第四章 皇帝の寵臣 七
腰巾着ともはエヴァンスの手にきつくロープをかけて商館まで引きずっていった。
大通りに面した門前で、ランタンを手にしたエド・セーリスが待受けていた。
「司令官! 心配しましたよ、チャイナ・キャプテンが先に戻ってきてしまうから! 二人しか従者を連れて行かないなんてあまりに不用心です。どうかもっと御身分を弁えてください!」
「ああエド、夜なんだからそんなに騒ぎ立てないでくれよ! 逃亡者はこの通り捕まえたよ。君は母屋に戻って、キャプテン・コックスに問題は解決したと伝えてくれ。私は倉庫でこのならず者を尋問する。デールは一緒に来い。フェール、君は足枷を持ってきてくれ」
「はい司令官」
三人の声が揃った。
倉庫は川岸にあった。
すぐ左がボート乗り場になっている。セーリスが重たげな鉄の鍵で錠前を開け、厚そうな樫の扉を押す。デールがカンテラを差し入れて内部を確かめている間にフェールが足枷を持ってきた。
「入れ砲手補。尋問の時間だ」
倉庫の内は土臭かった。潮水に濡れた木材の臭いもする。セーリスが手近の樽を引き寄せて腰かけた。
「デール、フェール、そいつに足枷をかけろ。済んだら外に出て見張りをしていてくれ。尋問の間は誰も近づけるな。キャプテン・コックスも、だ」
「はい司令官」
ギイ、と軋んだ音を立てて扉が閉まると、床に置かれたランタンの光が丸くなった。セーリスが足を組み、床に尻をついて両膝を立てた姿勢のエヴァンスを見おろしながら口を切った。
「さて砲手補君。聞こうじゃないか、君の知る私の隠しごととやらを」
「何、大したことじゃねえさ」
エヴァンスは端から切り札を使うことにした。
「テルナテ島でさ、あんたは乾杯したんだろ? 人払いをした大船室で、ドン・ヘロニモ・デ・シルヴァの使者たちと」
「何だ、何を言い出すかと思えば」
セーリスが心底あきれ果てたような声を出した。
「いいかい砲手補君、イギリス人とスペイン人は伝統的に不仲だが、今のところ別段戦争中って訳じゃない。テルナテ島の軍司令官はマニラの総督ドン・フアン・デ・シルヴァの縁戚だという話だ。そういう高貴の人物が寄越した使者を歓待したことは、私の経歴において何ら汚点にはならない」
「だろうな。当然ならねえよな」
エヴァンスは一端頷いてから、上目遣いに相手を見あげて笑った。
「ならあんた、どうして人払いしたんだ?」
「人払い? 私はそんなことは」
「いや、したね。俺は覚えているぜ。あのとき船室の扉を守っていたのは俺だったからな。
俺はあんたがスペイン人を警戒しているんだと思っていた。でも違ったんだ。逆だった。あんたが警戒していたのは仲間内のほうだ。あんたはこう命じたんだ。いいかいエヴァンス、歓待の間は誰も近づけるな。たとえキャプテン・コックスであってもねって。あんたはあの使者たちとの話を商人頭に隠しておきたかった。違うか?」
「それは――」
セーリスが口籠る。エヴァンスは切り札を叩きつけた。
「ノッサ・レイナ・イザベラ。あんたたちは彼女のために乾杯したんだろう? イギリスのエリザベス王女のために、未来のスペイン王妃のために。そのことを隠しておきたかったんだ。ニュースってのは独り占めしておいたほうが大抵高くなるからなあ。だが残念だったな。俺は今日聞いちまったよ。商人頭に話すのは簡単だ。そこにいるんだからな」
セーリスはまじまじと目を見開いていた。床に置かれたランタンの燈が下からその顔を照らしていた。蒼ざめた象牙色の貌だった。その顔に浮かぶ怯えの色にエヴァンスは何とも言えない愉悦を覚えた。
「なあ司令官、あんたさ、俺にそのことを黙っていて欲しかったなら、ただ命令すりゃよかったんだよ。顎を蹴ったり威しつけたりしなくたってさ、黙っていろと命令すればよかったんだよ」
「従ったのか? 命令すれば」
セーリスが呆気にとられたように訊ねた。エヴァンスは苦笑した。
「当たり前だろう。あんたは司令官なんだから」
「そうか」
セーリスは瞬きを繰り返しながら応え、真直ぐにエヴァンスの顔を見つめて云った。
「なら命じる。クリストファー・エヴァンス。お前が今夜知ったことは誰にも黙っていろ」
「ああ司令官。黙っているよ」
答えるなりセーリスが安堵するのが分かった。エヴァンスは深い満足感を覚えた。両手両足を縛られているのに、何故か自分が相手を縛り付けている気がした。
「そういえばさ、あんた、テルナテで番をした俺に砂糖漬けの杏子を一粒くれたよな。あれは旨かった」
エヴァンスは心底から言った。白砂糖をたっぷりまぶした干し杏子は舌が痺れるほど甘かった。思い出しながら舌なめずりをすると、セーリスがびくりと怯むのが分かった。エヴァンスは獲物を見つけた捕食者の顔で笑った。
「なあ司令官、今度は何をくれるんだ?」
セーリスは巾着から五メースくれた。
足枷を外されて外へ出ると、フェールがおずおずと訊ねた。
「あのう司令官、その男は放していいので?」
「ああ、尋問の結果疑いが張れたからね。エヴァンス、すまなかったね。君は今日はこっちに泊まって、明日の朝出すスキフで船に帰るといい。フェール、足枷を片付けてこい。デール、君はエヴァンスを寝場所へ案内してやれ」
「はい司令官、しかし、雑用の水夫部屋はもういっぱいなんですが」
「水夫小屋じゃない。書記棟のほうだ。彼は雑用係じゃないんだ。私のためにスキフを改造してくれた勇敢な艇長さ」
告げられるなりデールは表情を一転させ、百年来の親友みたいに親しげに肩を抱きながら、エヴァンスを厨房の傍の板小屋へと案内した。
「ミスター・イートン、失礼しますよ。司令官の命令なんで、今夜は此処にもう一人泊まらせてください」
「はいはいどうぞ、入ってくれよ。ヘルナンドは相変わらず何処かを自由に放浪しているから、この小屋は広々したもんだよ」
甲板のような板の間に蝋燭が燈っていた。ウィル・イートンが奥の壁際で、衣装櫃を机代わりにして羽根ペンを動かしている。左手に藁が積み上げられて、広げた白い敷布の上でジョン・ジャパンが眠っていた。
「ジョン・ジャパンは触っても起きないから大丈夫だよ。ちょっと詰めれば寝られる。俺のことは気にしないでいいよ。この勘定が終わるまで――」と、イートンがそこで初めてエアンスに顔を向け、一瞬目を見張ってから、人懐っこい笑顔を浮かべた。
「なんだエヴァンスか! 久しぶりだね。今日はコックスの旦那に呼ばれてきたの?」
「いや、司令官のほうだ」
「へえ」
イートンは一瞬だけ興味深そうな顔をしたが、またすぐに衣装櫃に向き直った。
「忙しそうだな!」
「忙しいよ」イートンは羽根ペンを動かしながら答えた。「明るくて寝付けなかったら悪いね」
「気にならねえよ」
日本人通訳を壁際に押して寝場所を拵えながら、エヴァンスはふと気になって訊ねた。
「その帳簿は何なんだ?」
「え?」
「いや、セント・ジョンズ・デーはもう過ぎたし、ミクルマスにはまだ少し間があるだろう? 決算日の前でもねえのに、何でそんなに忙しいんだ?」
訊ねるとイートンはちょっとばかり目を見張って、急に喋り出した動物を観察するような眼つきでエヴァンスを眺めていたが、ややあってまたペンを動かしながら答えた。
「司令官がキャプテン・アダムスに贈ったプレゼントの総額さ。気の毒に、どうしても仲良くなりたいらしくて、会社の経費からも自分の巾着からも雨あられとプレゼントを降らせているのに、キャプテンはお返しに小さい陶器の軟膏入れを一つくれただけなんだ。六シリングくらいのね」
「へえ」エヴァンスは慎重に訊ねた。「水夫としちゃ大金だが、キャプテン同士の贈物ではないな」