表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
8/9

五人目:突き落としたのは(上)

 せっかく部屋を真っ暗にして場を整えて貰っているのに悪いんですけど……部長さん、少し僕の頼みを聞いてくれませんか?

 いえ、そんなにお手間は取らせません。一か所だけでいいんです。一か所だけでいいので、カーテンを開けさせてもらいたいんです。

 はい、一か所だけ。えっと、大事なのはカーテンってより窓が見えるようになることなんですけど、それが僕がこれから話す内容になけなしの真実味を与えてくれると思うんです。

 ありがとうございます。では早速カーテンを開けさせて貰います。あ、それと、この窓の傍まで机と椅子を移動させますので、申し訳ありませんがどなたかそこに座って頂けないでしょうか?

 ……あ、部長さん自ら率先して座ってくれるんですか。それは……ありがたいです。多分……きっと良い記事が載るはずです。あ、いえ、間違いました。良い記事?新聞?になる様に頑張って話をさせて頂きます。まぁ、例え僕の話がいまいちでも放送部の皆さんの手に掛かれば良い記事か新聞になりますよね。皆さんの胸を借りさせていただけるなら、安心してお話しできますよ。

 えっと、時間を取らせてしまって申し訳ありませんでした。やっと舞台が整ったので早速……と言いたいんですけど、まだ少しだけ前振りを続けさせてください。

 学校って言う場所は、色んな人間が居ますよね。何をしに学校に来てるのか分からない人から、どこまでも真面目な人。授業中にスマホでゲームをしている人や、やたら分厚い専門書をひけらかす様に熟読してる人。外見からして一目置かれている人や、休み時間に机に突っ伏して一人で眠ってる人。運動が得意な人や、やたら奇妙な特技を持っている人。

 とにかくそんな色んな人間が教室と言う一室に集って勉強と言う一つのことに……放課後には部活と言う一つの目的に集中する。そんな環境って意外とないんじゃないでしょうか?

 それで、それだけ色んな人間が居れば当然印象が薄い人だっています。あまり良い言い方ではありませんが、全員が全員の事を普段から意識しているわけではありませんからね。印象の薄いクラスメートや部活仲間は、誰にでも数人は居るものでしょう。

 もっとも、人は見掛けによらないと言った言葉もあります。定番ですが、事件後のインタビューなどでよく聞く"そんなことをするような人には見えなかった"と言う方は、本当にその人を見掛けだけでも気に掛けたことはあるんでしょうか?これは自戒でもあるのですが……自分にとって印象の薄い相手、悪く言えば自分にとってどうでもいいような相手を、"その他"としてまとめて見てしまってはいませんか?"その他"に分類して、そこに居るのは同じような人間ばかりだと、ともすれば無意識のうちに同じ人間とさえ思ってはいませんか?

 でも自分にとって印象が薄いからと言って、その相手の個性や背景が無くなるわけでも薄まるわけではありません。"その他"と思っていた相手が、そう当てはめていた相手が実はとんでもない秘密を隠し持っているかもしれないんです。

 普段"その他"として認識しているものから明かされる秘密の告白。認識と真実のギャップの差。それが明かされた時の衝撃を、僕の拙い語り口では満足に表現できないだろうことが悔しいです。

 僕の話はあるクラスメートに関することです。その人は別にいじめられているわけでも、話し相手が居ないわけでもありませんでした。ただ……授業中ずっと。下手をすれば休み時間の大半を使って窓から外をひたすら眺めている人でした。ですが"その生徒"は、僕が思っていたような人では無かったんです。

 僕の話はそのクラスメートと、その人が見ていたもののことです。



 僕はそのクラスメートの後ろの席でした。席が近いことは仲が良くなる切っ掛けの一つだと思いますが、僕と彼の間にそのような機会はありませんでした。僕が彼を"その他"と思っていたように、きっと彼も僕を"その他"と思っていたのでしょう。プリントの受け取りや筆記用具が落ちた時なんかに二、三言交わすことはあっても、長々と会話をすることはありませんでした。ただ前の席の彼がいつも窓の外を眺めているものですから、たまにつられて窓の外に目を向けて見たことはありましたけどね。ですがそこあるのは僕にとって当たり前の光景で、面白いものではありません。だからまぁ、窓の外にある何が彼を引き付けて止まないだろうか、と時々首を捻ることはありましたよ。

 その日の僕は明日提出しなければいけない宿題を終わらせるため、放課後の教室の椅子の上でうんうん唸りながら奮闘していました。家では誘惑が多くて中々宿題に手が付けれませんからね。かと言って図書室の言外に静けさを強要する雰囲気が苦手な僕には、放課後の教室は凄く丁度いい場所だったんです。

 放課後の教室は意外とクラスメートたちの喧騒が無くならないものです。友人と駄弁っている人や箒を取り出してバットみたいに大振りしている人、スマホでショート動画を眺めている人。何と言うか、僕はそのちょっと程度の低い喧噪を心地いいと思えるんです。不思議と安心できるんですよ。

 担任に見つかれば全員教室から追い出されていたと思いますけど、その日の担任は忙しいのか顔を見せませんでした。そうしているうちに一人、また一人とクラスメートたちが帰っていき、いつの間にか教室に居るのは僕と僕の前の席に座っている彼だけになっていました。まぁその彼は案の定席に座ったまま、生態の一部であるかのように窓の外をじっと眺めているだけでしたけど。

 僕はこれまで彼が窓の外を見つめ続ける理由を誰かに話している場面を見たことがありませんでした。それは彼と会話交わすクラスメートが少ないからかもしれませんし、話せない理由があるからなのかもしれません。と言ってもこの時の僕が彼に声を掛けたのは、窓の外を眺める理由について聞きたいからではありませんでした。やっと宿題を終えた僕の机の上に乗っている教室の鍵を彼に渡したかったからなのですが。

「A君、まだ教室に残るの?」

 前の席の彼――A君の微動だにしなかった横顔が揺れ、A君は勢いよく体ごと僕と相対しました。中肉中背の彼は外見的な威圧感こそありませんが、大抵窓の外を見つめている瞳が珍しくしっかりと僕に向けられたことには、少しだけ戸惑いを覚えてしまいました。

「……うん、まだ、もう少し……」

「あー、じゃあ、僕は用事が終わったから教室の鍵を預かってくれない?もう他に人がいないしね」

「あっ、うん……」

 ……僕もそれ程コミュニケーションは得意ではありませんでしたが、やたら勢いよく僕の方に向いてきたこといい、小さめな声量といい、A君は僕以上にコミュニケーションが不得手なのかもしれません。そんな姿が僕の戸惑いを和らげたのは確かです。

 だから僕はふと、ふと彼に窓の外を眺める理由について問いかけてみることにしました。と言ってもまぁ、真剣にそのことを尋ねたかったわけではなかったんです。向かい合う形になってしまったので少しくらいは会話をするべきかもしれないと、そんな不思議な義務感に駆られたのが半分。そして誰も居ない今こそ窓の外を眺める理由が聞けるチャンスなのかもしれない、とそう思ったのが半分。ええ、どうしても聞きたいって程ではありませんでした。

「そう言えばA君、何でいつも窓の外を見てるの?あ、何となく気になっただけで、どうしても聞きたいわけじゃないんだけど」

「……」

 A君が瞳だけを窓の方へと向けます。空は少しだけ曇り始めていましたが、太陽自体ははまだまだ落ちる様子がなく、嫌々部活をやっている生徒はその陽光の力強さを飽き飽きしながら気にかけるかもしれません。ですがA君は恐らく空を見ているわけではありませんでした。かと言って向かい側にあるはずの校舎を見つめている様でもなく、むしろその中間の虚空に意識を向けている印象を受けました。

 良いともダメとも返事がなく数十秒が過ぎ、これは僕から会話を切り上げなければいけないな、と思ったところで。

 そこでA君はポツリと言ったんです。

「……死体になるのを待っているんだ」

「え?……」

 僕は疑問符を放ちながら窓の外に目を向けました。そこにあるのはやはりいつもの光景です。特段変わったことはありません。だから僕は変化の無い窓の外のことより、A君が死体になるのを待っていると言ったことの方が気に掛かりました。

「……したい?それは……人が死んだあれのこと、なんだよね。それとも……何かの隠語、とか?冗談、とか?」

 僕の問いかけにA君は静かに首を横に振りました。死体と言う負のイメージの塊のようなものを待っている、そう言った割には嫌に冷静に。そうして彼は胸の中の何かの重い荷を降ろしたかのように深い深い息を一つ吐いて続けたんです。

「比喩や冗談なんかじゃないよ。でも、そう思って聞いて欲しい。荒唐無稽なことだからこそ、作り話に思えるからこそ誰かにこれを話せるんだ。僕は……僕にはこの窓の外に違う世界の校舎が見えているんだよ」

 死体とはまた別の奇妙な言葉が出てきて、僕は聞き返しました。

「……別の世界の校舎?」

「うん。別の世界の校舎。そこにはこの校舎とほとんど同じ教室があって、ほとんど同じ先生が居て、ほとんど同じ生徒が居る。ただ、ただ一つ違うのは」

 A君は僅かに背中を丸め、一度大きく身を震わせてその先を言葉にしました。

「一週間に一、二人……誰かがいつの間にか何かに殺されることなんだ。それが常識で、仕方のないこととして受け入れている。そして僕は、向こうに居る僕が殺されるその時を待ち望んでいるんだ」

「…………」

 思いがけない言葉に、僕は黙り込んで視線を窓の外に向けるしかありませんでした。別の校舎はともかく、誰かが殺されることもともかく、どうして向こうの自分に死んで欲しいと思っているのか……僕はそれが一番気になったんです。

 僕の沈黙と視線の動きをどう感じたのか。A君は少し意外そうな顔をしました。

「思ったより信じてくれてそうだね。僕はてっきり、アホらしいと鼻で笑われて帰られると思ったんだけど」

「……信じる信じるかはともかく、想像していなかった言葉が出て来たから……僕は、不可思議な話や怪談が好きなんだ。聞くのも語るのも好きなんだ。だから……A君がどうして向こうの自分の死を待ち望んでいるのか、興味が湧いて来たよ」

 ぽつり、ぽつりと。薄暗かった空が一層暗くなり、雨音が聞こえてきます。と言っても、太陽を覆い隠した分厚い雲の少し先にはすでに晴れ間が見えていて、これがにわか雨であることはすぐに分りました。はなから今すぐ帰宅しようなんて思っていませんでしたが、傘を持ってきていない僕はA君の話を聞く理由が虚を突く様に増えたものですから、これは天が僕に与えたメッセージなのだと思うことにして椅子に深く腰を降ろしました。

 少し暗くなった教室で、違う世界の自分の死を望む眼前のクラスメートが口を開けます。

「それじゃあ話を続けさせてもらうよ。でも、僕が違う世界の自分の死を願うようになったのは違う世界の校舎が見えるようになったからじゃないんだ。二人の自分が居て気持ち悪い、なんて感じたからじゃない。それよりももっと自分勝手で傲慢で、赦されない理由だけど……それでも僕はもう一人の自分に死んで欲しい。僕はただ、ただ安心したいだけなんだ」

「……安心?」

「そう、安心」

 そう告白したA君は笑っていました。張り付けたような、それでいて生々しい笑み。様々な感情を絵の具のように混ぜこぜにして、醜悪な色になったような笑み。

 A君は僕が口を挟む間もなく語ります。

「その日、特別な何かがあったわけじゃない。下校時刻になったからいつも通り一刻も早く教室から出て帰宅する。僕がやったことは、ただそれだけだった。そうして鞄を手に持ち考え事をしながら廊下を歩いていた僕は、そこでいつの間にか他の生徒の姿が一切なくなっていることに気が付いたんだ」

 窓とは反対側にある廊下を軽く見つめながらA君は一呼吸つきました。その目には怯えのような、恐れのようなものが見て取れて。彼が窓の外ばかり見ている理由の一つに、出来るだけ廊下を視界に入れたくないと言うこともあるのかもしれないと思いました。

「その理由はすぐに分かったよ。おかしかったのは他の生徒達じゃない。僕の居る場所の方だったんだ。だって、廊下の端はすぐそこに見えているのに、どれだけ歩いても早足でも走ってもそこまで辿り着けなかったんだ。その上、いつの間にか廊下の右と左の両側に全く同じ教室が現れていた。ほら、この学校って片側にしか教室がないだろ?だから自分が常識の通じない場所に迷い込んだと勘付いたよ」

 A君の声はその時を思い出しているのか微かに震えていました。しかしそれが恐怖によるものなのか、それとも別の感情によるものなのか、唇の歪みからは判然としません。

「でも、何もかもが出たらめってわけじゃなかった。廊下も教室もその日帰るまでに何度も通った、見知ったものではあったんだ。だからこそ……不気味だった。勝手知ったる場所のはずなのに、何一つ自分の思う通りにならない。窓を壊そうとしても壊せない、逆走してみても終わりはない、教室にある机や椅子を放り投げても気付くと元々あった場所に戻っている。そして結局廊下の端には辿り着けない。それは変わらない。けど本当に全身がきゅっと竦んだのは、一しきり暴れた結果が徒労に終わって自然と頭が冷えてって、喉がひりひりに渇いたことに気が付いた時だったよ。このまま水も食べ物ないこの場所で衰弱して死ぬのかもしれない……そう実感して、突きつけられて、最終的に僕は蹲って嗚咽するしかなかったんだ」

「……けど、A君がここに居るってことは、そのおかしな場所から抜け出せたってことだよね?」

「うん。そう。抜け出したんだ。抜け出してやったんだよ」

 心底嬉しそうに。A君はじっと窓を眺めているそのときの静けさを投げ捨てて、にやりと笑いました。はっきりと歪んだ笑み。それはA君と言うキャンパスからはみ出てた汚らしい絵の具のようでした。突如彼が別人になったようで、僕はA君をじっと見つめました。

 A君はすぐに狂喜の色を潜ませて続けます。

「不意に、僕の嗚咽がどこからか聞こえて来た音と重なったんだ。僕の引き攣る泣き声に、泣き声が。鼻をすする音に、同じ音が。それは合唱中の共鳴ほど綺麗なもんじゃないけど、調和なんて全く考えられていないってことを考えると、奇蹟的なほどぴったり嚙み合っていた。でもそれも……当然だろうね。その原因を探ろうと立ち上がった僕の向かい側。僕は教室の中央に居たから、その真反対側の教室で何かが僕と同じように立ち上がったんだ」

「別の世界のA君……?」

「……核心っぽいことをぼそっと呟かないでくれよ。怪談や不可思議な話をするとき、それは一番冷める行為だよ……例え僕の話が予想出来たり、つまらなかったとしても口を閉じておいてくれよ」

「ごめん……」

「でもまぁ、そうだったんだ。それは……とても良く見知った存在だったよ。僕と同じ形をした目を真っ赤にして、同じ頬に涙の跡がある男子生徒。向かい側の教室には、もう一人の自分としか形容しようのない生徒が目を点にして僕を見つめていたんだ。何度も何度も確認したはずの向かい側の教室に最初から居たようにね」

 そこでA君は僕に断ってから話を切って鞄から水筒を取り出し、それを一息に飲み干しました。

 僕は彼の言う通りあまり誠実な聞き手でも話し手でもありませんが、それでも彼の機嫌をこれ以上損ねないように改めて居住まいを正します。それを汲んでくれたのかどうか……多分、関係なかったでしょう。

 続きを話したくてたまらないという様に、A君の言葉に更なる熱がこもります。

「まぁ今だから相手を違う世界の自分だと言い切れるんだけど、その時は別の可能性を考えたよ。幻覚とかドッペルゲンガーとか。違う世界のとは言え僕だから、きっと向こうもそう考えただろうね。でも僕らが相手を同じような存在だと一応のところ認めるまでにしたことを話しても仕方ないから、そこは省略させてもらうよ。それに結局、不可思議なその空間においてさえ僕らを妥協させた理由は現実的なものだった。人手、手数……二人でなら不可思議な教室と廊下をもっと詳しく調べられるかもしれないという単純な道理。すぐ傍に自分と同じような存在が居ることの薄気味悪さを我慢しなければならないほど、僕らは互いに切羽詰まっていたんだ」

「まぁ、このままじゃ死ぬかもしれないってなったら、罠かもしれないものにも縋るしかないもんね。その甲斐あってA君はその場所から抜け出せたわけだ」

「うん。僕は教室、もう一人は廊下をしらみつぶしに調べ始めたんだ。僕も向こうも何度も調べた場所だから、言葉にはしなかったけど望み薄ってのは分かっていた。けど何もせずにはいられない。二つの教室の机の中、床の感触や網目の違い、照明器具の光り方……調べなくていいだろってことにまで、何か異変がないか手がかりがないかを探り漁った。それでもやっぱり何もなくて……胸の中の閉塞感をどうにか外に開放出来ないかと、当たり散らすように力を入れて窓の一つを引っ張ったんだ」

 A君はその時の光景を再現するように左手で胸元を抑え、右手を窓に当てました。もう一つの校舎が見える、そう彼が言った窓に。程なくすっと窓が開き、そこから小粒の雨が飛び込んで来ます。たまらず僕はA君に窓を閉めるようお願いしようとしましたが、彼は雨も気にせず血走った目を大きく見開いて僕をじっと見つめるものですから、出掛かった言葉は喉の中で消えてしまいました。

「そうしたら窓が簡単に、呆気なく開いたんだ。何度も開けようとしたし、椅子を叩きつけて割ろうとしたりもした。それでもびくともしなかった窓が、だよ。そして同時に、その窓の使い方も分かったんだ。ここから突き落とされれば、この場所から抜け出せるってね」

「それは……随分つご」

「都合がいい、だろ?ああ、そうだね。都合がいい。でもそれは多分、あの超常の空間にとっての都合のよさだ。いや……僕はあの場所に悪意があって、だから窓の使い方を僕に教えたんだと信じたいんだよ」

 雷鳴が轟き、A君の顔半分が強く照らされました。彼は雨に濡らされて瞼のあたりに張り付いた髪を払いのけようともせず、唇を動かし続けます。

「その窓から脱出できると理解した僕は、もう一人の僕を呼んだんだ。そして僕はすぐに、もう一人に窓から突き落としてくれって頼んだよ。もう一人は僕の言葉を聞いて明らかに狼狽えていたけど、その窓が唯一の手掛かりあり希望であるかもしれないことは納得せざるを得なかったようだ。他の窓はやっぱり開かなかったし、精神的に追い詰められた状況では蜘蛛の糸でさえ救いに見えるものだから」

「……そうかもね」

「僕はもう一人の僕に詳しく言ったよ『この窓から突き落とされると、もと居た世界に帰れるんだ!自分で飛び降りても意味がない。突き落とされないとダメなんだ。あ、安心してくれ。突き落とした側も、落とされた側とは違う世界に行くことが出来る。世界ってのは僕と君が居た二つの世界の事で……だから、つまり、互いにもと居た世界に帰ることが出来るんだ。僕が君を突き落としても良いけど、このことを理解できていない君にとっては突き落とされるより、突き落とす方がまだマシだろ?ここには人の目がないから、突き落としてもバレないし』ってね」

「それでA君はもう一人の自分に突き落とされて……元の世界に戻れたってこと?」

「ああ、僕は喜んで突き落とされたよ。当然でしょ」

 A君はやっと窓を閉め、鞄から取り出したタオルで顔を拭います。その間に僕は少しだけ残念そうに言いました。

「奇妙な話だけど、意外にヤマもオチもなくすんなり解決したんだね。結局、どうして向こうの自分に死んで欲しいのかも分からないし」

 にやぁっ、と。タオルで見え隠れしているA君の唇の端が吊り上がります。顔を拭き終えた彼はまるで水気と同時に化けの皮も拭い捨てたかのように残酷に笑いました。

「そんな目をしないでくれよ。君も僕と同じ立場だったら笑いたくもなるさ。やっと……やっと抜け出せたんだ」

「それは分か」

「窓から見える、向こうの世界からね」

「……え?」

 それは分かるんだけどね。そう言葉にしようとした僕の口は途中で止まり……代わりに眉を顰めました。

 向こうの世界。A君は確かにそう言ったんです。そしてそれが聞き間違いでないことを、彼の勝ち誇ったような満面の笑みが証明していました。

「そう言ったらもう分かるでしょ?僕は、この世界に居たAじゃないんだ。向こうの、あの理不尽な死が当たり前な世界のAなんだ」

「でも」

「もう一人の僕に嘘をついたんだ。あの窓は確かにこの世界と、向こうの世界を行き来することが出来るものだった。それは確かだ。でも本当は、突き落とされた側が突き落とした側の属する世界に行くものなんだよ。そして突き落とした側は、突き落とされた側がその世界に行った後で、それとは反対の世界に行くんだ」

「……無駄にややこしいな。えっと、元々こっちの世界にいたA君に突き落とされたから、君はこの世界に来た。で、君がこの世界に来たから、こっちの世界のA君は向こうの……窓から見える世界に行った、と?」

「そう。実のところ、僕が突き落とす側でも、突き落とされる側でも変わりはない。僕が突き落としても、もう一人の僕は向こうの世界に行って、僕がこの世界に来る。だからそう……仕方が無かったんだ。真実を伝えても、僕みたいにはっきり理解していなければ突き落とされる側には中々なれない。それに僕が元居た世界の理不尽な死について話せば、もう一人の僕は突き落としも突き落とされもしなくなるかもしれない。そうしたら二人ともあの超常の空間で衰弱死してしまうじゃないか!それは……それは最悪だろ!……僕はただ……二人にとって最良の選択が円満に行えるよう、真実に黒インクをちょっと垂らしただけなんだよ。善意からね」

 A君は肩を竦めました。やたら言い訳がましく、大仰に。選択肢の無い弱者に正しさを誇るように。

「…………」

「もう一人の僕は運が無く、僕は幸運だった。そして僕はその幸運が幸運のままである様に、僕が元いた世界に行ったもう一人の自分に理不尽に殺されて欲しいんだ。だって……また僕ともう一人の僕が一緒にあの空間に迷い込む可能性があるでしょ?今の僕はこっちの世界に属する存在かもしれないし、あくまで向こうの世界に属する存在かもしれない。分からないから……あんなことが二度と起こらない保証がないから……僕はもう一人の自分が殺されるその瞬間を今か今かと窓から見つめて待っているんだ……ずっと、ずっと」

「……なるほど」

「僕を責めるような表情をしているけど、君だって他人事じゃない。向こうの世界の君とあの空間に迷い込めば、君は向こうに行かなくちゃならない。あの、いつの間にか友人が、隣のクラスメートが、自分が死んでいるかもしれない世界に。それが当然と諦めるしかない世界に。どんな世界でも自分の世界よりかはマシだろうってこの世界に来て、それでどれだけ理不尽なことかはっきりと分かったんだ。だから僕はもう、あの世界にはもう戻りたくないんだよ……分かってくれよ。僕は正しいことをしたんだ」

 僕は否定も肯定もしませんでした。そのどちらを行うにしても、自分には資格がないと思ったのです。ですのでただ黙って窓の外を一度見つめ、それから自分の鞄を手に掴みました。

 A君の話が終わるとほぼ同時に雨が止みましたから、丁度帰り時になりました。僕がA君に話をしてくれたことに礼を言って立ち上がると、彼も一緒に立ち上がりました。

「あ、待って。僕も今日は帰るよ。あと、脅かす様な事を言ってごめん……実は今、向こうの世界に君は居ないんだ。少なくとも窓から見えたことはない。きっと、理不尽に殺されたんだと思う。あ、いや、これも不快に思えることだったかもしれない……ごめんね」

 僕はA君の弱々しい謝罪にしばし唖然としました。あの別人のような狂喜の顔はなりを潜め、窓の外をただ眺めている口数の少ないクラスメートが突然目の前に戻ってきたようでした。

 僕は気にしてないとA君に伝えて一緒に教室から出て、並んで廊下を歩き始めました。これまでにも言った通り別に仲がいいわけではありませんが、不可思議な話をしてくれたこともありましたし、教室の鍵を預けた負い目のようなものもあって職員室の近くまではと軽く会話を交わします。

 歩いて、歩いて、歩いて、歩いて…………。

 歩いて、歩いて、歩いて、歩いて……?

 何時まで経っても廊下の端に辿り着きません。こつこつ、と二人分の足音が廊下に幾重にも響き渡ります。音もまた出口を探している様に、こつこつ、こつこつと重なり、重なり……それは僕の、まさか、と激しく鼓動する心臓がそう思わせたのでしょう。

 僕はふと立ち止まり、隣で歩くA君の顔を横目で見ました。

 A君はなりを潜ませたはずの残酷な表情を再び浮き上がらせ、唇の端を歪に吊り上がらせていました。

 そうして彼もまた横目で僕を見たのです。A君のあの血走った目と、視線がかち合いました。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ