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六話目:真下

 ▶


『チャイムって不思議なものだよね。それが鳴れば授業が始まって、終わって、休み時間だという区切りが分かる。


 いつも何となく聞き流しているけど、これは学生を効率的に管理するための方法の一つなのかもしれないね。


 何か共通の認識があれば、人はどこか安心を覚えるんだと思う。チャイム、校則、部活……そういったものが、多感な年頃の人間が一同に会する場所では必要なんじゃないかな。


 同じだから安心する。違うから恐怖する。人は自分にないものを他人に求めるっていうけれどそれは、ないって自覚しているものに限られていると思うんだ。


 まぁ、私もその一人だよね。上から見下ろすような言葉遣いは癖なんだ。君を不快にさせてしまったら申し訳ないね。




 あれは、枝毛をいじりながら国語の授業を受けていた時のことだった。


 窓から差し込む眩い日差しが鬱陶しいほどの猛暑ばかりの夏には、できるだけ窓側の席にはなりたくないものさ。だけど私は運悪く、席替えでその席を引き当ててしまっていたんだよね。


 軽く髪を耳に引っ掛けて、ノートのまっさらなページを涼しそうだなって感じて。


 そうしていると、ふと、少し開いた窓から何か生臭い臭いが漂ってきたんだよ。


 それは生ごみの詰まったゴミ箱の蓋を開けたときのような臭さでさ。だけど、犬の肉球のような、妙に生物臭いと言うか、少しの香ばしさが入り混じった臭いでもあったんだ。


 一瞬、私は自分の鼻腔がおかしくなったのかと思ったよ。


 だけどその臭いを嗅いだのは、どうやら私だけじゃないようだった。


 前の席に座っているクラスメートが、あからさまに窓に目を向けたからね。少し見えた横顔は、明らかに不快な様子を物語っていたよ。


 いっそ私は彼に声をかけようかと思って、けれどすぐに躊躇ってしまった。


 授業中だから、という考えはなかったね。ただ窓に手をかけて外を覗き込もうとする彼の仕草を見て、どこか安堵してしまったんだ。


 窓の外にこの臭いの原因があるとして、それを真っ先に覗き込むことはしたくなかったんだよ。


 そこで私は、その臭いに漠然とした不安を抱いていることに気がついたんだ。妙に生臭い臭いがこびり付いて離れないのは何も鼻の中だけじゃなかったんだ。


 心臓が嫌に暴れ出して、呼吸が不思議と荒くなっていく。


 うん。正直に言えば、恐ろしかった。


 その臭いが、じゃない。臭いに得体の知れない恐怖を覚えている自分が。


 理性によって制御できると思っていた本能が体中に必死に警鐘を鳴らして、冷たいものが血潮みたいに流れて全身を痺れさせていく。

 理由もなく、確信もない。なのに、不吉な予感が離れない。


 だから私は、彼に続いて窓から外を見つめた。


 今でも浅ましいと思うよ。私は、同じ臭いに反応した彼を見捨てていないと、理性的に考えてそんな得体の知れない恐怖などないと、言い訳をしたんだ。


 彼の反応から、窓の外を眺めるくらいなら問題ないんだろうと確信した上でね。


 窓の外から見える景色には、なんの変化もない。いつもの校舎、いつもの運動場、いつもの……


 だけど、分かっていた。


 高い場所から眺める景色は美しいけれど、真下を覗いて感じるのは美しさでなく恐怖と、ちょっとした高揚だ。


 自分がここから落ちたらどうなるのか。


 真剣に考えるまでもなく分かっている。間違いなく体を地面に打ちつけて、死んでしまうんだろう。


 だけど……だけどほんの少しだけ、この体を宙に預けて飛んでみたい。何かから、解放されたい。自由になりたい。


 そう、思ったことはないかな?


 恐怖、ってものは窓から眺めた景色にあるんじゃなくて、いつも見えない真下にあるんじゃないかな?


 その時の私は、生唾を飲み込んで這い上がる恐怖を抑えようとした。


 窓の外はやっぱりいつも通りだ。臭いの原因がなんであっても、それが得体の知れないものであるはずがない。


 だから、この窓の真下に何かがあるはずがないんだ……。


 心のなかでそう唱えていると、私の身体が突然跳ね上がった。


 何ごとかと思うと、前の席のクラスメートが悲鳴を上げながら立ち上がっていたんだ。私はその大声に気が付けないほど、意識を窓の真下に持っていかれていたんだよ。


 なんであれ、クラスメートが授業中に悲鳴を上げるほどの何かが窓の先にある。


 なら、見なければいい。それが、理性的な人間の振る舞いでしょう?


 なのに私は……真下を覗き込んでしまったんだ。


 あぁ。クラスメートの悲鳴を聞いた私は、自分をその暗い歓喜の中へと放り出してみたくなってしまったんだ。


 その先に、真下に何かが居た。何か、と言ったのはそれが何なのか分からなくて、頭が真っ白になったからだ。


 それは、そいつは校舎の壁に、水膨れした皮膚をべたりと張り付いていた。


 濡れた髪の間から見える、灰色のいやに大きな瞳と目が合う。窪んだ眼窩からぷくりと浮き出たその瞳は、灰色に濁っているくせにこちらに視線を向けていることが嫌に分かる。


 そのくせ、そいつが動く様子はない。


 じっと、じっと、待ち構えている。


 この窓の真下を覗き込んでくる獲物が、落ちてくるのを。


 私が椅子を倒して、がたん、と大きく音を響かせてしまったのと、チャイムが鳴ったのは同時だった。


 自然と、先に立ち上がった前の席の男子生徒の方に顔を向けると、向こうも訳知り顔で私に向かって頷いてきた。


 その後、どうしたのかと先生に問われても私も男子生徒も何も言えなかった。


 あの臭いはいつの間にかなくなっていて、私が意を決してもう一度見た真下には、壁に張り付いたヤモリの暢気な姿しかなかったんだ。



 その日から、そいつの姿を夢に見るようになった。


 それに、あの嗅ぐだけで胸がむかむかするような臭いが時々漂ってくるので、正直に言えば私は学校に行きたくなかった。


 でも。私と同じものを見た前の席の男子生徒が、毎日学校に来ているんだ。


 彼はあれから一度も窓から外を眺めないけれど、それでも休むことなく学校に来ているんだ。


 なのに、私が先に休むなんて……。


 前の席の彼とは、臭いが漂って来ると目が合うくらいで、あれからあの時のことについての話もしていない。


 これも、何だかその時の話を自分から切り出すのは癪だったからだ。


 はは、我ながら馬鹿らしい対抗心だね。


 ……ううん。もう、そんなものしか、恐怖を誤魔化す術がなかったんだ。


 あれからも何度か、私は窓から真下を見た。


 いつもは何もないけれど、臭いが漂ってくるとあいつはいつもそこに居る。


 いや。明らかに近づいてきていた。私が見ているときは見つめ返して来るだけで、ピクリとも動かないのに。


 少しずつ、少しずつ。


 あいつの崩れた笑みが、そこから垂れる粘っこい液体が、はっきりと見えるようになって来ていた。


 あいつは真下にいて、獲物が落ちて来るのを待っているんだと思っていたけど、そうじゃない。


 一度それを見てしまったらきっと、向こうの方から獲物を迎えにいくんだ。


 水が少しずつ、容器の中に満ちていくみたいに。



 その日は、一限目からあの臭いが漂って来ていて、とても憂鬱だった。


 もう、体を窓の外へと乗り出すまでもない。ちょっと覗き込むように顔を向ければ、あいつの長い髪が、青白い額が見える。


 聞こえるはずがないのに……深い息づかいが、微かに聞こえる。その音に合わせて、生臭さが強くなっていく。


 こいつは、生きている。


 そう実感した時、私は自分が書いていた文字が歪んでいたことに気が付いたんだ。


 そいつの指が欠けた手が、私に届くところまで来たら?教室にまで、入ってきたら?


 暑い夏の盛りなのに、全身が震えているのが分かって。息が苦しくなって、視界が明滅の中で溶けていって。


 何が何だか分からない。


 どうして馬鹿みたいに前の席の男子と張り合って、学校に来ているんだろう。


 情けない限りだけど、泣きそうにすらなっていたよ。


 なのに、前の席の男子はちっともあいつを気にする様な素振りを見せない。


 八つ当たりだとは分かっていても、それがとても腹立って仕方なかった。


 私はようやく矜持を捨てて、彼と話すことに決めたんだ。


 どうやってあの化け物のことを頭から消し去っているのか。あの臭いがする度に、窓の外のそいつがどうなっているのかどうして気にならないのか。


 彼と私の精神性は違うかもしれないけど、参考になる事はあるかもしれない。


 だから放課後、図書室に来て貰ったんだ。


 放課後を図書室で過ごす生徒の大体は、勉強熱心か本が好きなんだろうね。体育館や運動場から聞こえる喧騒はそこにも届いていたけれど、この場の静けさは崩せなかった。


 むしろ騒がしさが遠くからやってくるからこそ、静かなこの場に重みがあるのだと感じたよ。と言っても私の胸の内は、そんな静けさとは正反対だったけどね。


 前の席の男子の様子はというと、私に呼び出されたことをどこか納得しているようだった。図書室の中でも人気のない場所に座った私は、早速話を始めたんだ。


「あのさ。あの日のことなんだけど……」


 あの化け物のことをずばりと言うはずが、私が切り出せたのはそんな言葉だった。不思議なものだよ。今更、あの化け物のことを話すのに躊躇するなんてね。


 だけど彼は、何度か頷いて私の言葉を引き継いだ。


「ああ、やっぱりAさんも見たんだ!いや、びっくりしたよね」


 それはやけに軽い口調で、私は少しだけ困惑してしまった。そんな私の様子に気が付いたのか、彼は自ら話を始める。


「でも、人には本当のことを言えないしなぁ。あ、それにあの日もそうだけど、最近変な匂いがするよね?」


「……そうだね。あの臭いにはほとほと困っているんだ。君も……そうでしょう?」


「いやほんと。最初は、俺が汗臭いのかと思ってたよ。でも、制汗剤かけても変わんないしなぁ」


 笑いながら制汗剤の入ったスプレー缶を取り出してきた男子生徒に、私は渇いた笑みでしか返せなかった。


 私と彼の重みは、どこか違う。そう感じて、胸がざわめく。


 彼はまだ、窓の外から風景を眺めているだけのような……。


「それにしても、あの日のヤモリ、めっちゃでかかったよね!?俺、爬虫類が苦手でさぁ」


「……は?」


 ヤモリ?


 私は想像もしていなかった言葉に、呆然として彼を見つめた。


「俺もだけど、いつも冷静なAさんなんて特に、高校生になってヤモリを見たくらいで驚いたなんて言えないよなぁ。あ、勿論言いふらしたりなんかしないから大丈夫!今日のこれ、そのことを念押しするためでしょ?」


 違う。ヤモリなんかじゃない。


 化け物だよ!化け物が、窓のすぐ下に居るんだ!


 ……なんて、言えなかった。


 私は彼が、同じあいつを見ていると思っていたんだ。だからどこか安心して、対抗して、私は学校に来ていたんだ。


 でも、違った。彼は同じじゃない。


 私一人だけが、あいつを見て、あいつに見られている……。


 あの、ぷくりと浮き出た灰色の瞳で。


 彼から漂う制汗剤の爽やかな匂いに、私はなんだか吐き気を覚えそうになっていた。




 それから彼と何を話したのか、正直なところ覚えていない。


 ただ家に帰って自室で一人になって、毛布に包まってずっと震えていた。


 当然、学校には行かなくなった。あの化け物が真下からやってくるまできっと、数日のことだと思うから。




 ……B君。君がここまで聞いてくれていると信じているよ。そしてこの先も、聞いてくれるってね。ここからは原稿がないんだ。だからちょっと、聞き苦しくなると思う。


 私は今、早朝の学校にいる。


 だって、気付いたんだ。真下って、どこにでもあるんだ、って。


 昨日、私の部屋から見える窓の下がふと気になってしまったんだ。気にしないように、務めるほどにね。


 同時に、あの臭いが漂って来た。息遣いが聞こえた。視線を感じた。


 いるんだよ。きっとあいつは、どこにでも。


 もう、逃げられない。だったら潔く、それを最初に見た場所で最期を迎えようじゃないか。


 ……はは。


 はぁ……なんて、思えるわけないじゃないか。同じ臭いに気が付いて、同じ窓から下を見た。なのに、私だけがあの化け物を見て、知っているなんて理不尽じゃないか。


 だからB君、聞いてくれ。君が暢気に笑っていたあのとき、私がどんなことを考え、思っていたかってことを。君は理不尽だと感じるだろうけど、私も同じ気持ちだよ。


 それにしても、あぁ……なんて酷い臭いなんだろう。これはやっぱり、あいつの臭いなんだろうか。人は気が付かないだけで、こいつはいつもこの臭いを垂れ流しているんだろうか?


 でも、少なくとも君は、この臭いには気が付いていたよね?


 ふぅぅぅぅ……。うん、窓を開けるよ。予想と違って、窓の方を軽く見ただけじゃあ、あの化け物の姿は見えないね。


 真下を見るよ?いいかな?


 え?……あれ?いない?何で?何でいないの?生臭い息遣いが傍に聞こえるのに!?


 何で……?


 うわぁっ!!


 あ……ああ……。


 はは……頭の上に今、なにか生暖かくてどろりとしたものが落ちて来たよ。


 なんだ、そっかぁ……。


 真下だけじゃ、なかったんだね。』





 スマートフォンの光が、画面から消え失せる。


 あるクラスメートの録音を聞かせ終えた男子生徒は、一つ息を吐いた。


 静まり返った放送室に用意されている設置型の消臭剤は、予想外に集まった人の多さには敵わなかったようだ。微かに香水と制汗剤が入り混じった空気は、どこか甘ったるい。


 それでも隠し切れない人間の体臭が、微かに漂ってもいた。


 男子生徒は録音が切れた後は何も言わず、ただ窓の外を眺めていた。


 その顔が突然僅かに歪んだのは、怪談を話す場に合わせた演技なのか、それとも反射的なものだったのか。


 それとも……。


 それは彼以外の誰にも分からなかった。

この話も誇れるものではないですが、もう過去の話を見ることがホラーな今日この頃です。

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