第四章 皇帝の寵臣 四
「何だなんだ、えらく早いな」
「あの牛の塊をこの時間で平らげたのか?」
水夫たちがどやどやと船尾楼甲板へ登ると、大船室にあるはずの長テーブルが白日の下に引き出されて、清潔そうな真白なクロスをかけられていた。司厨長と事務長が血走った表情でその上に御馳走を並べている。
薔薇色の断面を晒したローストビーフや、瑞々しそうな真赤な西瓜や、ガラスの皿に小高く盛った干しブドウや砂糖漬けの杏子。
エヴァンスは口の中に涎が湧きあがるのを感じた。
「ミスター・メルシャム、何がどうしたんだ?」
ジャスパー親方が訝しげに訊ねると、事務長は眉を吊り上げて叫んだ。
「見れば分かることをいちいち聞かないでくれよ! 正餐が外になったんだ! 君たち早く配置についてくれ! ジェームズは? あの怠惰なオランダ人は何処で昼寝をしているんだ!」
ぼさぼさ髪のジェームズ・フレミングがヴィオラを抱えて駆けつけるとすぐ、近衛兵よろしく小銃を肩にした掌砲長の先導で客人たちが登ってきた。セーリスに促されてアダムスが着席するのと同時に音楽が始まる。短い前奏の後で、水夫たちが唄いながらダンスを始めた。
俺たちゃ憐れな三人水夫
さっき海から来たばかり
俺たちゃ危なく生きるなか
他の奴らは安楽さ
さあ環になって踊ろうぜ
環になってさあ環になって
いじわる坊主がそこへ来て
船め沈んじまえと誓う
「水夫の踊りは実にいいね」
セーリスがワインを銀鍍金のゴブレットに注がせながらため息をついた。
「明るくって単純で、自然状態の幸せな人間という気がするよ」
「連中もいつも踊っている訳じゃないんだぜ。たまには甲板を磨いたりとかさ」アダムスが小声で呟いた。
今日は五発の礼砲と共に客人がようやく帰ってくれると後片付けが始まった。砲手組はこの頃使いっぱなしだった砲の内側の煤払いで全身真黒になった。
エヴァンスがまた水を浴びに向かうと、スキフを漕いでいたらしいボールスが帰ってきたところだった。エヴァンスはすれ違いざま囁いた。「おいジョニー、夜に船首楼甲板だ」
「おう。ロープ要るか?」
「頼む」
陽が落ちてからしばらくして船首楼甲板へ向かうとフォアマストの手前に大きな人影があった。波止場に点る疎らな燈のおかげで完全な暗闇ではないものの、影の中に立たれると誰だか分からない。エヴァンスは念のために訊ねた。
「ジョニーか? お前も便所か?」
「おう」
ボールスが答えて月明かりの中へ踏み出す。そして間髪入れずに云った。
「なあクリス、今日のところはお前は留守番しておけよ」
「いきなり何を言っていやがる」
「お前も気づいているとは思うが、ヘルナンドの奴が船に残って見回りをしているみたいたからな。ロープをずっとぶら下げて置いたら見つかっちまうよ。どちらかが残って片付けなけりゃ」
「コインで決めりゃいいだろ」
「いや、今日は俺に行かせてくれよ」ボールスが熱をこめて言った。「お前は司令官に目をつけられているだろう? 今度見つかったらただじゃすまない。それに今は丸腰だしな」
「だからお前が行くってか? リトル・ジョニー、そいつは呑めねえな」エヴァンスは相手の顔を下から見上げながら凄んだ。「危ねえのは同じだ。お前だって俺に比べて野郎のお気に入りってほどでもねえだろ? ――お前がどうしてもあの人に会いてえように、俺だって会いてえんだよ」
答えるとボールスが妙な顔をした。
「クリス、お前、そんなにあの人に会いたいのか?」
「お前は会いたくねえのか?」
「会いたいよ。会いたいけどさ、生き別れの親父って訳でもないし、そこまで無理して会いたいほどではないよ」
「生き別れの親父か!」エヴァンスは思わず嗤った。「なあジョニー、お前はさ、たしか子供のころ学校に通っていたんだろう?」
「親父が破産するまではな」
「破産するまでは学校に通わせてくれたんなら、いい親父さんじゃねえか。俺の親父はろくでなしでな、子供の俺の稼ぎを皆飲んじまっていたんだ」
「しかし、あれだろ、お前の親父さんってのは、キャプテン・キャヴェンディッシュの船で世界周航したんだろう?」
「平水夫としてな。あいつはそれだけをたったひとつの自慢にして、あとはずっと酒を飲んで暮らしているんだ。いつも他人の金でな!」
「それは、たしかにろくでなしだな」
「だろう? 奴はろくでもないんだ。だからさ、俺は初めてだったんだよ。あんな立派な大人の男が、何の損得勘定もなしに親切にしてくれたのは」
「なるほどなあ」
ボールスがしみじみと相槌を打った。「俺がお前に行って欲しくないのはお前が危ないからだが、お前があの人を本当の親父さんみたいに好きだっていうなら仕方ない。コインだ。コインで決めるぞ。俺が投げるからお前が決めろ」
「おう、なら裏だ」
コインを投げると裏が出た。ボールスが溜息をつく。
「仕方ないな。さっさと行って帰ってこいよ。マチルダとのんびりしているんじゃないぞ」
「嫉妬深い古女房みてえな台詞を吐くなよ」
エヴァンスは失笑してから、ふと思いついて詫びた。
「悪いな」
「気にするなって」ボールスが銅貨を股袋にしまいながら笑った。「俺だって勿論あの人には会いたいが、命の恩人は他にもいるからな」