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自由への逃走  作者: 真魚
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第一章 海峡の王 五

17世紀初頭のモルッカ諸島についての説明部分です。

念のため、参考文献からの引き写しではなく、私が個人的に執筆しています。

くれぐれも、レポートなどにそのまま使用なさらないように。

出典を明記してね。


出典は素人のウェブ小説!

うん。とっても馬鹿っぽい。

 ところで、この時期のヨーロッパ人の呼ぶ東インドとはかなり漠然とした概念で、ヨーロッパとアフリカ以外はすべてインド、南北アメリカ大陸が西インドならば、それ以外の地域はほぼすべて東インドと見なしているきらいがあった。

 その漠然として広大な東インドのなかで、常に激しく支配権を争われたとある小さな海域があった。


モルッカ諸島とバンタ諸島の周辺である。


何故か?

理由は香辛料(スパイス)だ。


胡椒。シナモン。ナツメグ。丁子(クローヴ)

莫大な富を生むこれらの香辛料のうち、ナツメグはバンタ諸島が、丁子はモルッカ諸島が原産だった。

そして、この二種は原産地でしか栽培できなかったのだ。


黄金の香料諸島(スパイサリー)――

ヨーロッパ人たちにとって、その場所は初め未知の地だった。

紺碧の海の彼方の何処かにあるかもしれない、空気すべてが芳香に充ちた輝かしい夢の地だった。

彼らはその地を夢みて船出した。


香料諸島が未知なる夢の地ではなくなったのは、一五一一年にエスタード・ダ・インディア、すなわちポルトガルの《インド領》副王アルブルケがマラッカを占領して以降のことだ。


北からテルナテ、ティドレ、モティ、マキアン・バチャンという主だった五つの島の連なるモルッカ諸島も当初はポルトガルが押さえていたが、一世紀を経た一六一三年になると、ポルトガルは追われ、オランダとスペインがそれぞれに城砦を築いて睨み合いを続けている状態だった。両国はそもそも一五八〇年からオランダがスペインからの独立を求めるという形で交戦中だが、一六〇九年から十二年の休戦協定が結ばれているため、互いにじかに手出しはできないのだ。

 そのため、両国は、諸島中の目ぼしい停泊地をしらみつぶしに押さえては他国の船を排除し、現地の有力者を砲で脅して自分たち以外には丁子を売らないように取り決めた条約を結ばせることで独占を図っていた。スペインの本拠地はテルナテ島の大城砦。一方のオランダはマキアン島の三つの町すべてに新たな砦を築いていた。この睨み合いに、テルナテ島の君主(スルタン)とティドレ島の(ラジャ)という二大勢力の伝統的な敵対関係も絡んでくる。


 エスタード・ダ・インディア衰退後の苛烈な香辛料戦争(スパイス・ウォー)に一歩出遅れた感のあるEICのクローヴ号は、そんな状況のモルッカ諸島に赴いて、船と同じ名の香辛料(スパイス)をどうにか買い入れようとしていたのだった。――クローヴ号はもともと日本を目指していたのではなく、最重要の目的は丁子(クローヴ)の仕入れのほうである。名を聞けばたぶん誰にでも分かっただろうが。

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