第一章 海峡の王 一
慶長十八年五月四日――
ユリウス暦なら一六一三年六月十一日の正午過ぎである。
九州本土と平戸島の間の小さな海峡、その名も平戸瀬戸を一隻の帆船が北へと航行していた。
船尾を高くしつらえた三本マストのガレオン船である。船体は黒く帆は白い。船首から突き出すバウスプリットも含めてすべてのマストの頂に翻る旗は白地に赤の十字。イギリス国旗たるセント・ジョージアン・クロスだ。
黒と白と赤。
ペールブルーの空と青金石色の海の狭間を進む孤帆の色彩は鮮やかだった。東岸の田平や西岸の川内浦からもしその旗を見とめる者がいたら、
――おう黒船ばい、赤い十字架や。神父様が乗っておいでかのう。
と、期待と怯えの入り混じった声を漏らしただろう。
黒船――すなわち西洋式帆船である。
同じ年の六月二十九日付の『セーリス日本渡航記』に
〔*イギリス人は〕ポルトガルのイエズス会徒のために、海賊で海上の漂泊者としてひどく誹謗されたので、日本人は、イギリス人がスペインの船を奪うことを歌った、イギリス・クロフォニアという歌をもっていて、それを歌いながら腰に帯びる刀を持って、身振りをして踊る。
という記述があるように、防水のために船体にも帆綱にも真黒くタールを塗った西洋式帆船は、一六一三年の時点ですでにそう呼ばれていたらしい。
とはいえ、この日の黒船は、二四〇年後の浦賀に出現して日本人を泰平の眠りから醒ましたあの巨大な《黒船》――乗員三〇〇名、載貨重量トン数二四五〇の蒸気フリゲートのような軍艦からは程遠かった。乗員七〇名、載貨重量トン数はおそらく二〇〇程度。地元の漁船に比べれば大きいことは大きいものの、中国型のジャンクにも東西折衷型の日本の朱印船にもざらにあるサイズだ。慶長十八年のこの初夏、世界はまだ西ヨーロッパの専有物ではなく、彼らの船はままある外洋船の一種に過ぎなかったのだ。ただ一点の特徴を除いて――……
※
さて、この慶長十八年の黒船はクローヴ号といった。
EIC、すなわちイギリス東インド会社(East India Company)が出資を募った第八回目の航海として、一六一一年の四月にイギリスのダウンズ錨地を発ってきた武装商船である。ちなみに神父は乗っていない。神父とはカトリック聖職者に対する呼称であって、イギリスはプロテスタント国である。
クローヴ号はヘクター号とトマス号という二隻の僚船と船団を組んで出航した。そして、会社がすでに商館を構えるジャワ島のバンタム港に着いたところで、充分に胡椒を仕入れた僚船二隻が先に西へ帰り、旗艦のクローヴ号だけが、船団司令官ジョン・セーリスの指揮下、単独で東を目指してきたのだった。
南東季節風のシーズンである。船は悠然と海峡を北へ向かっていたが、午後直の六点鐘の鳴る午後三時ごろ、不意に船足が滞ってしまった。
潮目が変わったのだ。
船団司令官は投錨を命じ、船尾楼の手前にバルコニーのように張り出す半甲板に商人たちを集めて意見を聞いた。その後で、前の日から水先案内人として乗り組ませている土地の漁民二人を呼んでこさせた。
〈ここから港まではどれくらいかかる?〉
この簡潔な質問が伝わるには手間がかかった。まずセーリスがスペイン語で訊ねると、バンタムで雇ったスペイン人通訳がたどたどしい日本語に訳し、それでも伝わらないとなると、今度はまたセーリスが――かなりたどたどしい――マレー語で、これもバンタムで雇った日本人通訳に訊ねさせるのだ。半甲板上で行われる高尚そうなやり取りを、船と同じく防水加工にタールを塗った帆布製の半ズボンやらスモックやらを着た水夫連中が帆綱を引きながら眩しそうに仰いでいた。
「ジェネラル・セーリスは何語で話しているのかね?」
「スペイン語とマレー語らしいぞ」
「モルッカでもあの人が原住民どもとじかに話してこっそり丁子を買っちまったんだと」
「《海の乞食ども》のボートを追い払うときも指揮を執っていたよな」
「そうさ。でぶでぶ肥った商人どもが船室で震えているときに、あの人だけが船尾楼甲板に登って、原住民に刀を向けられながら国王万歳って叫んだんだ」
「大したもんだ! まさに本物の紳士だな!」
中部甲板から見あげる半甲板はミズンマストを背にした方形のステージだ。太陽は檣楼の斜め右、南風に索具がハタハタと鳴る。主演俳優たるセーリスは燃える焔のような赤色に染めた羽根飾りつきの帽子を被り、ゆったりと仕立てた緋色の胴衣に白い半ズボン(ブリーチズ)を合わせて、華やかに広がるレース付きの白い襟の上に鳶色の巻き毛を広げている。右には白いバフタ織のシャツを着て幅広のクラバットを巻いたスペイン人通訳、左には同じ身形の日本人通訳。向き合うのは裸に白い帯で股だけを隠した原住民どもだ。最後の仕上げのように、まるでインドの王様みたいな赤い絹の長いガウンを纏って房飾り付きの緑のターバンを巻いた黒人水夫のフランシスコが、白ダマスク地に金の縁のある豪華な日傘を差しかけている。
日傘のおかげか日々の手入れのおかげか船上なのに艶やかな巻き毛とクリーム色の膚を保った船団司令官はまさしく一個の蠱惑の貴公子だった。キラキラと輝く鳶色の目と笑いを含んだ薔薇色の口許。どんな苦難を前にしても愉快な大冒険だと笑い飛ばしてしまいそうな永遠の少年の魅力だ。
水夫たちが惚れ惚れと仰ぐ先で、通訳を介して伝えられた答えは「そう遠くない」というものだった。司令官は持ち前の思い切りの良さを発揮してせいぜい半リーグ程度だろうと見当をつけ、観衆の視線を意識しながら中部甲板を見回した。
「マークス! エドワード・マークス! 私の掌砲長はいるかい!」
「はい司令官、ここに!」
掌砲長はすでに中部甲板の昇降口の傍で待機していた。空のように碧い目をした体格のいい長身の男だ。髪を短く刈り、火薬の汚れが目立たない黒い絹のスカーフで頭部を覆って、逞しい上半身を黒いシャツに包んでいる。船団司令官は満面の笑みを浮かべた。
「ああマークス、君はいつだっているべきところにいるね! では我が掌砲長、礼砲だ! 砲列甲板から一発、一番大きいのを頼むよ!」
「はい司令官!」
砲手長が嬉々と答えて昇降口の蓋をあげる。黒いスカーフ頭が甲板下へと消える様を、船首楼甲板から一人の男がつまらなそうに見おろしていた。




