」
「敵が今まさに砲口を向けているのに、この上どんな交渉の余地が?」
「彼らはまだ敵じゃない。未来の利害を思い出させるのさ。知っての通り、今のスペイン王はポルトガル王も兼ねているのだから、スペイン領マニラの総督が本気でモルッカ諸島を攻撃しようと思い立ったら、ポルトガル領マカオの船団司令官も、少なくとも後方支援はするだろう。そうなったときVOCは何と組める? 同じプロテスタント国である我々イギリス商人は最適の同盟相手じゃないか。時間をかければ交渉はできる。私に任せなさい」
商人頭はそんな具合に若者たちを宥め、オランダ船の司令官との交渉のためにタハネ島へ上陸したものの、成果はなかなか上がらず、侮辱も一向に止まなかった。ついに小舟のオランダ兵がクローヴ号の錨綱に括られた金属製の浮標を小銃で撃ち抜くに至って、若い商人たちは怒り心頭に達して、ちょうど戻ってきていた商人頭に詰め寄った。
エヴァンスはこのとき半甲板で弩づくりの監督をしていたが、ラントロが商人頭の襟首をつかみあげるに至って、慌ててセーリスを呼びに走った。
「司令官、ミスター・ラントロが商人頭に手をあげました!」
「分かった、エヴァンス、君も着いてこい」
セーリスはまるで待ち構えていたかのように落ち着いた態度で半甲板へと出るなり、眼下の観衆を見渡してからよく響く声で命じた。
「ラントロ! キャプテン・コックスから離れろ!」
「しかし司令官、我々はもうこの老人のやり方には耐えられません! 現に今この場所でイギリス国王の名が侮辱されているのに、この売国奴は敵方のテーブルでワインを飲んでいるんだ!」
「二人とも口を慎め! キャプテン・コックスは毛織物商人組合に属していた熟練の大商人だ。彼の経験、彼の人柄、すべてが尊敬に値する――」
セーリスは話しながらゆっくりと階段を降りてきた。白い大きな花のような日傘が後ろから差しかけられていた。
「しかし、だ。彼の経験は古い世界の古いしきたりの中で培われたものだ。我々が挑もうとしているこの新たな世界では、必ずしも常に有用とはいえない」
セーリスはそこで言葉を止め、いかにも怒りに耐えかねたように唇を戦慄かせた。
「キャプテン・コックス、率直に言って、私も貴方のやり方には完全に納得はできない。貴方の経験を重んじて待ってみようと堪えていたが、もう限界だ。これ以上は待てない。今日からは私のやり方でやるよ」
「キャプテン・セーリス、君は一体何をするつもりなんだい?」
商人頭が焦った声で訊ねると、セーリスは冷ややかな視線を向けた。
「コックス君、私の肩書は船団司令官だよ。無益な因習にしがみついていないで、そろそろ新しいやり方を受け入れてくれ給えよ」
「失礼、ジェネラル・セーリス」
商人頭は平坦に詫びてから、殆ど縋りつくような声音で続けた。
「貴方が何をするにせよ、オランダ人を傷つけないでくれ。彼らは隣人なんだ。まだ友人ではないにせよ、いずれはそうなれるかもしれない。時間だよジェネラル・セーリス。商売には信頼が必要で、信頼を築くには共に過ごす時間が必要なんだ」
「貴方らしい理想論だ」
セーリスは憐れむように言った。
「キャプテン・コックス、我々のこの航海が当座資金で賄われていることを忘れないで欲しい。貴方がのんびり敵対者と談笑している間にも、水夫は物を食うし備品は消耗する。延びれば延びるほど経費がかさむんだ。その現実を直視してくれよ」
「先行投資だよ。今ゆっくりと時間をかけてVOCと信頼関係を築いておけば、この航海での利益が減じたとしても、次に来るイギリス船が今回よりも容易く利益を得られるかもしれない」
「その利益は私の利益じゃない」
「すると、貴方はあくまで自分の私的な名声のためだけに司令官を務めているのか? 誉れある会社の永続的な利益のためでも、故国の名誉のためでもなく?」
商人頭が切り返すとセーリスはぐっとつまり、ややあって短いため息をついた。
「分かった、分かったよ我が老キャプテン! 故国の名誉と誉れある会社の永続的な利益のために約束しよう。オランダ人は傷つけない。あくまでも威すだけだ。我々の威勢を見せつけてやれば、あのテルナテの貴公子もこっちに着くだろうしね」
「聖書にかけて?」
「ああ、聖書にかけて」。
セーリスは請合うと、おもむろにエヴァンスに視線を向けてきた。
「エヴァンス、君に頼みがある」
「何でしょう司令官?」
「スキフボートを改造して欲しいんだ。我々の小さな海戦のためにね」