第五章 レビヤタン 四
互いに片言のポルトガル語で意思疎通を図ったところによると、先客の日本人たちは平戸の西隣の発音しづらい名前の島から来た水夫で、鯨の油を平戸の対岸に運んでこれから島へ帰るところなのだという。つまり手持ちの現金はあるのだ。トムソンが早速商談を始めた。
『なあ船長、あんたたち胡椒は要らないか?』
『幾らだ?』
『ポンドあたり三コンダリンでどうだ』
『ポンドはどれくらいだ』
『あ――』
トムソンが詰まる。エヴァンスはつい口を挟んだ。
『この樽が六十二ポンドだ』
『六十二』
相手方の頭領は数字の聞き取りは正確だった。樽を開け、麻袋入りの胡椒の粒を摘まみだして齧ってから頷くと、水夫たちを奥のテーブルに集めて日本語で会議を始めた。
――上物ばい。物ん値を知らん水夫どもや。
――抜け荷やろ。猫に何たらや。買うか?
――半値で樽ごと買うたらどうや。
――のう頭領、六十と二に三の半値で幾らになる?
――戯け、右から左にそうやすやすと算術がでくるもんか。七蔵、舟から算盤持ってこい。
頭領に命じられて若いのが駆け出していく。ほどなくして、一回り小さい子供が泡を食った顔で駆け込んできた。
――頭領、頭領、浜に南蛮人が来と―! 立派な身形のかぴたんや! 二人とも鉄砲ば持っとー!
――なに、七蔵は?
――浜で話しよー。俺は気付かれとらんけん報せにきた。
――弥吉、ようやった。皆戻るぞ! 姐しゃ、勘定や!
日本人たちが慌てて卓上の銀貨を集めに掛かる。そのとき、石畳を踏むブーツの踵の音に続いて、悪夢のような怒声が外から響いてきた。
「エヴァンス、トムソン、フランシスコ! お前たちがいるのは分かっている! 両手を上げて出てこい!」
「せ、船長?」
フランシスコが狼狽え切った声をあげる。年寄が腰の刀の柄に手を添えながらエヴァンスの右横に立った。
〈イギリス人、敵か?〉
〈いや、我々の船長だ〉
〈何故追われる?〉
〈胡椒を盗んだからだ〉
答えるなり老人が口許を引き攣らせ、おもむろに刃を抜いたかと思うとエヴァンスの首に突きつけた。
〈船長! 入ってこい! 泥棒を捕らえたぞ!〉
暖簾を分けて入ってきたのはフォスターだった。後ろに事務長のメルシャムもいる。
二人は一目で状況を察したのか、日本人の年寄にポルトガル語で礼を言ってから、三人の手首にロープをかけてくれるようにと頼んだ。年寄は快諾した。三人は数珠つなぎになってぞろぞろと浜まで曳かれていった。
「おいトムソン」と、エヴァンスは階段を降りながら小声で抗議した。「お前たち地獄へ落ちやがれ。結局あれは盗品だったんじゃねえか」
「会社の船荷からじゃねえ!」と、後ろからフランシスコが弁明する。「甲板長の船室から盗んだんだよ!」
「お前たち黙っていろ」
先頭を行くフォスターが不機嫌に唸った。「弁明なら船で司令官にしろ」
「司令官が船に来ているんですか?」
「出航まではこっちで過ごすそうだ」
フォスターが答えてため息をついた。「お前たちのせいで私はこれからコリンズを鞭打たなけりゃならないんだぞ。たかが二袋の胡椒の密輸のために、二年間仕えてくれた忠実な甲板長を!」
ロングボートで船へ戻ると半甲板にセーリスがいた。
傍に悄然と肩を落とした甲板長と、居たたまれなそうな顔をしたトッティに加えて、何故か絵描きのジェームズ・フレミングまで並んでいた。スケッチブックを手にして難しい顔をしている。
ボールスは他の水夫連中と一緒に中部甲板にいた。物見高い連中がローフパンを食いながらじろじろと視線を向けてくるなか、罪人たちはフォスターに引かれて半甲板へと登っていった。
「司令官、無断上陸者たちを全員捕縛しました」
「ご苦労キャプテン・フォスター。彼らは何処にいた?」
「ジョン・トッティの証言通り小島の酒場にいました。一緒にいたのはすべて日本人たちで、彼らが罪人だと知ると捕縛に協力してくれました」
「ではスペイン人は一人も?」
「神かけて一人も」
フォスターが力強く答えた。「ですから司令官、私の押収した手紙にあった《今日は司令官が来るからやめたほうがいい》というエヴァンスへの警告は、貴方の危惧なさるようなスペイン人と示し合わせての集団脱走の企ての証拠ではなく、単に酒場への無断上陸に関わるものだったのでしょう。そうなのだろうトッティ?」
「そうです船長、何度も話した通り、俺たちはただちょっと酒場に行こうとしていただけで、集団脱走なんて大それたことは断じて企てていません!」
「ジョン・トッティ、君にはまだ発言を許可していないよ」
セーリスが冷ややかに咎める。「私だって勿論、自分の船の乗組員は信じてやりたいよ。しかし、動かしがたい証拠が存在しているからね」
「証拠とは、集団脱走計画の?」
「いやフォスター、スペイン人との内通のほうさ。君がその連中を捕まえにいっている間に出てきたんだ。ジェームズ、君から説明してくれ」
「はい司令官」
絵描きが答えて、手にしていたスケッチブックを開いてフォスターに差し出した。
「見てください。ここの三ページが切り取られているでしょう?」
「ああ、確かに切り取られているな。何が描かれていたんだ?」
「タファソアとノファキア、それにタバロラです。マキアン島の三つの町です。すべての町にVOCの砦があります」
絵描きが答えるなりフォスターが瞠目した。セーリスが続けて説明する。
「そのスケッチブックは今日まで商館にあったんだ。キャプテン・アダムスにモルッカ諸島の情勢を説明するためにね。そして今日ジェームズに返したら、彼がそのページが無いことに気づいたんだ」
「そのスケッチは、どの程度正確なものなんだ? たとえば砦の砲の位置なんかは、きちんと描かれているのか?」
「私の技術の許す限り正確に描きこんでいます」
「スペイン人の砦のスケッチは?」
「すべて残っています」
「キャプテン・フォスター、モルッカ諸島のオランダ城砦の正確なスケッチを最も欲しているのは誰だと思う?」と、セーリスが口を挟んだ。「考える間でもない。スペイン人さ。だから私は考えたんだ。何者かがスケッチを盗んで、スペイン人の手に渡そうとしているとね」
セーリスがそこで言葉を切ってじっとエヴァンスを見た。鳶色の目が濡れたようにキラキラと輝いていた。エヴァンスが何とか反論の糸口はないかと頭を絞っていると、不意にトムソンが裏返った声をあげた。
「司令官、俺は見ましたよ!」
「ほうトムソン、何を見たんだ?」
「この砲手補が店の女に手紙を渡しているのを! あれは日本の手紙じゃない! 赤い封蝋が垂らしてありました!」
「おい黙れトムソン、あれは違う、あの手紙は――」
エヴァンスはそこまで口にしたところでぐっと詰まった。
あれが一体何なのかは知らない。
だが、マティンガは秘密にしていて欲しいと言った。
つまり、他人に知られると彼女が困る手紙なのだ。
「あの手紙は、何だい?」
セーリスが冷ややかな声で訊ねた。「答えろクリストファー・エヴァンス。その手紙は何だったんだ?」
「何でもねえ。預かっただけだよ」
「何処で、誰から預かったんだ?」
「通りすがりの日本人からだ。金を貰ったから引き受けた。誰かなんぞは知らねえ」
「それを信じろと?」
セーリスが呆れ果てたように言った。
見れば、周囲の誰もが強張った顔をしていた。メルシャムもトッティもジェームズ・フレミングもだ。中部甲板に目をやると、ボールスが一杯に目を見開き、薄く口まで空けたままこちらを見あげていた。
どうやら皆信じていないらしい。
「――キャプテン・フォスター」
セーリスが重々しく呼んだ。
「事は重大だ。諸々の嫌疑が晴れるまで――あるいは明確になるまで、クリストファー・エヴァンスに鎖をかけてメーンマストに繫いでおき給え。一日一度水を与えろ。情報を隠匿したまま死なれると困るからな」
「はい司令官。今すぐに」
フォスターが恭しく答えた。エヴァンスはいきなり心臓を太い銛で突かれたような気がした。
船長も疑っているのだ。