三人目:逆さまの人影(下)
熱いものが込上げて来る。たまに聞く表現ですが、僕はこの時ほどそれをはっきりと実感したことはありませんでした。
胸や目頭がかっと熱くなって、自然と何かを堪えるように上唇が丸まって。喉の奥で固まっていた息が、唇の小さな隙間から震えながら出て行って。
眼を見開きながら、隣に佇む逆さの人影に一歩近寄ったんです。
勿論、この得体の知れない逆さまの人影がBのものだと完全に信じたわけではありません。Bは病院で命懸けで病気と闘っているはずなんです。仮にこの人影が死後の人のものだとすれば、意識不明ではありますが間違いなく生きているBがそれになるはずがないんです。
それでも、一度そうかもと思ってしまうとその可能性を考えて止められませんでした。
生霊?念?それとも体から影だけが離れて動いていたり、とか?
何も、何一つも分かりません。ええ、これまでは何も分からないからこそ逆さまの人影が怖かったのです。しかしその時の僕は、分からないままであることの方が殊更怖くなってしまったんです。
それが親友の最期の命の輝きがもたらしているものだとしたら?意識が戻るような何かを伝えに来ているのだとしたら?いつ訪れるとも知れない最期のその時まで、僕を見送ってくれているのだとしたら?
……僅かな間だけでも、僕と一緒に下校したいだけだとしたら?
例え逆さの人影がBではなく超常の何かであろうと、Bを、親友かもしれないそれを知らないもののように無視することは、もう僕には出来ませんでした。
軽く息を整え、目立たないように静々と歩き出して。同じ速さで逆さまの影が僕の少し先をゆっくりと進みます。開かれた校門から一刻も速く帰宅しようとする生徒の勢いを前に僕が歩幅を小さくすると、逆さの人影はその生徒に踏まれながら足取りを遅くします。
そうして同じ早さで進んでいた逆さの人影の丸い頭が校門について、それはピタリと両足を揃えて立ち止まりました。そこは僕を見送ろうとする影がいつも立ち止まる場所です。門を通り越して振り返ると、いつも姿を消しているその場所です。
そうだ、と僕は咄嗟に閃きました。Bはこの高校に合格したものの、入学試験を受けて以来一度も登校したことがありませんでした。病魔がBから学生生活を、ただ真っすぐ歩くと言う当たり前のことさえも奪ったんです。
だからもしかしたらこの人影は、Bは帰り道が分からないのかもしれない。かと言って逆さの人影を避けるように下校していた僕に付いて行くのも忍びなくて、だからここでいつも姿を消していたのかもしれない。
そう考えると一層申し訳なくなってきて、僕は校門を通り抜けてから人影に小さくさっと手招きをしました。すると人影は嬉しそうに地を何度か軽く足踏みした後で僕の右足の右隣に、僕より少し大きい逆向きの足を並べたんです。
僕らは一緒に帰り道を歩き始めました。僕の隣で歩みを進めるそれは、Bではなくこの世の理とは外れた何かかもしれませんし、僕の影と逆さの人影は重なることも同じ向きに並んで共に肩を揺らすこともありません。ですが、一人で帰宅するには長く味気ない帰り道に同行者が出来たことが、何だか無性に嬉しかったんです。
ただ僕と逆さまの人影が一緒にアスファルトを踏みしめていた時間は短いものでした。校門から十分程度歩いた頃でしょうか。ふと数瞬それから目を離しただけでしたが、いつの間にか人影は消えていましたから。
もっとも、人影がこれ以降現れなくなったと言うわけではありません。まさか、Bが亡くなったんじゃあ、と言う僕の最悪の予感を否定するようにそれは、次の日の下校にも僕の背後から何事もなく姿を見せました。
そうしてまた、一緒に帰って。
僕は周りの様子を窺い、近くにあまり人の姿がないことを確認して逆さの人影に話しかけます。影は喋れませんから一方的なものでしたが、Bに話したいこと、伝えたいことは山ほどあったんです。
何よりもどうか元気になって欲しいと。そして一緒に下校してくれていることに感謝を。そしてBのいない学生生活に対する寂しさを。独りよがりで話すと隣の影は、応えるように強く足を弾ませるんです。
けれどまた、いつの間にか居なくなって。次の日の下校には後ろからやって来て。
僕は逆さまの人影と一緒に下校することが当たり前になっていきました。
幸いなことに、逆さまの人影と一緒に歩ける距離は日に日に長くなっていきました。僕と一緒に下校する時間を長引かせたかったのか、それとも僕の家の近くにあるBの自宅までたどり着きたいのか。
それはどちらでも大歓迎でしたけど、しかし叶いそうにもありませんでした。
下校時に射す陽光が日が経つにつれてちょっとずつちょっとずつ淡くなって、靴底で感じていた地面の焼けるような熱さが和らぎ始めて。逆さまの人影は、少し目を凝らさなければ見つけられないほどにまで薄くなっていました。その兆候があることは少し前にお話ししたと思いますが、僕が逆さまの人影と一緒に帰る様になってから、その影が薄くなる度合いが増していったんです。
それは病床の親友に残された生命の輝きがいよいよ消えてしまうようで……それなのに最期まで僕の下校に付き合ってくれているのが申し訳なくて……一緒に帰る様になるまで、さっさと消えて無くなってくれと人影に強く願っていた自分自身を呪わずにはいられませんでした。
そして恐らくこのままだと、僕が願ったように影が跡形もなく消えるその日は遠くはなさそうでした。
逆さの人影が初めて背後から現れたその時分、下校時は去ったはずの夏の勢いに押されてまだまだ空は青く澄み渡っていました。けれど今は黄昏の名に相応しい赤みがかった空があって、そして太陽は今にも姿を消そうとしています。
逆さの人影はもう、黄昏時に差し掛かるとどこまでが影でどこからが道なのか判別がつかなくなっていました。人影が動くと辛うじて捉えられる輪郭は今にも崩れて地面の中に溶けていきそうで、それでもそれは僕の隣から離れずにいてくれます。
あと少し……どうか、あと少しだけ。
僕はそう願いました。少し先には僕の家があります。僕と人影はこの日やっと、長い帰り道の果てに一緒に自宅までたどり着くことが出来そうでした。本当はBの家まで案内したかったのですが、僕の家からさらに十分程度歩かなければいけなくて、そして影にはその時間の猶予はなさそうだったんです。
あと、数十歩。不思議なことに一歩一歩を頭の中で数えると、距離にしてみれば短いはずなのにとても遠くに感じます。不安になりながら少し横を向くと、人影は薄暗い地面とほとんど同化しかかっていました。
もしかしたら、今日が最後かもしれない。この日まで僕は、何度となくそう思いました。けれどこの日は確信めいたものがありました。この日で、何かが終わるような予感があったんです。
ようやく家の門に辿り着いて、そこに手を掛けて開いて。逆さの人影は僕を校門で見送っていた時のように、門を前にして止まります。その横を僕はゆっくりとゆっくりと通り過ぎて身を翻し、それと向かい合いました。
これが、最後。
「……ばいばい」
それが人影と交わす最後の言葉になると思って、涙で滲む視界をそのままにして僕は影を見つめました。
しかし、予想に反して影はまだ立ち止まっています。いえ、日暮れがもたらした冷たい暗さの中にもう完全に混ざっていましたが、微かに僕を見つめているような気配を感じたんです。
ああ、そうだ。ここでBと交わす言葉は、ばいばい、じゃない。いつも一緒に帰って、僕の家で少し遊んで、それからBは帰るんだった。それに最後が別れの言葉なんて、なんだか嫌だもんな。
だから、本当にいつも通り。
僕はその言葉を言おうとして口を開きましたが、それはズボンから伝わって来た振動で少し止まりました。でも、いつ消えてもおかしくない人影に一刻も早く伝えなければいけません。
「いらっしゃい」
学校の校門で立ち止まっていた影を招いた時のように……僕は手招きしながらそう言ったんです。すると人影が、すっと門を通る気配がして。そしてそのまま消えて行くような、そんな感覚があって。
長い、長い息を吐きました。それから目を擦り、僕はズボンからスマホを取り出しました。
画面には見慣れた番号が表示されています。Bのお母さんのものです。
ああ、そうなんだろうな……と僕は覚悟を決めて電話に出ました。
「よっ!!元気か!?」
それは。それは聞き慣れた、待ち望んでいたはずの底抜けに明るい声でした。
「…………え?」
低い、間抜けな声が僕の口から飛び出します。その声の主が誰なのか分からないはずがありません。けれど、何故かそれが誰だか理解することを頭で拒否していました。
そうしてゆっくり、ゆっくりと下を見て。
玄関から漏れ出した光の中で、濃い逆さまの人影が嬉しそうに揺らめいている姿が見えました。
何で?
「おーい。おーい。どうしたんだよ?あ、電話が出来るまで体調が良くなったことを黙ってたから怒ってんのか?それは許してくれよ。マジで最近までどうなるか分からなかったんだからさ。これまでもずっと心配してくれてたのに、更にお前を一喜一憂させるのも申し訳なかったから…………おーい、許してくれよ」
何で?
僕は、僕はいの一番に伝えなければいけないはずの喜びの言葉が出て来なくて、反射的に言いました。
「影……」
「は?」
「Bの影、そこにある!?」
「……はい?」
なんて馬鹿な質問な上に聞き方でしょう。しかしBは不思議そうではあったものの、すぐに教えてくれました。
「とりあえず手の影はあるぞ。んで、ちょっと待ってくれ……うん、あんま動けないから絶対とは言えないけど、多分影がないなんてことはないけど?」
……じゃあ、じゃあこれは何なんだ?
僕の横に伸びる逆さまな人影……それは日が沈むと共に、暗闇の中へと消えて行ったはずでした。しかし今のそれは暗闇の中でもその輪郭が分かるほど濃く、黒をより強い黒さで焼きつけています。
それはとても……今にも消えかけていたあの人影と同じだとは信じられませんでした。ええ、消えかけていた人影がBかもしれないと信じていなければ、この得体の知れない何かと下校することはなかったんです。
それだとまるで、一人で下校する僕の心を、記憶を読んで、影がBだと思う様に誘導したかのような……。
逆さまの人影は、僕の招きに応じたのだから当然だと訴えるように玄関の下から家の中へと入っていきました。
……あ、部長さん。今、僕の足元を見ましたか?どうです?逆さまの人影は見えましたか?
見えなかった?ああ、それは残念です。僕以外にも見える人が居たら、その人に興味を持ってくれるかもしれないんですけどね。まあ僕も、最近では学校の中にまで付いてくることがあるあの影をはっきりと見たくないので、この部屋が暗くて良かったですよ。
こう話しておいて何ですが、別に何かされたと言うわけでもないんです。今でも僕はこの逆さまの人影と一緒に帰っています。下校して、影は僕の部屋まで上がってきます。どれだけ全力で逃げても無視しても、意味はありませんでした。もう散々思い知らされましたよ。
でも。それが他の人にとってもそうであるとは限らないですよね。僕以外の人に絶対見えないとは断言できませんし、そして訳の分からない逆さまの人影がこの先悪意のある行動をとらない保証はありません。
……一か月後に、Bが復学するんです。ずっと、ずっと待っていた、本当に喜ばしいことです。
本当に、本当に良かった……。
でも僕は、Bと一緒には帰れません……帰る気はありません。これまでBはずっと病院に居たんです。高校生活を送れないでいたんです。どれだけ低くても、誰のものとも知れない逆さまの人影が何かをする可能性がある以上、Bを逆さまの人影と一緒に下校させるわけにはいかないんです。
だから僕はこの学校を卒業するまで……もしかしたら卒業してからもずっと、一人で帰り道を歩かなくてはいけないんです。
元々は夏のホラーの題材である「帰り道」のために考えていたものですが、惰性に過ごすうちに期限が過ぎていました。
怖い話ではないかもしれませんが、読んで頂いた方に感謝です。