五人目:突き落としたのは(下)
これまでの人生の中で沈黙に重みを感じることは何度だってありました。結果の悪かったテストを両親に見せたとき。子供の頃ですが、友人と一緒に壁に落書きをしているところを近所に住むおじさんに見つかったとき。身の毛のよだつようなホラーを友人たちと見ているとき。
ですが、今日この時ほど沈黙に重みを感じたことはありませんでした。それは僕の隣で、分かったように僕のペースに合わせて歩くA君から感じるものでしょうか?
いいえ、違います。確かにA君は変わらず不気味にニヤニヤと笑っていて薄気味悪いことこの上ありませんでしたが、僕が額にじんわりとした脂汗を浮かび上がらせたのは異常な空間そのものにでした。
A君はこの空間に悪意があって欲しい、とそのようなことを僕に話していましたが、その時の僕ははっきりとそれを感じ取ったんです。それの、無言の威圧のようなものを。邪悪な意思を。
「……A君、君の話は本当だったんだね。この場所、確かにA君が言う通りいつまで経っても廊下の端までたどり着けないや」
A君は僕が話しかけるのを待っていたという風に、しかし少し意外そうに僕の言葉に返しました。
「ね、本当だったでしょ?……でも、僕は君がもう少し取り乱すと思っていたんだけどね。例え、僕の話を信じてくれていたとしても」
「A君こそ、また最悪な場所に迷い込んだって言うのに嬉しそうじゃないか」
「……まさか同一人物以外の、それも同じ世界の人間同士でこの空間に迷い込むことがあるなんて想像してなかったけど、元々僕は向こうの世界の人間だからこの可能性はあったのかもね。でも君に全てを話してしまった以上、僕が取るべき行動は一つだから。これは諦観と、自分の運の無さへの笑いだよ」
諦観、と言うには悪意のある笑顔のまま彼は廊下に座り込みました。何時までも、どこまでも無限に続くのでしょう廊下に。
最終的に座り込むどころか寝ころびさえして彼は言うのです。
「はっきり言っておくよ。僕は絶対に君を窓から突き落とさない。もう僕はどちら側の世界の人間か分からないんだ。君を突き落とした結果が曖昧な以上、絶対に何もしない。ここで衰弱死することになったって絶対に戻らない。君が、僕を窓から突き落としてくれると約束してくれるなら話は別だけどね」
絶対、とやたら何度も強調してそう言うA君の前に、僕も座り込みました。一瞬、廊下のひんやりとした感触が心地よく思えましたが、見渡した明るい廊下の先に終わりがないことを知っているせいなのか、その冷たさはすぐさま背筋をぞわりとさせる悪寒になりました。
そうして僕は頭の中で、A君が言っていたこの場所についての情報とここから脱出する手段について今一度整理してみました。A君が話した内容からの推測もあるのですが、この時の僕はこう結論付けたんです。
1.この場所は無限に続く廊下と左右両側に教室のある異常な空間である。そして恐らくこの場所は、自分が先ほどまで居た世界とA君が元居た理不尽な死のある世界の間にある?繋いでいる?かもしれない場所である。
2.この場所からは一か所だけ開いている窓から人を突き落とすこと、突き落とされることで脱出できる。現時点ではそれしか方法がない。
3.突き落とされた人間がまず、突き落とした人間の属する世界に行く。突き落とした人間は、突き落とされた人間が行かなかった世界に行く。
4.A君はこちらの世界のA君と入れ替わってこの世界に来ていて、元々は向こうの世界の存在なので、今自分がどちら側の世界の人間として属しているのか分かっていない。
長い、長い時間が経ちました。いえ、スマホは動いているのでそれがどのくらいの時間だったのか正確に計れますが、確認する気にはなれなかったんです。
その間に通話を試みたり、この場所を動画におさめようともしましたが、何一つ機能通りの働きをしませんでした。他にもこの空間を自分の目と足で調べまわりましたが、A君が言った通り脱出の糸口になるようなものやことはありませんでした。
僕が再び廊下に座り込んで乾いた唇を舌で濡らすと、A君は鞄から水筒を取り出してお茶を一杯入れて僕に渡してくれました。それを善意と言うより、死刑囚に目隠しを手渡すような、最期の慈悲のようだと感じた僕は皮肉るように笑いました。
「例えば、今ここで僕がA君を殺したらどうなるんだろうね?」
「多分、どうにもならないと思うよ。それにさっきも言ったけど、僕は元の世界に戻るより、ここで衰弱死した方がマシだと思っているんだ。君たちにとっては当たりまえの普通の生活ってやつを体験して、そう思えてしまったんだよ。一秒一秒に怯える必要も、恐怖を紛らわせるために会話をしている途中で友達が死体になる心配をする必要だってないんだ!あんな……あんな無意味な死に方なんて……だから、お好きにどうぞ?出来るだけ痛くしないでくれよ。ただ、ここで君一人だけになってしまったら、もうここから脱出できない覚悟はしといてくれよ」
「……」
僕が黙り込むと、A君は自分を殺したらどうなるだろうと脅されたことに腹を立てたのか、声を少しばかり荒げました。
「なんだい?やらないのかい?ほら、やってみろよ!ほらっ!僕は無抵抗で寝転んでいるだけだぞ!なのに少しも手を出せないのかい!?」
「このっ!……くそっ!」
「…………まぁ、ここで僕を殺す覚悟があるのなら、向こうの世界に行って、自分の耳元で死神が囁かないことに賭けてみた方がいいんじゃない?」
僕はA君の言葉に上手く返せず、ただ苛立ちを鋭い吐息として吐き捨てました。ええ、A君の言う通り彼を殺すだなんて事は出来ません。もしかしたらの可能性に賭ける必要もなく、確実にここから出られる方法はあるのです。
僕が受け入ればの話です。僕が思い通りに動けばの話です。僕の運がおかしいだけの話です。僕が……。僕が……。
僕には逆転の方法なんて思い浮かびませんでした。A君の言う通り、彼を突き落とすしか、それしかありませんでした。
「……分かったよ。A君、僕は君を窓から突き落とすよ。せめて、向こうの世界に行ってしまったA君の分の憎しみも込めてね」
僕がそう言うと、A君の笑みはますます憎たらしい角度になりました。
ああ、部長さん。話を折ってすみませんが、今から窓を開けるので部長さんはA君の役をやってみてもらえませんか?
大丈夫ですよ。転落防止用の柵?がありますから。ただ押しても窓から落ちたりはしませんよ。申し訳ありませんが実演して頂ければ、とても分かりやすくなると思うんです。
本当にお手数をおかけします……ええ、そうです。部長さんは壁に背を付けていますが、A君は机を四つを合わせた足場の上に立っていました。いつの間にか元の位置に戻っている机や椅子も、この時ばかりは僕の決意を誘導するように合わさったまま形を崩さないのですから、本当にあの空間には悪意があるだと確信しましたよ。
A君は足場の上から僕を見下ろして、さも満足そうに、嬉しそうにしていましたよ。いえ、ほんの少し僕に対する憐憫もあったようにも思えました。
可哀そうにって。
しかしそれもつまりは勝者の余裕から生まれたものでしょう。
本来は突き落とされた側が敗者であることが多いのに。比喩だってことわざだって、落ちた者が敗者で、不幸である表現が多いですよね?
「さぁ、いっそ一思いに僕を後ろの窓から突き落としてくれ」
そしてこんな言い様です。自分が被害者であるかのような、仕方がないかのような言い方に苛立ちは募るばかりです。
ですが……ええ、ここで僕がこの話をしているのですから、もう結末はある程度分かっているようなものでしょう。
たまたま偶然が起こった?別の脱出の方法が見つかった?……いいえ。いいえ、違います。僕はA君を突き落としましたよ。
突き落とされようとしている人ってこんなに軽いんだ、とそのとき変なことを思いましたよ。
そして彼は安堵したようにすっと窓から落ちていきました。
そこで、A君の全身が窓から見えなくなりそうなところで……僕は彼の手を掴みました。落下している途中の人の手を漫画や映画のように掴むなんて、本来出来るはずがありません。それも彼は落ちようとしているのです。
ですが僕の手に圧し掛かったA君の全体重と落下の衝撃は意外なほど軽かったのです。
これもまた、あの空間の悪意だったのでしょう。
だって僕は、どっちだって良かったんですよ。彼がそのまま落下しようが、その手を掴めようが。
結末に変わりはありませんから。ただ、ただちょっと相手を嘲笑うことが出来るだけですから。
「なっ……!?い、今更考え直したのかよっ!?」
A君が大声でぎゃあぎゃあと喚くので、僕は冷ややかに笑ってこう返しました。
「いいや?考え直すわけないじゃないか。だって僕も、向こうの世界からこっちに来たんだからね」
……すみません、皆さん。僕は良い語り手でも誠実な語り手でもないんです。A君はともかく僕はA君を"その他"なんて思っていませんでした。僕もA君と同じく窓の外にいつも通りの、あの世界が見えていたんです。僕もA君と同じく無限に続く廊下と左右両方に教室があるその空間に来たことがあったんです。僕もA君と同じように窓から脱出できることを知り、突き落として貰ったんです。
僕はもしかしたらこの機会があるかもしれないと、雨が唐突に降って来た時に感じたんです。そしてこのA君にばれない様に、向こうの世界のことを、この空間のことを知らないふりしていたんです。
勘付いていた方も居たと思いますが、僕は皆さまがもしかしたら思っていたような"無害な語り手"ではなかったんです。
「は……?え……?」
理解出来ない。A君の顔はそう物語っていましたが、彼は意外とすぐに頭を回し始めました。
「いや……いや、待ってくれ。じゃ、じゃあ僕は……僕はどっちの世界に行くんだ?僕も……君だってどっちの世界に属する存在なのか分からないだろ?こ、このまま僕を突き落としてもいいの?君があの理不尽な世界に戻るかもしれないよ?」
僕は笑顔のまま、その言葉に答えました。
「いいや、知ってるよ。君は向こうの世界に行くんだ。例えこの窓から世界を移動しても、自分が属している世界は多分、自分が生まれた方の世界なんだよ。だって僕は、君によって向こうの世界に行ってしまったA君に突き落として貰ったんだからね」
「…………へ?……ぁ?」
「もう一人の君とこの空間に迷い込んだとき、彼は誠実に全てを話してくれたよ。『自分がどっちの世界の人間か分からない。君を窓から突き落としても、どちらが一日を平穏に過ごせる僕が居た世界に行けるかは分からない』って。それで僕らは話し合って、公平な方法を試すことにしたんだ。僕にしてみれば、あの世界から抜け出せる可能性があるだけで僥倖だしね。彼が言う世界が本当に存在するかも分からなかったし。で、そう決めた後、こうも言ってたな。『もし君がそちらに行けたなら、万が一のお願いがあるんだ』って」
A君は顔面蒼白になりました。自分がどうなるのか、どんな結末が待ち受けているのか。それを完全に理解したのでしょう。それまで力のこもっていなかった彼の手が、痛いくらいに僕の手を締め付けます。
「『もし、万が一にでも向こうに行った僕とこの空間に迷い込んだのなら……彼を騙して突き落としてほしい。二人の同じような人間が同じ世界に存在したときどうなるのかは分からないけど……もし、出来るのなら……復讐は自分の手でしたい』ってね……悪いねA君、僕は君によって向こうの世界に行かされたA君に恩があるんだよ」
「いや、でも」
「だから、仕方がないよね。それに君は自分が突き落とされるまでテコでも動かないって言ったんだから……僕は君を突き落とすって約束したんだから。仕方がないよね」
「手を、手を離さないでっ!!やめろ!払いのけようとするなぁ……!」
「じゃあね、A君。精々向こうの、いやこっちのA君に全力で謝るんだね」
「やめ」
僕が爪までたてられて血が流れ出した片手の力を抜くと、A君の体は呆気なく落ちて行きました。
部長さん。僕はA君を突き落としたあの日から、超常の空間に迷い込まなくても、窓から突き落とせば相手を向こうの世界に送れるようになってしまったんですよ。あの空間の悪意に気に入られたんでしょうか?はっきりとは分かりませんがね。
……ところで部長さん、良い位置に居ますね。腕力も増しましたから、少し力を加えれば防止用の柵なんて簡単に壊せますし、それの上から部長さんを落とせますよ。
どうでしょう……いい話の種だとは思いませんか?窓から落ちた人間が唐突に消えたって。動画に収めれば、学校どころか世間だって騒がせますよ?新聞に載って一躍有名人です。
いえ、フェイク動画と思われるだけですかね?
ははは。
……すみません、冗談です。そんな力なんてありませんよ。
この世界に居た僕?……さぁ?どうなんでしょう。皆さまの話を聞く限り、世界は違っても不条理は存在するみたいですから、そのうちの一つに何かされたのかもしれません。
もしくは、この世界の僕もまたあの空間に迷い込んだのか。
……僕の話は以上です。お聞きくださり、ありがとうございました。
』
上と下の文章量の差を何とかしたかったですが敗北しました。
夏までに七話……いければいいなぁ。