三人目:逆さまの人影(上)
『
少し昔の一世を風靡したホラー映画や小説などを見てると、思うことがあるんです。恐怖を演出するための媒体や道具ってのは、時代と共に変わっていくものなんだなって。
例えば絵巻。例えば本。例えばVHS。例えば携帯。でもそう言った移り変わりの中でも共通しているのは、人の身近にあるものってことではないでしょうか。人の生活の中で当たり前にあるもの。それが自分の思う通りにならなくて、あまつさえそれが原因となって想像もしていないような結末になる。自論ですけど僕は、それが不可思議な話に大事な要素の一つだと思うんですよね。
じゃあ人の、究極的に身近にあるものってなんでしょう?当たり前になくてはならなくて、それでいつも通りでないと不安に思えるものとは?
なんて問いかけてみましたけど、それは人によりますよね。
……結局僕が"それ"をその一例として挙げるのは、ある実体験があったからなんです。そう言ったことがあったので僕は、"それ"を強く意識するようになったんです。
僕にとっての"それ"とは影です。人の、影です。こういった話でそれなりに扱われる題材ですし、前振りの趣旨とは少し外れていっているかもしれませんが許してください。
ですが、自分や他の人の影を意識する機会なんて普段はそれほどないと思うんです。少し薄暗い夕暮れに、曲がり角からぼぅっと伸びる人影なんかが見えたら警戒心が湧いてくるかもしれませんが、何もない時に視線を落として影に注目なんてしないのではないでしょうか?
けれど人影は、普遍的にあるものです。明かりがあるなら人にくっついていなければならないものです。それが消えて無くなったり、あまつさえ勝手に歩き出すなんて普通じゃあり得ません。それでも僕の代わりに授業を受けてくれて、それで出席扱いになるのでしたら独りでに動いてくれても大歓迎ですけど、それだけでは怪談や不思議な話と言うにはやや不足でしょう。
ああ……そうでした。これを話す前に言っておかなくてはいけません。今ここはカーテンを閉めていますし、光源も一か所しかありませんし、ちょっと暗めですよね。僕にとってはそれが凄くありがたいんです。怪談とか七不思議を話す場所はこうでなくては。
……だからお願いします。これ以上この部屋を明るくしないでください……少なくとも、僕がいる間は。
あれは秋風の吹き始めた、けれど日差しはまだまだ肌を焦がす時分のことでした。その頃僕はちょっと気分が落ち込んでいたんです。一緒にこの高校に入学するはずだった友人の体調があまり芳しくなくてですね。僕と違って要領がよくて気遣いが出来る、本当に優しい友人なんです。あまりコミュニケーションが得意でない僕を上手くフォローしてくれたり、歩くのが遅い僕の歩幅に何時も合わせてくれたり……そんな大切な友人が、最悪の場合一度も高校に来ることもないまま病院で亡くなってしまうかもしれなくて、気が気でなかったんです。
落ち込んでいると俯きがちに、視線が下がりがちになるって言うのは本当なんですね。いつも通り寂しく一人で下校する際に僕は、校門から校外へと出て行く生徒の皆さんの影ばかりを眺めていました。いえ、眺めているというほど影を意識していた訳ではありません。Bの状態の事を深く考えたくなくて、なんとなく目に入る人影の数をぼんやりと数えていたんです。
その日はたまたま生徒の皆さんの下校のタイミングが重なったのか、正面から照り付けてくる陽光を受けて出来た人影が幾重にも交差していて、まるで漆黒の絨毯が敷かれているようでした。そんな人影の集合体を見ていると、Bが元気ならあの影の一部が彼のものだったのかもしれない、とふっと考えが浮かんできてなんだか余計に落ち込んできてしまったんです。
もう悪い方向に考えるのは止めよう。絶対に良くなるんだから。
そう言い聞かせて負の感情を追い出すように頭を振った僕の後ろから、スッと濃い黒の何かが迫ってきました。
人の頭の影です。後ろから下校する生徒が近づいてきたと思った僕は、反射的にその影を避けて道を譲りました。ぼんやりとしていた僕が帰路の邪魔であることは明白ですからね。ごめんなさいと頭を下げて……そこでおかしなことに気が付きました。
人影って光源によって形や方向や濃さが変わりますよね。その日は下校する生徒の背中に後ろから付き従う影ばかり見ていたからこそ気付いたのですが、その頭の影は異様に濃かったのです。
いえそもそも……後方には影が出来るような光源なんて無いので……頭を先頭にして伸びる形の影が背後から近づいて来ることなんてないはずなんですよ。
では……僕が頭を下げたこの影は一体何なんでしょう。この影の持ち主は、誰なんでしょう。
混乱した頭が虚空に向かって下げられる中、そのあり得るはずのない逆さまの人影はさも当たり前のようにスッと僕の横を通り過ぎていきました。まるで見えない人間がそこに居て本当に歩いている様に、二本の足を地面で揺らしながら。生徒たちの側を悠然と通り過ぎ、門扉の近くで立ち止まったんです。
その様子の全てを呆然としながら見終えた僕は、すぐさま周囲の反応を窺いました。人影が堂々と独りでに動いているんですよ?下校中の生徒は周りに幾らでもいますし、影が立ち止まった門扉の近くには下校中の生徒を見送っている先生だっています。流石に気が付いて騒然とする人だっているはずですよね。
ですが誰も特に変わった様子は見せません。どころか突っ立ったまま困惑の表情で周囲を見回す僕が怪訝に見返される始末です。
Bの事を気にするあまり、気が触れて幻覚でも見てしまったんだろうか。そう納得しようにも、影は依然として門扉の横で立ち止まっています。生徒の下校をそこで見送っているかのように。あるいは、誰かを待っている様に。
……僕は勇気を振り絞って門の側に立っている先生に声を掛けました。と言いましても、この勇気は自分が正常なのか確かめるのが怖くて奮いだしたものです。まだこの時は、自分の頭や精神状態がおかしくなって幻覚を見ているんじゃないかと不安でしたから。この体験をするまで僕は、オカルト全般を枯れ尾花だと鼻で笑っていましたからね。
幸いにもと言うべきか、まさに鼻で笑われそうな説明を、先生は邪険にするようなこともなく聞いてくれました。そうして地面を、未だに佇んでいる影を指さす僕の顔を覗き込んで心配そうな表情を見せた後、優しくこう言ったんです。
「悪いが、俺にはその人影は見えないな」
「そうですか」僕は繰り返して「そうですか……」
同意されたらされたで困りものですが、見えない、とはっきり言われた僕は何とも上手く返せず下を向きました。反論すれば自分の異常さを証明するようにも思え、かと言って自分が異常だと納得するには逆さまの人影は現実的すぎたのです。だから先生の言葉を、自分が異常だと言うことを素直に受け入れて帰路につくことが出来ず、立ち止まったまま次の一歩が踏み出せませんでした。
そんな僕に対して先生は、更に柔らかくゆっくりと話し始めました。
「でもな、声を大にしては言えないが俺はそういったこともあると思っているんだ。例えば学校生活に未練を残して亡くなってしまった人が、例えば様々な事情で学校に通えなかった人が、霊になって学校に通うこともあるんじゃないかって。生きている間に出来なかったことを、せめて少しでもいいから、と未練を叶えにやって来ることもあるんじゃないかって。だからその人影は、もしかしたらそう言った霊なんかのものかもしれないな……」
……今だから冷静にこう考えられます。僕の酷い顔色を見た先生が、気休めにそう語ってくれたんだって。しかし軽く恐慌状態だったその時の僕は、その言葉に縋らざるを得ませんでした。
自分は正常だ。問題ない。狂ってなんかいない……ふふ、可笑しいですよね?だって自分が正常だと認めると言うことは、それまで欠片も信じていなかった不可思議なものが存在していると、それが自分だけに見えていると認めることになるんですから。そのために僕は、先生の根拠のない気休めの言葉に縋りついていたんですから。
……今となってはこの時の愚かな思考を嗤うことなんてできないんですがね。
とにかく僕は自分にこう言い聞かせたんです。学校に通っている霊が生徒たちを見送りに来た。もしくはどこかに帰ろうとしている。理由は分からないけれど、それが今の自分には見えてしまっている。それだけ、ただそれだけだ。
自分を無理やりそう納得させて僕は、先生に礼を述べた後で校門を出るために歩き始めました。
一歩、二歩。三歩、四歩……。
十歩、十一歩……顔を上げて、一呼吸、して。怖いもの見たさか、やっぱり摩訶不思議なものなんて存在していないと思いたかったのか……自分でもはっきりと分かりません。ただ僕はそこで、駄目だと思いつつも振り返ってしまったんです。
振り返った校門に、あの逆さの人影はありませんでした。それは忽然と消えていて、いつも通りの下校風景があるのみです。
幻覚だったのか、それとも超常的な何かの影だったのか……とにかくほっとした僕は、自分の頭を軽く小突きながら長い帰り道を歩き始めました。
何を考えていたんだ、と。何時までも気にしてはいけない、と。
次の日の下校になって。当然、昨日のおかしな人影が今日もあるのかどうか気になってしまいますよね?何なら僕は、登校の際にもおっかなびっくりで校門を駆け抜けたくらいですよ。豪胆な方は特に気にせず下校出来るのかもしれませんが、僕には気丈さなんてものはありませんので……見ないように見ないようにと思いつつも、ついつい視線が下がって地面を意識してしまいました。
曇り気味で昨日よりも少し薄暗い校門には、いつも通り大勢の生徒が帰宅をしている姿が、先生が見送りをしている姿があります。いつも通りではない昨日の人影が混じっている様子はありません。
あれはやっぱり、自分がおかしくなっていただけだったんだ。一日経って少々冷静になった僕は、原因が自分にあったのだと受け止めて自然と安堵の息を吐き出していました。
息を吐いて、少し頭が下がって。
ぞわり、と全身が総毛立ちました。
丸くて黒い何か。それが昨日と同じように、僕の後ろから音もなく現れたんです。
影は……あの逆さまの人影は僕がおかしくなっていたから見えたんじゃなかった!?いや、今も自分はおかしくなっているのか!?
そうも思いましたが、総毛立った理由はそれではありません。だって……逆さまの人影は昨日に続いてまたもや僕の後ろから現れたんですよ?だったら、こう思ってしまうじゃないですか。
理由も目的も分からないが、この人影は明らかに僕を認識して姿を見せている、と。
昨日は特に何かされると言うことはありませんでした。しかし、今日は?今日も何もないとは限りません。
全身が竦んでいる僕の横を、逆さまの人影は通り過ぎていきます。曇り気味で暗い地面を、更に暗く染めながら。そのまま逆さまの人影は校門の門扉のすぐ横で止まり、そこでようやく僕は酸素を入れることを忘れていた肺に空気を送り込むことが出来ました。
そうして人影の僅かな動きを見逃さまいと注視しながら、二度、三度と深く息をついて。人影から最大限に距離をとりながら一気に校門を駆け抜けたんです。
実際のところ僕の心配は杞憂でした。昨日と同じように振り返った校門には、逆さまの人影の姿も形もありません。ただこの日僕が校門を振り返った理由は、何かに見られているような、粘り付くような視線を背中に感じたからでした。
……僕は校門から顔を背けた後、何となしに自分の影を見つめ、それが自分にくっついていることに奇妙な安堵を覚えながら帰宅したんです。
その日の夜、病院に入院しているBのお母さんから二週間ぶりに連絡を頂きました。
忙しくて事後の報告になってごめんなさい。ここ最近息子の容態が安定していたので、この機にと昨日手術を行いました。息子は必ず良くなるので、どうか○○君は安心していて下さい、と。
実際はもっと丁寧な挨拶と医療的な説明して下さったのですが、専門用語が多くて把握しきれませんでした。それに正直なところ、逆さまの人影の事を頭の中から消しきれなくてお話に集中できないでいたんです。
僕は毛布に包まりながら、ただただ心の底からBの快復を祈りました。
逆さまの人影は、次の日も、その次の日も、また次の日も帰路につく僕の背後から現れました。そうするのが自然だと言うように。いつもの光景のように。僕の横を通り、僕を見送る様に門扉の横に立ち止まって、そして僕が校門を過ぎると消えるのです。
もはや帰宅の際に逆さまの人影が現れることが日常となって、幾ら僕が気が弱いとは言えそれに慣れてきていました。
その中で唯一の変化と言えば、その人影が少しずつ薄くなっていることでした。とは言え、逆さまの人影の行動はやはり変わりません。
僕の後ろから現れて、通り過ぎて、見送って。毎日、毎日。毎日毎日。ただそれだけを律儀に繰り返すのです。
このままいけば、数か月後にはこの人影は綺麗さっぱり消えて無くなるかもしれない。逆さまの人影に慣れてきていた僕は、それのいなくなった校門を振り返りながらそんなことを考える余裕さえ出てきていました。
もっとも、手術は成功したものの意識が戻らず容態が徐々に悪化しているBのことがあったので、陰鬱な気持ちが晴れることはないままでしたが。
逆さまの人影と初めて遭遇してからおおよそ一か月が経った頃でしょうか。その日校門に立っていた先生は、僕が初めて逆さまの人影を見つけたあの日と同じ方でした。そのこともあってか僕の脳裏に、忘れかけていた先生の言葉が急に蘇ったんです。
"例えば様々な事情で学校に通えなかった人が、霊になって学校に通うこともあるんじゃないかって"。
僕が下校すると現れ、けれど特に害意がある様にも見えない逆さまの人影。僕はこれまでその人影の事を恐れ、戸惑い、慣れて無視していました。ええ、軽く眺めたり、出来るだけ距離を取ったりすることはありましたが、その影に自分から近寄ったり、声を掛けてみたりすることなんて無かったのです。
ただ……あまり順調とは言えない学校生活に疲れて。そこまで仲の良い友人が出来なくて、ずっと一人で長い帰り道を歩いて。そんな僕を逆さまの人影は毎日見送ってくれいるようにも見えて。先生の言葉も重なって、少し警戒を解いてしまったんです。
この人影の主は、僕を気に掛けてくれているのかもしれない。もしかしたら生前僕と同じような境遇で、とぼとぼと背中を丸めて帰宅する僕を見送ってくれているのかもしれない。いや、未練を無くすために僕に何か気付いてほしくて姿を見せている、なんてこともあるのかも。
……気の迷いでした。愚かな奴だと笑ってください。これまで通り横を通り過ぎようとする逆さまの影に向かって、僕は一歩だけ歩み寄ってみたのです。たかだが一歩近づいてみたところで人影のいつもの行動が変わることはないだろう、と思っていた上での行為でもありました。
人影が地で弾み、そこに僕が近づいて。ぴたり、と影のつま先が止まりました。それはこれまで人影が見せたことのない動作で、僕のノミの心臓は本気で口から飛び出てしまうのかと思うほど早鐘を打ちましたよ。
対して人影は僕の心臓の荒れ狂う鼓動ほどの激しい動きどころか、僕の体の震えほども動きません。頭を先頭にスッと伸びる影は、僕と向かい合って対峙するような位置取りのまま微動だにもしないんです。
僕の次の動きを待っている、と言いたげに。
この逆さまの人影に生身の人間のような表情があれば、どうすべきなのかが多少は分かったでしょう。しかし相手は影ですから表情から感情は汲み取れませんし、仮に汲みとれたところで超常のそれに人の道理が通用するとは限りません。
大丈夫。これまでこの人影から危害を加えられたことはないんだ。そもそも影がどんな方法で襲って来るって言うんだ。だから大丈夫。
同じ文言を何度か心の中で繰り返し繰り返し、僕は後頭部がじんじんと痺れている頭を何とか持ち上げて歩き始めました。
実のところ僕の足がすんなりと動いたのは、自分自身を鼓舞出来たからではありません。こんな不可思議な人影を前にしておいておかしいと思われるでしょうが、僕には下校中の生徒から注がれる奇異なものを見るような視線も耐え難かったんです。
一歩、二歩。逆さまの人影に動きはありません。そこで僕の右足と、それより少し大きい逆さまの両足が丁度真横に並びました。三歩、四歩、五歩。僕の左足が、影のくるぶし辺りより少し前に出て。
そこで逆さまの人影は、一度地面を軽く蹴るように動いたんです。
それは。その動きは……僕にとってとても見覚えのあるものでした。例え逆さまであろうとも、見間違えるはずがありません。
「B……?」
僕に合わせて歩く速度を落とすその一歩目、Bは決まって地面を軽く蹴り上げるんです。
あまり良くない癖だけどなんか直らないんだよな、と彼はよく言っていました。
僕が思わず立ち止まる前に逆さまの人影は、僕の遅い足取りに合わせて、僕と一緒に歩く様に動きます。
それもまた見慣れた、懐かしいとさえ思える動きでした。
まだ暑いから夏です。暑いうちはずっと夏です。