第二章 忠臣 三
ようやく平戸につきました
甲板長の采配で引き綱が両舷に括りつけられると、小舟の群れは手際よく二手に分かれ、明るく間延びした舟唄を唱和しながらオールを使い始めた。
五島沖から漕ぎ出す船は
平戸通いか懐かしや
エンヤラヤーノーヤー
エンヤラヤーノー
エンヤラヤーノー
エンヤラホイノーサー
満ち潮と曳き舟のおかげで船は快調に進んだ。
《傭兵隊長》が船首楼甲板から曳き舟を睥睨する傍らで従者がちらちらとファウラー砲に目を向けてくる。中部甲板はまだ魚市場のままだ。司厨長と賄い方が魚を裁いては樽に放り込む傍ら、カーワディーンとイートンがロングボートの縁に並んで腰かけて帳簿付に精を出している。
行く手に見えるのは緑豊かな小島だ。子猫の爪痕ほどのちっぽけな砂浜の奥に一対の椰子の木が生えて、間から石段が始まっているようだ。
石段の上にある朱色の門が見えるほど小島へ近づいたところで、曳き舟の先頭からあの少年の号令が響いた。
――漕ぎ方やめぇ――取り舵!――
――取り舵!――
小舟の群れが復唱して一斉に左へ旋回する。クローヴ号の舳先も左へ回る。
九十度回ると目の前に港が現れた。
小さいながらも小さいながらも小綺麗でよく人手の入った港だ。
全体の形は爪先を左に向けた短いブーツといったところか。北にあたる右手に長細い岬が伸びて、突端近くに並んだ白壁の倉庫の上に、例のVOCの三色旗が翻っている。左手には河口があって、すぐ川上に繊細な橋脚を連ねたアーチ状の木橋が架かっていた。
――好候――平戸やぁあ――!
「イェーイ平戸――このまま直進だ――!」
曳舟からも船上からも殆ど同じ歓声があがる。
商人たちが次々と半甲板へ出てきた。
船長のジェームズ・フォスターも望遠鏡を手にして船首楼甲板まで登ってくる。
フォスターは生涯の三分の二を船上で過ごす本物の船乗りに相応しい古びた羊皮紙のような膚をした男だ。髪も髭も銀色で、耳には金の環を下げ、痩せてはいるが骨太のがっしりとした体躯を清潔な白木綿のシャツで包んでいる。
年月によって品格を与えられた一流の親方職人といった風情の船長の姿に気づくと、水夫たちが作業の手を止めないまま挨拶をした。フォスターは一人一人の名を呼んで挨拶を返しながら舷縁へ寄り、手早く陽の位置を確かめてから港へ望遠鏡を向けた。
「VOC商館はさすがに砲を備えているな。見たところ我々以上の大型船はない……」
独り言のように呟きながら港を観察している。エヴァンスもつられて眺めた。
港内にはかなりの数の船が停泊していたが、殆どは一本マストに一枚甲板の小型の帆船だ。草を編んだ板のような帆を立てている船もあれば、白い布の帆の船もある。形がかなりクローヴ号のスキフボートと似ていた。あんな船が土地で借りられるなら、組み立て式のスキフをわざわざ運んでくる必要も無かったかもしれない。
「おや、随分綺麗なソマ船があるじゃないか!」
フォスターが河口のほうに望遠鏡を向けながら嬉しそうに呟く。「彼女は本物の別嬪さんだなあ。なあ君、どう思うあのソマを?」
いきなり話題を振られてエヴァンスはぎょっとした。
ソマは小型のジャンクだ。河口の手前に停泊しているのは、船腹を黒と白とで塗り分けて船首側の両舷に目玉の模様を描いた典型的なジャンクの様式だった。どこにも奇を衒ったところはないが、朱塗りの手すりがピカピカ輝くようだし、マストはどれもすっきりと直立している。
「貴婦人みたいな船ですね。大事にされていそうだ」
「ああ、もしこの港の船なら、きっと有力な中国人が住んでいるのだろうな。向こうに並んでいるのは例の王家のガレーか――お? 南の岬の頂にも市内みたいなところがあるのか」
見れば河口の南側は小高く盛り上がる丘のような岬で、頂に石垣が廻らされ、白壁の上から屋根や櫓が突き出しているのだった。
親指ほどの大きさに見える黒い櫓の上に赤い吹き流しが見えた。老王のガレーに立てられていたあの赤い旗のようだ。二人してじっと目を向けていると、いつのまに近づいてきたのか、《傭兵隊長》がすぐ後ろに立って視線を向けていた。フォスターが向き直って簡単なポルトガル語で訊ねた。
『ウナジェンセ・ドナ、あれが王の館か?』
ウナジェンセ・ドナとは《傭兵隊長》の複雑な呼び名をイギリス人がどうにか聞きとろうとした結果である。辛うじて残る子音から己が名と察した宇野内膳正どの(ウナジェンセ・ドナ)は不本意そうに首を横に振った。
『否。城砦』
『城砦?』
フォスターが怪訝そうに繰り返し、小声でエヴァンスに訊ねた。
「なあ、あの城砦とやら、何処かに砲が見えるか?」
「いや、此処からは全く見えませんね。何故あんなもってこいの場所に砲を備えないんですかね?」
「ああ、あの高さにカルヴァリン砲を据えれば港内は勿論、その気になれば北岸のVOCの商館だって真上から砲撃できるだろうに」
「死角があるのでしょうか?」
「可能性はあるな」
フォスターが呟いて望遠鏡を向けようとしたとき、ウナジェンセ・ドナが奇声をあげて刀を抜き放った。
――控えおれこン夷狄めが! 平戸松浦は六万余石が大殿、松浦法印鎮信様ンご居城なるぞ!
「ウナジェンセ・ドナ!?」
――内膳様!?
幾つかの叫びが重なる。
中部甲板で樽に魚を詰めていた司厨長が顔を向けた。状況を見てとるなり顔色を変え、包丁を手にしたまま階段へ向かってくる。
フォスターが後ずさりしながら叫んだ。
「ヘッドやめろ! 彼は王の臣下だ! エヴァンス、お前も撃つなよ! 誰か通訳を呼んでこい!」
ヘッドが階段を登り始めた。船首楼甲板の昇降口を見れば、すでに従者が上に立って刀を抜き放ち、切っ先を階段の方へと向けていた。中部甲板のイートンが船尾楼へと駆けだしていくのが見えた。あいつがじき通訳を呼んでくる筈だ。それまで時間を稼ぐ必要がある。エヴァンスは小銃を降ろすと、舷縁へ駆け寄り、ファウラー砲を南へ廻しながら叫んだ。
「おい日本人ども武器を収めろ! 収めねえとあの旗を撃ち抜いてやる!」
叫んでしまってから英語だったと気付く。ウナジェン・ドナが顔を向け、砲口の先を見てとるなりカッと目を見張った。瞬間、怒りが激しい焔のように噴き上がるのが感じられた。
『イギリス人。否』
ウナジェンセ・ドナが低く唸るように云う。エヴァンスは無視して砲口を城砦へと向け続けた。火薬も弾も入っていない単なる威しである。その上距離は軽く五〇〇フィートは越える。小型砲の的射の射程の三倍近い遠さだ。相当の腕の射手が撃っても当たらない確率の方が高い。だがまあ気づかれなければいい。イートンが通訳を呼んでくるまで時間さえ稼げればいい。
城砦の真上に太陽があった。南中する寸前の夏の真昼の陽だ。仰ぐだけでじりじりと眼球が灼かれるようだ。エヴァンスは自分が太陽を撃ち落とそうとしているような気がしてきた。
眉間に汗が盛り上がって膨らみ、鼻の左側を滑って顎から滴り落ちた。左手の親指の付け根に汗の滴が落ちたとき、ウナジェンセ・ドナが舌打ちをして刀を降ろし、掠れた低い小声で従者に命じた。
――藤七郎、刀ば降ろせ。
――あン老いぼれが降ろしたら降ろします。
――戯けありゃ包丁や! 包丁者と斬り合うて御船印に傷ばつくる気か?
ウナジェンセ・ドナの口調からは焦りが感じられた。従者が眉を歪めて刀を降ろす。エヴァンスは砲を戻して小銃を拾った。階段を上がって来たヘッドが従者を押しのけてフォスターの前へと駆け寄ったとき、下からセーリスの鋭い声が響いた。
「キャプテン・フォスター、君がついていながら何事だ! ヘッドが私の客人に武器を向けたというのは本当なのか?!」




