第一章 海峡の王 二
亜麻色の髪を短く刈った二十四、五の男である。
立てた膝の間に身長よりもやや短いファウラー砲の砲身を挟んで、砲口から掃除用の棒を突っ込んでいる。
尖った顎と高い頬骨、鋭い青灰色の眼をした小型の猛禽のような美貌だ。
煤に汚れた帆布のシャツに色の褪めたインディゴ染めの平木綿の詰め物無しのブリーチズ、色褪せた赤い木綿のサッシュを巻いて、使い込まれた角製の火薬入れと茶の革の巾着、革の鞘に収めたナイフを吊るしている。すぐ傍に赤茶の巻き毛の少年水夫が坐り込んで、膝に乗せた黒猫を撫でながら作業を見物している。
男は棒を動かしながら半甲板を睨みつけていたが、船団司令官が船尾楼へ引っ込むなり、舌打ちをして吐き捨てた。
「くたばれジャック・セーリス」
途端、少年水夫が顔を顰めた。
「砲手、その罵りは止してくれって。ジェネラル・セーリスに聞かれたら俺まで足枷を掛けられちまうよ」
男の名はクリストファー・エヴァンス。
五ヵ月前にバンタムでヘクター号から乗り移ってきた砲手――ではなく、正確には砲手補である。
《ジャック・セーリス》というのはエヴァンスが一昨日発明した船団司令官への罵倒だ。
ジャックはジョンのごく一般的な愛称である。
クローヴ号の船上に限って《ジャック・セーリス》が罵倒として成立するのは、目の前の少年水夫ジャックの本名も偶然ジョン・セーリスであるためだ。はしっこくてよく気の利く少年なのに、不運な同姓同名のために機嫌を損ねた船団司令官にいつ虐められるかと怖れ戦いている。エヴァンスは鼻で嗤ってやった。
「気にするなってジャック。俺の火薬入れを賭けてもいいが、奴はお前の名前なんぞ知ってすらいないと思うぞ。出資金をたんまり払って地位を買っただけの羽根飾りの司令官じゃねえか」
「でもジェネラル・セーリスは九年前の会社の第二次航海の頃から船に乗り組んでいたって」
「商人としてだろ。九年前から船に乗っていねえ船乗りなんぞ探す方が難しいよ。俺がお前の年頃にはキャプテン・キャヴェンディッシュの船に乗っていたんだからな」
「キャプテン・キャヴェンディッシュって、あの世界周航をした?」
少年水夫が上ずった声で訊ねたとき、甲板下の左舷から爆音があがったかと思うと船体が微かに震えた。ジャックの膝の上で黒猫が跳ね上がり、ぶわっと毛を膨らませてマストへ登っていく。
「おいイモージェン、大丈夫だって! お前船乗り猫だろ、いい加減慣れろよ、オランダ船やスペイン船の襲撃なんかじゃない、うちの船のカルヴァリン砲だよ!」
少年水夫が嬉しそうに猫を見あげて教える。
重量二トンのカルヴァリン砲は船に搭載できる中で二番目に大きい銃火器だ。重量としては最大の半カノン砲より射程が長く、命中させれば一撃で敵船のメーンマストを打ち倒すこともできる。比べてこのファウラー砲といえば、スキフボートの舳先に二つ並べて据え付けられるほど小さいとはいえ、小回りが利いて本当に役に立つ。でかければいいってものではないのだ。スペインの無敵艦隊はイギリスの小舟の群れに敗れた。ところでそろそろこの砲の旋回台は直っただろうか?
船首右舷の舷縁に目をやると、船大工の助手のジョン・トッティがシャツの腕をまくり上げてねじ回しを使っているのが見えた。茶色い髪に茶色い目、中肉中背のトッティはとにかく目立たない。うっかりすると存在していることさえ忘れてしまいそうだが、台の修理を頼んだのはエヴァンス自身である。見物しないのは不人情かもしれない。エヴァンスはしばらく心がけて見物してみたものの、すぐに厭き、また砲を磨きながら少年に話しかけた。
「なあジャック、キャプテン・キャヴェンディッシュの船には半カノンが十八門も積んであったんだぜ? 俺はカディスの戦いでそいつを七発連射した」
「七発? 本当に?」
ジャックがさすがに疑わしそうな顔をする。と、二、三人の腰巾着を連れて階段を登ってきた白いキャラコ製シャツの大柄な男が口を挟んだ。
「おい坊主、クリスの野郎の与太話は一言たりとも信じちゃいけないぞ?」
「何だよジョニー、決闘の申し込みか?」
白キャラコ男は舵手のジョン・ボールスという。
何かの脂で光らせた金褐色の巻き毛を鬣みたいに広げた屈強な洒落男だ。サッシュは鮮やかな緑の絹でブリーチズは上等の黒羅紗。裾にも袖にもたっぷりとフリルをあしらったシャツの前を合わせられずに逞しい胸から臍の上までを露わにしているところを見ると、気の毒な小柄な誰かからまたぞろ博打で巻き上げたのだろう。
賭博狂いの洒落者は厚く指の長い掌で骰子を投げては受け止めながらエヴァンスの傍らに腰を下ろした。
「そうカリカリするなって。記憶違いを正してやるだけだ。お前が七発撃ったのはブラジルのサルヴァドール港だろ? 俺はそのとき艀を出して陸から追加の火薬を運んだんだ」
「待ってくれボールス、それじゃあんたもキャプテン・キャヴェンディッシュの船に乗り組んでいたってことか?」
ジャックが息せき切って訊ねる。ボールスが重々しく頷いた。「当然だろう。知っての通り、俺とクリスは餓鬼の頃一緒にスペイン船に乗り組んでいた仲だからな」
「その話聞いているぜ」
腰巾着の一人が口を挟む。「あんたと砲手が初めて乗った船が、西インドでスペインの海賊船に拿捕されたんだろ?」
「海賊船じゃなく私掠船だ」
「違うのか?」
「大いに違う」エヴァンスが口を挟む。「海賊船は好き勝手に何でも襲うだろ? そんなのは単なる悪党だが、俺たちを捕まえた私掠船はメキシコの新スペイン(ヌエヴァ・エスパーニャ)副王からきちんと許可を得ていて、副王の味方の船には断じて手を出さなかったのさ」
「忠誠心って奴か。紳士たち(ジェントルマンズ)だったんだな」
「そうだ。紳士たちだったんだ」ボールスが力強く頷く。「俺とクリスも一度は船倉に繋がれちまったが、英語を話せる立派な紳士が特別に助けてくれたのさ。俺たちはそれからしばらくその私掠船に乗っていたんだ」
「それで、あんたたち、まさか一緒にイギリス船を略奪したのか?」
「まさかそんなことはしないよ! いいかお前ら、西インドでのスペイン船の獲物はイギリス船だけじゃないんだ。オランダ船だっているしフランス船だっている。何処の国の船でも襲う正真正銘のならず者どもだっている。どんなに野蛮な連中がいたか、行ったことのない奴には到底想像できないだろうな――」
ボールスが思わせぶりに嘯くと、ジャックが息を詰めて拳を握りしめた。
さあここからが法螺話の真骨頂だ。船首楼甲板中の水夫が聞き耳を立てている。ボールスがいよいよ口を切ろうとしたとき、階段を登る足音が聞こえた。
踵のついた長靴の音だ。
皆が一斉に見る。
現れたのは白い日傘だった。
蔓草紋様の地紋の浮かぶ純白のダマスク地に太い黄金色の縁取り。
縁からは厚手のクリーム色の絹でたっぷりとフリルが垂れている。クローヴ号の船員なら誰でも知っているセーリス専用の日傘だ。赤い絹服のフランシスコが得意満面で柄を握っている。傘の下にいるのは勿論セーリス本体だ。ボールスが慌てて骰子を股袋に隠す。ジャックは凍りついている。船団司令官は鷹揚そうに笑って一同を眺めまわした。
「やあ、邪魔をしてすまないね。なんだか楽しそうじゃないか! なあフェール、皆で何を話していたんだい?」
司令官が名指しで話しかけたのはボールスの腰巾着だった。タール塗の帆布のスモックを着て胸に魔除けの木切れかなんかをぶら下げた、同じ左舷当直の水夫連中のあいだでさえ《ボールスの腰巾着》としか認識されていない平だ。一同が愕きの眼を向けるなか、フェールが目をぱちくりさせた。
「あのう司令官、俺がフェールでごぜえますが」
「勿論だともフェール。この船にフェールは君しかいないだろ? 私は私の乗組員の顔と名前はちゃんと覚えているのさ。で、何を話していたんだい?」
「は、はい司令官、そこの砲手補」と、フェールがエヴァンスを顎で示した。「あいつが昔キャプテン・キャヴェン何とやらの船に乗っていたとか、何かそういう話を」
「ほうデザイアー号に。それはすごいな! あの船には確か日本人の乗組員が二人もいたって話だったね」
セーリスは心底感心したように言ってから、ふと顎に手を当てて首を傾げた「いや、しかし妙だな。私の記憶が正しければ、デザイアー号が最後の航海に出たのは無敵艦隊の戦いの三年後、つまり今から二十三年前だった気がするのだが。君はそのとき一体幾つだったんだい?」
船団司令官が悪気なさそうに訊ねるとその場が静まり返った。セーリスはまた鷹揚そうに笑って頷いてみせた。「まあね。誰にも記憶違いはあるさ。私が君の年頃には何をしていたかなあ――ああそうだ、バンタムで商館長を務めあげてロンドンに帰る頃だったかな」
セーリスは愛想よく笑いながら話した。鳶色の目が鼠をいたぶる猫のようにキラキラと輝いている。
エヴァンスは腹のなかだけで罵った。
くたばれジャック・セーリス。