第一章 海峡の王 三
船団司令官が去ってしまうと気まずさだけが残った。
ボールスがいかにも忙しそうなそぶりで階段へ向かうと、他の水夫もそそくさと散っていった。船大工の助手が少し離れたところで用具箱の整理を始める。エヴァンスの傍にはジャックだけが残った。
少年水夫はエヴァンスが砲口から真黒な海綿を引き出す手許を無言で眺めていたが、ややあって小声で訊ねた。
「なあ砲手、あの話はみんな嘘か?」
「好きに考えろよ」
「あんたが昔スペイン船に乗っていたって、あの話も嘘なのか?」
「かもな」
「それじゃ、なんでジェネラル・セーリスはいきなりあんたをいびるようになったんだよ? ついこないだまであんなにお気に入りだったのにさ」
「知るかよ。単なる気紛れだろ」
「それにしちゃ極端すぎるだろ! みんな噂しているよ。次の航海士の座を狙っているデールの奴がご機嫌取りに密告したからだって。あいつがどれだけ嫌な奴かあんたは知らないだろうけど、あいつは気の毒なミスター・ポーリングの病室に向かって無駄飯喰らいは早いところくたばっちまえって呪ったそうなんだ! 信じられるか? あの親切なミスター・ポーリングを、だよ?」
ポーリングはクローヴ号の航海士の一人だ。バンタムを発ってすぐに肺を病んで寝込みがちになってしまったため、エヴァンスは正直どんな人物なのか知らなかったが、ジャックにとっては周知の常識なのだろう。憤りながら涙ぐむ少年の頭をエヴァンスはおざなりに撫でてやった。
「ミスター・ポーリングは陸に着きゃすぐ良くなるさ。新鮮な肉と野菜をたっぷり食えばな。ご機嫌取りの密告野郎が俺の何を密告したっていうんだよ」
「だから、あんたとボールスが昔スペイン船に乗っていたことだよ」
「あのなあジャック、船乗りの経歴なんぞ乗船名簿に書いてあるだろうが。奴が俺を嫌うようになったのはそういう愛国的な理由でだけはねえと思うぜ? そもそもあいつは好き好んでヘルナンドを雇っているじゃねえか」
バンタムで雇われたスペイン人通訳の名を出すと、少年水夫は今初めて気づいたような顔をした。エヴァンスはうんざりした。あいつが何故俺を嫌うようになったか? そんなことは誰より俺が知りたい。
そもそも初めにどうして気に入られたのか、そこからして全く分からないのだ。お気に入りの地位に甘えていたつもりはないが、分からないまま気に入られて分からないままお払い箱になるのが忌々しい。
なあジャック・セーリス。
あんた俺の何が気に食わねえんだよ?
何とはなしに視線を彷徨わせると、中部甲板の左舷に白い日傘が見えた。
セーリスだ。
腰をかがめ、ロングボートに腰かけた白いシャツの男に話しかけている。
捲った袖から覗く腕が骨ばって瘠せた男だ。白っぽい金髪を黒天鵞絨のリボンで束ねて膝にスケッチブックを広げている。
新入りの絵描きのジェームズ・フレミングだ。
復活祭の当日、クローヴ号が香辛料の買い入れのためにモルッカ諸島に停泊していたとき、威嚇に来たVOC船から泳いで逃げてきたオランダ人である。本人曰く、水兵として雇われたものの本当は絵描きで、船での仕事も実際には城砦の絵図を描くことだったのだという。それなのに平水兵と同じ扱いなのに耐えかねて脱走してきたのだとか。
ジェームズは今も左舷側の風景を描いていたようだった。鉛筆を指揮棒のように動かしながら何かを説明している。セーリスがしきりと頷いていた。
その光景から何故か目を離せずに見つめるうちに、五ヵ月前、初めてあの白い日傘を目にしたときの愕きが思い出された。