第一章 海峡の王 四
五ヵ月前、エヴァンスはジャワ島のバンタムでヘクター号からこのクローヴ号へと希望して移ってきた。移動のきっかけは、それまで乗っていたヘクター号の船長トマス・フラーが会社に対して反乱を起こそうとしたことだった。
船長が反乱とは奇妙な響きだが、東インド会社の航海を指揮するのはあくまでも商人たちで、専業の船乗りの地位は高くない。フラーは食べ物に不満を募らせるヘクター号の水夫たちが「くたばれジョン・セーリス!」と囃し始めたのを煽って、「セーリスは水夫を虐待している、船団司令官には相応しくない」と騒ぎ立てたのだ。ヘクター号には次席の司令官である商人ガブリエル・タワーソンが乗っていたため、セーリスを引き下ろしてこのタワーソンを船団司令官に据えるつもりだったのかもしれない。
だが、反乱は失敗した。
囃すだけなら喜んで囃した水夫たちも実際に武器を取るとなれば別だ。僅かばかりの反乱者はあっさりと取り押さえられ、首謀者のフラーは足枷を掛けられて甲板で晒し物にされた。
元船長が自分の船の甲板に晒されている姿を見るのはエヴァンスには不愉快だった。つい数日前までフラーの前では顔も上げられなかった平水夫連中がその顔に向かって檳榔子で真赤に染まった唾を吐いているのを見ると尻を蹴り上げてやりたくなった。
日本行きを決めたクローヴ号が補充の乗組員を募ったのはそんな頃だった。
エヴァンスはこの募集に応じた。
そして、思いがけない歓迎を受けたのだった。
「勇敢な私の乗組員たち! よく来てくれたね! 約束しよう、私は必ず君たちを日本へ連れて行くよ! 地上総ての富の集まる黄金のジパングへね!」
セーリスはそのときも焔のような羽根飾りのついた帽子を被っていた。
赤い絹のガウンを纏った背の高い黒人が右側から白い日傘を差しかけていた。眩いほど白いレース襟と金ボタンを並べたカフス。微かに薫るローズウォーターの芳香。エヴァンスは圧倒された。就任行列で黄金の舟に乗るロンドン市長閣下だってこんなに豪勢ではない。この人はまるで王様だ。王様が俺に笑いかけている。――ジョン・セーリスの笑いにはそういうところがあった。十人に笑いかければ十人が皆「自分に笑ってくれた」と思い込んでしまうような蠱惑が。
手入れの良い口髭を生やした黒いダブレットの書記が新入りの名を乗船名簿に書きこむ傍らで、司令官は一人一人と握手をした。手首が動くたびにカフスの金ボタンが輝いて見えた。
砲手仲間だった《鳥撃ち》メレディス。
平水夫のエドワード・フトマン。
少年水夫のクレメンス・ロック。
小さい茶色い羽根付きのフェルト帽を被った若い事務長補ウィリアム・イートンの次にエヴァンスの番が来た。
「クリストファー・エヴァンス? 砲手補か。どうかよろしく頼むよ。アルマダの海戦の昔から砲撃戦はイギリス人のお家芸だからね」
司令官は朗らかに笑ってから、ふと眉を寄せ、エヴァンスの帆布製のシャツの裾を抓んで引っ張った。
「この服はいただけないなあ! これから黄金のジパングを目指す私の船の砲手が乞食みたいな襤褸を着ているって法はない。ミスター・メルシャム、彼に一番上等の贈答用の白バフタを二巻き持って来てやってくれ」
途端、口髭の書記――後になって事務長のジョン・メルシャムだと分かった――が船尾楼から白い布を運んできた。
「この布でシャツを新調したまえ。インド産の最上級の木綿だ。仕立てはウィリアムズにやらせよう」
事務長の手から渡された真新しい木綿布は信じられないほど軽くて柔らかだった。
帆布すべてを管理する裁縫師のウィリアムズがたっぷりと襞をとって首元と袖口に白蝶貝の釦までつけた贅沢な仕立てのシャツを仕上げる頃には、船中の誰もがエヴァンスの機嫌を取るようになっていた。銃火器室にもいつでも入れて貰えたし、賄いでは一番コクゾウムシの少ないビスケットを手渡された。最高だったのはスキフボートの改造だ。
復活祭の前だから三ヵ月ばかり前になる。クローヴ号はモルッカ諸島のペレベリという碇泊地に投錨して現地人がこっそり丁子を売りに来るのを待っていた。こっそり待つ必要があったのは、碇泊地から最も近いタハネという小島にまでVOCが見張りの砦を構えていたためだ。
VOC。
オランダ連合東インド会社(Verenigde Ooste-Indische Compa)。
これは、アムステルダム、ゼーラント、エンクハイゼン、デルフト、ホールン、ロッテルダムの六つの州に置かれた分社の連合体として一六〇二年に設立された世界初の株式会社である。
株式会社とは言うものの、この組織は純粋に経済活動を行う民間団体のイメージからは程遠い。後世「海軍と貿易と海賊は三位一体」と評したのはゲーテだが、それに倣うなら商人と役人と軍人の三位一体だろう。
この特殊な――現代人の目から見ると特殊に感じられる組織の性質は、十七世紀のオランダという国家の性質に由来するのかもしれない。
この時期のオランダはハプスブルグ朝スペインからの独立を目指す低地地方の諸州の連合体である。独立戦争の旗印として低地地方に領地を持つ最高位の貴族であるオラニエ公を――頼みこんで無理やり担ぎ上げるような形で――盟主と仰いではいるが、諸都市は商人たちの自治によって営まれている。
十七世紀のオランダ市民であるということは、商人であり役人であり軍人であることだったのかもしれない。国家自体が不可分の三位一体だったのだ。そんな土壌から生じたVOCは、敵対者からは《海の乞食たち》と揶揄されながらも、商人らしく営利を目的とし、外交と軍事をそのときどきの手段として、東インド全域に勢力を伸ばそうとしていた。